今、フェイスブックのUbud-ianで《 ウブドなんでも事典 》を連載している。
@すの項目で、スマラ・ラティ(Semara Ratih)歌舞団を書いていて、急に思い出したことがある。
それは、ウブドの定期公演で初めてだと思われるアンコールのこと。
背景が曖昧だったので、その当時の定期公演の常連だった影武者の女将・由美さんに確認してみた。
彼女は覚えていて、その記憶をブログに書いたことがあるという。
ブルグは「ダプール・バリ 神々の島の台所」で、「Semara Ratih」のタイトルで書かれてあった。
https://blog.goo.ne.jp/dapurbali/e/a3973d7cdddf51d276234c1f9610954e?fbclid=IwAR30lca3trVpGjuaB4sDLc020avS1dVtqQz85OQpI4vYLgtQAY1OGBDARpQ
彼女のブログを参考に、私も当時の光景を思い出してみた。
1995年頃のことだと彼女は言う。
この頃、スマララティの定期公演の観客は、常時100人ほどの入り。
オランダ公演前の定期公演だっただろうか、演目の全てが終わってからも拍手は鳴り止まない。
海外公演に臨むメンバーの意気込みがそうさせたのか、魂の入った演奏と舞踊だった。
この日の演目は、ウエルカム・ダンス、演奏曲、アノム氏のバリス・トゥンガル、レゴン・ジョボッグ、ジャウック、演奏曲、ワヤン・プルワントのクビヤール・ドゥドゥック、アユのトルナ・ジャヤ。
感動を抑え切れない観客が総立ちになった。
観客全員が同じ思いだったのだろう、アンコールの声があがる。
メンバーも驚いたことだろう。
ガムラン演奏が始まった。
お約束のアンコールではない、演者と観客が望むアンコールだ。
折角だから《 ウブドなんでも事典 》の「スマラ・ラティ(Semara Ratih)歌舞団」を紹介しておく。
Semaraは愛の神、 Ratihは月の女神だが、Semara Ratihは、肉体的な愛の結合の意。
1988年:グループ結成
リーダー:アノム氏=Anak Agung Gede Anom Putra
バリの芸能は元来、神々のために奉納されるもの。
ガムランは、王宮や村(バンジャール)が所有し、おもに儀礼のために演奏されていた。
スマラ・ラティは、今までのような古い習慣にとらわれない純粋に芸術性を求めて活動できる集団を創りたいと考えた。
目的を同じくするASTI(現在ISI=インドネシア芸術大学)の卒業生や在校生、そして、ウブド近郊の村々の優秀なガムラン奏者と踊り手たちによって結成された。
アノム氏と奥さんのアユと妹のオカ、演奏者で舞踊家でもあるマデ・シジャ&グスティ・ラナン、クビヤールのデワ・マハルディカ&ワヤン・プラワント、客員として高名な舞踊家が参加した。
ガムラン奏者のリーダーは、太鼓奏者で感覚派のデワ・ブラタ氏(現在Cudamani=スダマニのリーダー)と精巧派のチャタル氏。
鍵盤楽器の中心を奏でるデワ・アリット君(現在Gamelan Salukatのリーダー)の優雅なバチさばきも見応えがあった。
結成初期、村人たちは、彼らに練習場を提供しなかったと言う。
「ほかの村にお願いにいっても、掌をひらひらさせて皮膚病の犬でも追い払うように扱われた」とアノム氏は語る。
屈辱的行為を受けたわけだ。
ウブド村から遠く離れた村で、隠れるように練習を重ねる日が続いた。
グループのメンバーに対しても嫌がらせや邪魔が入り、練習ができないことが何度もあった。
そんなことでグループを脱退して行く者も出た。
収入のないグループに、メンバーは手弁当で参加した。
そして1990年、いよいよ定期公演(ラーマヤナ舞踊劇)をすることになる。
公演は、ラーマヤナ舞踊劇。
舞踊劇の前に、アノム氏のバリス・トゥンガルが演じられた。
定期公演は旗揚げしたものの、ウブドの観光案内所でチケットは扱ってもらえず、旅行者が訊ねても案内所では何も教えない。
そんなことから、メンバー自らチケットを売って歩いた。
まったく情報のない状態で、メンバーが誘った観客が前列に10人も満たないという、寂しい日が何ヶ月も続いた。
それでもメンバーたちは、いかにも楽しそうに公演している。
実力は、年々認められ、知名度があがっていく。
初の日本公演は、1992年。
日本公演後、定期公演はラーマヤナ舞踊劇から、日本公演で成功した演目に変わった。
バレガンジュールで入場には、度肝を抜かれた。
バリス・トゥンガル=アノム
レゴン・ジョボク=オカ&アユ・ワルン
クブヤール・トロンポン=デワ・マハルディカ
故デワ・マハルディカ
タルナ・ジャヤ=アユ
思い出すたびに、目頭が熱くなる。