2022年03月31日

マディ・クルトネゴロ氏のアトリエ発見!@UBUD(415)

Kuni Takeuchi氏から、一枚の写真が届いた。

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ウブド大通り北進し、アンドンの交差点をテガララン方面に左折して、10分くらい歩いた場所で20年前に撮った写真だと言う。

1990年5月から滞在している私にも、見覚えのない風景だった。

あまり行くことのなかった場所なのだろう。

「デルタ・デワタ」も「ガソリン・スタンド」も、な〜んにもなかった時代。

2002年以降、ウブドを訪ねていない友人は言う。

「マディ・クルトネゴロ氏のアトリエは、どうなってますか?」

写真右中央に写っている、ツノ二つあの建物が「マデ・クルトネゴロ氏のギャラリー」のようだ。

クルトネゴロ氏の著書は読んでいる。

「ウブッド十字路の番人」(1997年4月15日・発行)訳者:竹内邦愛

「スピリット・ジャーニー」(1990年7月15日・発行)訳者:竹内邦愛

どちらもウブドに関わる内容で、大いに参考にしている。

訳者が友人のKuni Takeuchi氏だ。


クルトネゴロ氏の名前は存じているが面識はない。

「アトリエ」の所在もアヤフヤだった。

これを機会に、いにしえを訪ねることにした。

「マディ・クルトネゴロ氏」のアトリエ探しだ。

ウブドは、午後2時頃になると好天に恵まれる、今日この頃。

この日も、絶好の陽光が射していた。

運動不足解消に、散歩することにした。

「デルタ・デワタをスタート地点として、テガララン方面に向かう。

「スーパー・ぺピート」までの10分ほどを、解説しながらの動画におさめたい。

予想が外れ、小雨が降り始めてきたが、雨天決行。

道の両側を撮るには無理があるので、今回は、北側の街並みだけを撮影することにした。

警察署、グヌンモルタ・バンガロー、BNI銀行、ドラム・ファクトリー、などなど、知ったところが飛び飛びにある。

普段は、バイクで「デルタ・デワタ・スーパー」か「BNI」もしくは「ガソリンスタンド」に直行するので、他は素通りだ。

ゆっくり歩いて、じっくり見聞。




「スーパー・ぺピート」に着くと、雨が激しくなってきた。

復路も動画を撮ろうとしたが、尋常の雨ではない。

慌てて、目の前にあったワルンに飛び込む。

ジャムー(インドネシア漢方)のワルンだ。

ジンジャーのジャムーを頼んで、腰を下ろす。

壁の写真を見ると、見覚えのある顔が写っている。

ここが、画家&ヒーラーであるクルトネゴロ氏のアトリエだ。

奥には、ギャラリーと瞑想場があるようだ。

この日は不在だった。

写真と同じ場所に立つと、アトリエは、建築物の陰になり、まったく見えなくなる。




動画をフェイスブックにアップすると、さっそくKuni Takeuchiさんから興味深い写真が数枚届いた。

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「Future Peace Art Studio」という名称だったことを思い出す。

古きウブドには、こういったユニークな建物がチョクチョクあった。

観光地として賑やかになる以前のウブドが彷彿される建物だと思っている。

国内・国外の変わり種アーチストが徘徊しているのが、私のウブドのイメージ。

posted by ito-san at 22:56| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月25日

20周年だぜ「ワルン・ビアビア」! (414)

ワルン・ビアビアが、今年9月に20周年を迎える。

ゴータマ通りにオープンしたのは、2002年のこと。

モンキフォレスト通りとハヌマン通りに挟まれたゴータマ通りは、デヴィシータ通りで交差するが、その先は鬱蒼とした森と竹林だった。

ビアビアは、デヴィシータ通りまでの250mほどの屋敷町にある。

当時は、ウブドの老舗ワルン「デワ・ワルン」しかなかった寂しい通り。

観光客が通るのも珍しいほどの場所のため、地代は安かった。

当時の誰もが、繁華な通りに変貌するとは考えなかっただろう。

年を重ねるごとに、観光客が溢れる人気スポットとなっていった。

車がすれ違うことのできない狭い通りのため全面駐車禁止、時間帯で遊歩道になる(バイクはOK)。

家賃は年々、高騰していく。


初代オーナーは、Sさん。

ウブドで知り合った日本人で、縁があって私がデザインをさせてもらった。

メニューはバリ家庭料理。

家庭料理なら、プロの料理人を雇わなくてもバリ人

Sさんは、契約期間の10年間経営に携わった。

10年目に、現在のオーナーN君に譲った。

N君は、店のデザインを気に入っていて、できるだけ原型のまま使ってくれている。

Sさんは飲食店経営は素人、私もほ素人同然の経験しかないが、N君は経験者としてのノウハウを持っていた。

今では、ウブドの老舗ワルンとしてのポジションを確保している。

20周年のアニバーサリーを迎えられるのは、N君の努力の賜物だ。


私の思い入れのある店なので、いつも気にかけている店です。

今回は、そんなビアビアの思い入れの部分を写真におさめて、解説したいと思います。

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エントランスの壁には、ガネーシャ像を安置。

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壁の裏は、バリの台所を模して、上にはアンティックを飾った。

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敷地に立っていた木を使った手すり。

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トイレの間仕切りに、手作りの半円タイルをレイアウト。
枝も敷地にあった木から。


壁面にグルリと一周するように貼られた陶版に、記憶はありますか?

20年近く前、当時、ウブドにあった店&滞在者&旅行者に、お願いして彫ってもらった陶版です。

メモリープレートとして、リピーターに喜んでいるもらえるとかと考え、作りました。

硬くなる前に彫った物、硬くなってから彫った物、それぞれに趣があって傑作です。

私が彫った物も数点あります。

知った名前は、ありましたか?

それとも、あなたの陶版があったりして。

ジックリとご覧ください!

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水草アタで編んだ、手作りランプもいいでしょう!

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posted by ito-san at 01:27| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月17日

定期を解約して、通帳に入金してもらうだけでも一苦労(413)

銀行の預金が、そろそろ底を着く頃だ。

通常は、手持ちの日本円を両替しているが、昨年の初頭から円安でレート(2022年3月17日現在:119.90)が悪くなり、定期預金を解約してしのいでいる。

(定期預金をした時点では、レートが130だった)

今、キャッシュのマネーチェンジは良策じゃない。

解約して預金した金額が、残り少なくなりそう。

なくなりそうと心細いのは、残高証明ができないからです。

通帳を持って、銀行に行くのが面倒。

日頃、ATMで出金してるのだから、その時、残高証明用紙を貰ってくればいいのでだが。

その請求の仕方がわからないので、そのまま。

入金は皆無なので、引き下ろした金額を覚えていればいい。

ですが、この金額を忘れてしまうのです。

だから、予想より早い段階で入金することにした。


午後2時、アンドン通りにある「BNI(バンク・ヌガラ・インドネシア)」に出向く。

定期預金を解約して、通帳に入金してもらうためだ。

順番カード46を手に、長椅子に腰を下ろした。

待たされるのは覚悟している。

長い時で、3時間待ったことがある。

本を読んだり、居眠りしたり。

46は、BNIの設立年1946年でロゴマークにもなっている数字。

今日は、いいことあるかな何て、考えたり。

待つこと1時間45分、番号がアナウンスされた。

ブースには、テーブルの向こうに女性スタッフが座っていた。

「よろしくお願いします」と、笑顔で挨拶をする。

手続きがスムーズに行くための、必要なコミュニケーションだ。

ほんとは、私の緊張をほぐすためなのですがね。

定期契約書と通帳を渡す。

隣のブースに47番さんが入ると、待合室には誰一人としていなくなった。

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キャッシュ・カードとリタイヤメント・ビザのカードを要求された。

財布からキャッシュ・カードを、リュックからリタイヤメント・ビザのカードを取り出して渡す。

「パスポートも」と言われ、パスポートのフォトコピーを取り出して渡した。

書類は揃った。

これで完璧だ!

前屈みになっていた身体を、椅子の背もたれに起こし、リラックスする。

そんな私の心も知らずに、女性スタッフは「アスリーでないとダメです!」優しく言う。

パスポートの本物を請求されたのだ。

えっ〜、そうだったけ。

前回は、どうだったんだっけ。

半年前にも、一度解約したけど、すっかり忘れている。

パソコンの画面を見せて「ここに書いてあるでしょう!」と念を押す。

念を押されなくても、彼女に手落ちはないはず。

これは、私の落ち度だ。

パスポートは、どこにしまっただろう。

考えても、浮かばない。

家に帰って調べよう。

「きっと家です」と答えた。

「じゃ、明日の朝に来てください。ここに持参する物を書き出しておきますから」

小さな紙に、メモを書き始めた。

2時間近く待って、あと一手で退却とは情けない。

再度訪問するのは問題ないが、朝はダメだ、ダメダメ。

朝に来るよりは、2時間待つ方がいい。

明日、今日と同じ時間に来るつもりになっていた。

すっかりあきらめ気分で、もう一度、リュックの中を調べた。

????????いい予感!

書類ケースの中のビニールケースに、パスポートは入っていた。

「ありました!」

彼女は、メモを掌で丸めて、ゴミ箱に捨てた。

普通の人ならスムーズに行くことも、私には、波乱万丈の出来事になってしまう。

まずは、一件落着!

posted by ito-san at 20:22| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月14日

バリ島には、まだ神様がいると感じた日!(412)

それは、今月9日のことです。

この日バリでは、ランブット・スダナ(Rambut Sedana)の吉日だった。

ウク暦の第二十八週(Kelawu)の rabu(水)-wageの日。

(ウク暦:http://informationcenter-apa.com/kb_wuku.html

お金に感謝し、大金の貸し借りはしない、借金を返さない日とされている。

商売を営んでいる家では、必ず、祠に供物を捧げる。

近くに市場の寺院(ムランティン)がある場合は、お祈りをして聖水を頂いてくる。

(寺院:http://informationcenter-apa.com/kb_pura.html

Rambut Sedanaは、バリ語の丁寧語の“rambut(=hidup・生きる)”“sida(=bisa・できる)”“na(=bahan・材料)”の3つの言葉からなる。


午後5時30分、下宿に戻ってから、今日がランブット・スダナの吉日だと気づいた。

ウブドの市場は今、新築工事のため解体工事の真っ最中。

三面を工事用養生壁に囲まれた、今までと違うムランティン寺院に、お祈りの人々は戸惑っているのではないだろうか。

思いついたら吉日と、写真を撮りに、再びバイクにまたがった。

モンキーフォレスト通りで、解体中の「チンタ・グリル」を見つけ、スマホにおさめた後に市場へ。

時間帯のせいか、毎年混雑しているムランティン寺院に村人の姿はなく、なんの問題も起こっていようだった。

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午後6時に帰宅。

撮ってきた写真をフェースブックのウブディアンにアップするため、パソコンを開いた。

事件は、この時点で発覚する。

ウエストポーチに、スマートフォンが入っていないのだ。

な〜んだ、そんなことかと、ソッポ向かないでくださいよ。

昨年、Rp350万で買ったばかりで、一年も経っていないですよ。

私にとっては、ATMにカードが飲み込まれたに次ぐ、近年にない一大事。

金銭はもちろんだが、不便になるのも困る。

部屋に入ってからの行動をたどってみた。

六畳一間の部屋で、パソコンまで数歩しか歩いていない。

リュックの中もズボンのポケットも調べたが、見つからない。

どこかで落としたとしか、考えられない。

記憶をたどってみる。

ムランティン寺院で写真を撮った後、警備のバリ人と会話を交わしていて、ウエストポーチに的確におさまっていなかったかもしれない。

バイク走行中に一度、足元に何かが落ちる感触があった。

その時は、小枝か木の実でも落ちてきたと思ったが、あれがスマホだったかも知れない。

ムランティン寺院からあとのバイク走行を、リピートすることにした。

急いだので部屋着の短パン姿で、バイクに飛び乗った。

ハヌマン通りをたどってみる。

スマホらしき物体は、バイクのステップで弾んで、右方向に落ちた。

滑って反対車線の側溝付近に、落ちているかもしれないと視線を向ける。

対向車に踏まれて、壊れてしまっているかもしれない。

どちらにしても、満足な形では残っていないだろうと、探すのをあきらめた。

警察に落し物届けを出すことも考えたが、日本ならまだしもこの地では出てくることは期待できない。

帰宅してから、アパ?情報センターのワヤン君に、スマホに電話を掛けることで探してもらうようにメールをした。

新しく買うことを心で決めた。

2、3日は不便だが、それは仕方がない。

この事態に、落ち込まなかったのが、不思議だ。


扉が叩かれた。

大家さんの息子さんだった。

手に、スマホを持っている。

見たことのある画面だが、スマホはどれも同じトップページだと気づく。

息子さんが口にした言葉が、信じられなかった。

「これ、itoさんのスマホですか?」

狐に包まれたおもいで、スマホを手にする。

間違いなく、私の物だった。

彼は、下宿近くの「グリーフイールド・リゾート」のフロントに勤めている。

お客様が、近くで拾って届けてくれたようだ。

ハヌマン通りでなく、下宿の近くで落としたようだ。

拾って届けてくれたのは、ロシア人だった。

ロシア人が神様という話ではない。

バリの神様は、バリに住む人々に、人を思い遣る心を育んでくれているという話です。

ロシアのウクライナ侵攻。

これは、プーチン大統領の蛮行で、ロシアの一般市民に罪はない。

殺戮が早く終わることを願う。

posted by ito-san at 01:28| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月11日

雨に降られたチャロナラン奉納舞踊(411)

今夜(3月5日)、チャロナランの奉納舞踊があるとの情報が「アパ?情報センター」のワヤンさんから入った。

場所は、モンキーフォレスト内にあるダラム寺院パダンテガル村。

チャロナラン歌舞劇は、私の追っかけしていたバリ芸能。

下宿から近い寺院なので、久しぶりにオダラン(寺院祭礼)に参加しようという気になった。

と言っても、お祈りに行くのではなく、奉納舞踊の見学が目的。

ここ数年ぶり、オダラン参拝、奉納舞踊見学をしていない。

寺院には、バリの慣習衣装でないと入れない。

今では見ることが少なくなったが、バリ人は日常、カマン(腰布)を巻いて生活している。

略式正装では、男性はカマンの上にスレンダー(腰紐)をし、頭にはバティック柄のウダン(ハジマキ)を巻く。

祭礼儀礼の正装になると、カマンの上にもう一枚サプットと呼ばれる布を巻く。

儀礼参加の際、スレンダーを重要視しているのが見受けられる。

寺院祭礼の時のサプットは、黄色が主流。

上着は、略式ではTシャツでもいいが、祭礼では白の襟付きシャツが好まれている。

ウダンも白。

私は今、寺院祭礼に参加するための衣装を持っていない。

コロナが蔓延する前に、中部ジャワ・ボロブドゥール遺跡のある村に移住する予定で処分してしまったのだ。

出発予定の4月に外出自粛令が出て、それから行けていない。

と言っても観光客のこと、カマンとサプットを巻いて、スレンダーで縛って、ウダンをしていれば問題ないだろう。

緑色柄のサプットを巻いて、ショールをスレンダー替わりにして、バティック柄のウダンで出発。

経験から、公演は午後10時から翌日の深夜2時頃までが見どころと決めている私は、8時から開演だよと聞いていたが、9時に間に合うように出かけた。

いつも担いでいるリュックは、下宿に置いてきた。

財布とスマホが入ったウエストポーチだけ。

ジックリ翌朝まで、付き合うつもりの軽装だ。

ニュークニン村側の入り口から入る。

ガムランの演奏が聴こえる。

寺院の門を潜ると、テレック舞踊が始まっていた。

楽屋がわりのワンティラン(集会場)には、シシアン舞踊が終わったばかりのようで、踊り娘さんたちは煌びやかな冠を脱ぎ、次の出番の準備に忙しそう。

今夜のステージは、ワンティランじゃない。

境内にカーペットを敷いて、屋根にテントが張られた鉄柱の仮設ステージだ。

ジャウック、ゴンブランの踊りが終わると、しばしテレックと絡む。

全員で退場。

第1幕が終了した。

スピーカーから、節のついたセリフが聴こえる。

第2幕の始まりだ。

私は、ステージ近くに腰を下ろした。

バリ人の中に埋没する。

久しぶりの、デジャブ感!

村人のほとんどがマスクをしている、が、かなり密です。

チョンドン(侍女)役の女性が、私の理解できないセリフを吟じながら登場した。

数人の役者との掛け合いが続く。

老婆チョロン・アランとチョンドンの掛け合いが続いている。

物語は分かっているが、言葉がまったく理解できないので、雰囲気を楽しむことにしている。

チョロン・アランの弟子シシアンたちが、再登場。

髪を振り乱して舞う。


雨が落ちて来た。

踊り手には雨は当たらないが、ガムラン隊の上にテントはない。

雨は、浄化の意味があって、バリ人はあまり気にしない。

小降りなら、このまま続けるだろう。

劇は続いている。

私も座り続ける。

突然の大雨。

観客が、一斉に屋根のある建物に移動する。

さすがにこの雨は、浄化を超えている。

雨と光のコントラストに、神がかった美しさを感じた。

ガムランの演奏は、まだ続いている。


演奏が止まった。

一旦中止するようだ。

11時、雨でTシャツ&カマンがスブ濡れになった私は、大事をとって帰宅することにした。


観客は、ほとんど残っている。


第3幕、道化の演技が始まったようだ。

チャロナラン歌舞劇は、これから面白くなるところ。

後ろ髪を引かれる思いで、寺院を後にした。

posted by ito-san at 01:32| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月05日

盛り上がりを見せた「オゴホゴ神輿行列」 @ プンゴセカン村(410)

コロナ感染症の蔓延で、2020年&2021年と2年続けて中止となった「オゴホゴ(Ogoh-ogoh)神輿行列」。

オゴホゴ:http://informationcenter-apa.com/kb_ogoh_ogoh.html

2020年は、完成まじかで中止の宣告。

”オゴホゴで疫病払いだ”と意気込んでいた、村人の落胆は大きかった。

8月に神輿行列ができるかもとの噂があったが、それも中止。

翌年2021年には担ぐことができるだろうと、オゴホゴは保存された。

その夢も無残に打ち砕かれた。

コロナ禍の2022年、中止・決行の沙汰が繰り返され、間際になって小振りなものならOKという決断。

間に合わないと諦めた村、小規模に作っていた村、州都デンパサールでは「コロナ、何のその!」と立派な張りぼてが完成していた。

ウブドは諦めた村。

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子供達も、楽しみにしてたのでしょう!


パダンテガルは、11体が出来上がっていて、数日前に行列を行った。



ウブド近郊では、ペネスタナン村&プンゴセカン村が、遂行された。

私が見学したプンゴセカン村は、例年より外国人&他村からの観客が多かったように見受けられた。

観客動員数の多い、ウブド、プリアタン、パダンテガルが中止になったので、こちらに集まったのだろう。

オープニングには、マスクの着用勧告するアナウンスがあった。

午後7時から神輿行列が始まり、パフォーマンスが9時まで続いた。

村人は、開催できたことに感謝するかのように力強く、そして笑顔だった。

観客も、つられるように楽しげだった。


オゴホゴは、各村ごとに制作される張りぼて人形の神輿のこと。

バリでは、サコ暦(saka)の新年前夜に、悪霊を追い出す儀礼がある。

サコ暦:http://informationcenter-apa.com/kb_saka.html

オゴホゴ神輿は、悪霊払いの一つとして行われる行事。

前夜は、月が隠れる日・暗月(ティラム・Bulan Tilem)。

太陰暦であるサコ暦の一月(サシー・Sasih)は、暗月の次の日から始まって次の暗月までの30日間。

満月(プルナモ・Bulan Pernama)に向けて月が満ちていく前半と、月が欠けていく後半からなる。

新年の1日目は、ニュピと呼ばれる静寂の日である。

ニュピ:http://informationcenter-apa.com/kb_nyepi.html

今年は、SAKA1944年。

第10番目の月(サシ・クダソ=Sasih kadasa)で、例年、西暦の3月か4月になる。

西暦では、2022年3月3日となった。

ニュピは、その日1日、労働、通りへの外出、火の使用、殺生などが禁じられている。

テレビの放映はなく、空港でさえも閉鎖される徹底ぶり。

この4つを守り、精神を集中させ、心を穏やかにし、世界の平和、最高神イダ・サンヒャン・ウィディに祈るのが、バリ人の信仰するヒンドゥーの慣習。

ロシアのウクライナ攻撃が、1日も早く収束することを願った人も多かったことでしょう。

世界が平穏でありますように!


動画は、プンゴセカン村。


posted by ito-san at 14:14| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする