2020年10月24日

日本占領下・バリ島からの報告:鈴木政平(351)

自粛生活で、読書がすすむ。

残念なことに、読む本がなくなった。

蔵書を引っ張り出しみた。

再読した本を紹介する。

「日本占領下・バリ島からの報告(東南アジアでの救育政策):鈴木政平」

日本軍占領下のアンボンとバリ島に、2年半の間、赴任した教育者が残した報告書。

日本認識、日本的訓練、日本語教育を目的とした指導に打ち込む著者の姿勢が報告されている。

1943年〜1944年(昭和18年〜昭和19年)のバリ滞在中の報告書は、現在でも大差のない事柄もあり、バリ好きには興味が持てる読み物だろう。

州都が、北部バリのシンガラジャだった頃の実話。

私は訪れた1990年に、同様の感想を得たことに驚いた。

46年の時を経ても、まったく変わらない文化がそこにあった。

そして、30年後の現在を訪れる人々は、変わらないと感じるか、変わったと感じるか。

そんなことに興味があって、この本の内容を原文のままで抜粋して記載した。

Report from Bali1.jpg


第二信 第一節 バリ島点描

この島はどこへ行っても田、田、田、田の連続であります。

半年ぶりで一望千里の水田を見たときの私たちのよろこびを想像してみてください。

まったく内地へ帰ったような親しみを感じたものであります。

しかも、水利が非常によく行きとどいて、山の中腹まで開拓されているのは感心のほかはありません。

畔の切り方、苗代の様式、苗の植え方、農夫のすげ笠までが、内地とほとんど同じです。

もしその間に椰子の木立の点在がなかったならば、誰だって内地に来たんじゃないか、という錯覚をおこしたにちがいありません。

ところがここに、内地の水田風景とは途方もなくちがった一点があるのです。

こちらでは早苗をとっているかと思うと、その隣では稲が一尺も伸びて青々と波うっている、そうかと思うと向こうからは、抜穂の収穫を頭にのせて運んでくる女の群れがあるといった有様なんです。

つまり内地の、4、5、6、7、8、9、10、11月の水田風景が、ここでは同じ場所に圧縮されて、一緒くたに展開されている。

年柄年中稲が実るという証拠ですが、しかし聞けば、年二回の収穫はせぬという。──施肥をしないから、二回とったんでは地力がつづかない、というのです。


第八節 

この島を訪れる誰でもが、ヒンズー文化の伝統を引く建築、彫刻のすぐれた特異性におどろかぬものはないでしょう。

それはもちろん奈良時代などに現れたような渾然たる総合性は見られず、またあれほど優雅、巧緻、精彩、気品はありませんが、しかし、それにもまさる単純が豪壮さがあり、神秘的な諧謔さがあります。

さらにここ独特のゴン音楽と踊りとが織りなす絢爛たる総合的舞踊芸術に至っては、遺憾ながら日本には比肩すべきものがないのではないかと思われるほどであります。


第三信 第十五節 伝統的文化と宗教指導 

すでに多くの人々によっても紹介せられているように、独自の香りとゆたかな個性に彩られた輝かしい固有の文化を発見するものでありまして、その意味では南方地域においてはまれに見る文化人だということが出来るのであります。

これは通りすがりの旅行者などにもただちにそれと感得出来るような際立ったすがたを呈しているもので、例えば寺院建築、それに配置された彫像、あるいは集落形式、家屋構造、住民の風俗等は特にそうでありますが、もししばらく滞在でもするものであれば、さらに独特の音楽や舞踊、さては祭式、年中行事等にも自然にふれる機会が出てきますし、絵画や工芸などの特色を発見するにも至るでしょう。

卒然としてこの島にやってきた人々でさえもそうでありますから、もしジャワやその他の島々についての見聞や知識をもったものであれば、さらにいっそう鋭くその特異性について印象を得るでしょうし、この小っぽけな島だけが万緑中の紅一点のごとく、別種の彩りをもっているのかと、研究的な興味をさえそそられるにちがいないと思われます。


旅行者や研究家たちはよく「バリ人の生活はスンバーヤン(祭祀)に終始している」とか「千ヶ寺の島バリ」とか語っていますが、これは決して誇張した言葉ではなく、正しく事実の真を突いたものということが出来ます。

二カ年に近いバリの生活において我々は、スンバーヤンの主要なるものについては若干の知識をもつことができましたが、その細かなものに至っては枚挙にいとまなく、到底理解どころではない有様でありました。

−−シンガラジャ市内だけに限って見ても、スンバーヤンの供物をささげた盛装の女たちを見ぬ日とては少ないほどで、いったいこの島にはどれほどの祭日があるか、なんびとも容易に知ることの出来ない有様であります。

冠婚葬祭はもとより、ほとんど一切の年中行事がヒンズー信仰にもとづいていることは申すまでもなく、建築彫刻絵画工芸、音楽舞踊演劇等、何らかの意味でヒンズー教につながりをもたぬものは少ないのであります。

彼らが生活歴(これはインド伝来の太陰暦でありますが)のほかスンバーヤン歴(一年を二百十日とす。すなわち七日を一単位とするもの三十箇によりて構成せらる)をもっていること、そしてその祭祀歴が圧倒的な力をもっていて、生活歴の使用が主として農事に限られていることなども、彼らの信仰生活の根ぶかさを物語っているものと申さねばなりません。


結信 第二節 バリ人諸君に呈する書

十年後、二十年後のバリ、それはいったいどんなすがたのものであろう。

アゴン山は依然としてその雄姿を三千余メートルの天空に聳立させているだろうし、バトール湖は今日と同じようにバトール山の噴煙を映しているだろうし、ニッピやサラスワテの奇習もまた今日と同様年々歳々に行われているだろうし、ガロンガンのペンジョル(飾り物)は相変わらず諸君の家の門口や街頭を美しく飾っているだろう。

諸君は相変わらずゴンを楽しみ闘鶏に興じ、ハリラヤには取っておきの美しいサロンやスレンダンを着飾ってお寺詣りに忙しいことだろう。

おそらくこうした生活の面には何ら変化もないことだろう。

そして私もこうした方面には変化ないことを希望してやまないものである。


どうでしたが?

自分の感想と、相違はありましたか?

きっと、同感する部分も多かったと思います。

77年を経ても、変わらないバリは素晴らしい。


「日本占領下・バリ島からの報告」著者:鈴木政平
 (1999年8月16日・第1刷発行)
(アパ?の蔵書あります。貸し出し可)


posted by ito-san at 17:26| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月15日

知っていました? バリの祭壇・祠の数々(350)

《 知っていましたか? 》

ウブドを散策していて、T字路の交じ合う場所に、必ずと言ってよいほど祠が設置されているのを。

屋根を持たない座椅子のような造りの祠です。

このあたりには神々のいることが多く、平穏無事を願う村人は、神々に休んで頂こうと祠に供物を用意して感謝をあらわしているのだそうです。


Padmasana1.jpg
ウブド大通りとスリウェダリ通りのT字路

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ウブド大通りとハヌマン通りのT字路

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ハヌマン通りとデヴィシータ通りのT字路

寺院や屋敷寺にも、座所がある。

大寺院の祭壇を「パドマサナ=Padmasana」と呼ぶが、小さな祠は「パドマサリ=Padmasana」と呼び分けているようです。

この解釈でいくと、T字路の祠はパドマサリと呼ぶのかな。

村人は、使い分けているようには思えないが。

神々や祭壇には様々あり、名称がはっきりしないところもある。

パドマサナは、太陽神スルヨ(Surya)のための祭壇。

スルヨはバリ・ヒンドゥーの教えによると、最高神イダ・サンヒャン・ウィディ(Ida Sanghyan widhi)でもあり、またシワ神でもある。

最高神イダ・サンヒャン・ウィディの座する処なので、上部に物質はないのです。

神々は、祭礼時に決められた祭壇に降臨してくると考えられている。

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プラタナンサシ寺院のパドマサナ

Padmasana_Gusti.jpg
グスティ家の屋敷寺のパドマサナ


フェイスブックに、沖縄にも石敢当(いしがんとう)と呼ばれる、似たような風習があるとのコメントがあった。

T字路に、悪霊除けの石敢当と呼ばれる守り神を置いているそうです。

精霊信仰の残る地域には、同じような風習が残っているようですね。

バリでは、邪悪に対する供物は地面に直接置く。

ブタ・カラと呼ばれる悪霊は、地表を徘徊するするからだ。

パドマサナは、神の座する処との認識のようです。

*蛇足だが、パドマは蓮。
両足を組む座法・蓮華座は「パドマ・アーサナ」と言うようですね。
語源は、ここかな。

バリには、「Tunjung」という呼び名の蓮がある。

Padma_tunjung.jpg
調べてみると、睡蓮のようです


《 知っていましたか? 》

こんなのも、道端に立っているのを。

パドマサナとは、違う形をしていますね。

名称は、Indrablakaと言うそうです。

Indrablaka1.jpg
道端に立つ祠

Indrablaka2.jpg
屋敷門に立つ祠

また、田んぼに立っているのも見かけます。

田んぼには、田んぼと稲の女神デウィ・スリ(Dewi Sri)を祀っている。

これはサンガと呼ぶようです。

Sanga.jpg
田んぼに立つ祠

一般カーストの屋敷寺もサンガ。

このタイプの祠は、寺院や屋敷寺などにもあるが名称は異なるようです。

限りなく面倒なので、私はこれ以上知るのをやめることにした。


《 知っていましたか? 》

バリ人の屋敷を訪れて、門を入った正面に小さな壁があるのを。

壁の名称は「アリン・アリン=Aling aling」。

aling_aling1.jpg

aling_aling2.jpg

これはマジック避けの壁。

手品じゃありませんよ。

レアック=Leakによる魔術のこと。
レアックの話は:「極楽通信・UBUD 」レアック=Leyakをお読みください。

悪しきものの侵入を防ぐための壁。

邪悪な存在は、真っ直ぐにしか進めないと考えているようです。

これなんかは、沖縄の石敢当と似てますね。

アリン・アリンを見かけない屋敷も増えてきた。

これは、近年の傾向か?

理解せずに習慣として行ってきた風習が、少しづつ消えていっていると感じる。

変化するのは、仕方がないことだ。

見られるうちに、体験しておきたいと思う今日この頃です。


posted by ito-san at 17:14| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月08日

老舗ワルン・Dew Warungの移転(349)

ウブドには、かつてナイトマーケット(夜市)があった。

1989年〜1993年11月22日までの4年間のことです。

地元の人は「センゴール=Senggol」と呼んでいた。

センゴールの昔話は、「極楽通信・UBUD 」センゴール=Senggolをお読みください。

場所は、現在のウブド・パサールの駐車場になっているところ。

駐車場は、午前中は朝市に使われ、午後から駐車場になる。

当時は、砂塵の舞い上がる小さな砂漠のような空き地で、やはり午前中は朝市に使われていた。

夕方になると、カキリマ屋台が15軒ほど運び込まれてセンゴールに変身する。

日本人ツーリストが溜まったワルンは、今のデワ・ワルンの前身だ。

もちろん、私もそこの常連客。


センゴールが閉鎖され、デワ・ワルンはスグリオ通りに出店した。

その後、ゴータマ通りに移る。

「ワルン・ビアビア」の出店は、立地の回遊性とデワ・ワルンがあるということで、今後発展するだろうと考えたからだ。

思惑通りゴータマ通りは、出店が相次ぎ、ツーリストに人気の通りとなった。

格安メニューのデワ・ワルンは、ツーリスト御用達として繁盛店の地位を確保とする。


今回のコロナ禍には勝てず、涙を飲んでゴータマ通り店20年の歴史を閉じる。

テガランタン村の実家に移転。

ウブドの中心部から3キロメートルと、これまでに比べると立地は悪くなる。

老舗の根性を見せて欲しいと願う。




実家テガランタンのワルン。

偶然、スリン(笛)奏者で有名なGus Teja君に会う。

彼は、デワ・ワルンの常連のようだ。




屋敷裏に田んぼの風景が残っていた。




食べているところのレポート。

これは食レポとは言わないようです。




デワ君とのツーショット。

恥ずかしがり屋なのに、よく写ってくれました。


Wewa_Warung Menu.jpg





posted by ito-san at 16:23| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月03日

第3弾:徘徊老人のハイカイ先は? (348)

今日も今日とて、あてどもなく徘徊。

コンセプトの乏しい動画ですか、コロナ禍終息まで、今しばらくお付き合いください。


《 第9回:徘徊老人・ダラム寺院ウブド 》

15分57秒の長い徘徊ですゾ!

火葬場の場面で挿入した動画が、急に大きな音になるのでご注意ください。




《 第10回:徘徊老人・トゥブサヨ村裏道 》

今回の徘徊目的は「Aji Bungalow」の確認です。

途中、空しか写っていない箇所があったので5分ほどカットしました。




《 第11回:徘徊老人・ウブド王宮周辺 》

ウブド王宮の敷地を一周する道があるのをご存知でしたか。

今回は、観光客のあまり利用しない裏道を徘徊しました。

なんの変哲もない小道ですが、情報として知っていても良いかも。




《 第12回:徘徊老人・トゥブサヨからプリアタンへ 》

戻りは、上り坂が長くて疲れた。




posted by ito-san at 18:52| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする