そうそう、そうだったという情報メモ。
「極楽通信・ウブド」《ウブドnoニュース》からの抜き出しです。
1974年以前のウブドの歴史は「極楽通信・UBUD・ウブド歴史年表」を参照してください
https://informationcenter-apa.com/kb_rekisi.html
1974年:*電気開通
1976年:ネカ美術館開館
政府から正式に美術館と認められたのは1982年7月7日
1978年:*郵便局開設
1978年:「シティ・バンガロー=Siti Bungalows」開業@カジェン通り
1979年11月5日:「ベガーズブッシュ(Beggars Bush)」開店@チャンプアン吊り橋の西袂
オーナー・Victor Mason(Birds of Baliの著者・イギリス人)
1980年:新しいチャンプアン橋の開通(1925年:チャンプアンの吊り橋が完成)
1981年:ティルタ・サリ歌舞団結成
1982年:日本人経営の宿泊施設「マタハリ・ペンション」オープン
1983年:「カフェ・ロータス」開店@ウブド大通り
オーナー・写真家リオ ヘルミ(地主・ウブドの王族)
1983年:ビナ・ウィサタ(観光案内所)開設。
シルビオ・サントーサ氏の提案によって村民有志が運営
1984年:*電話開設
1985年:芸能の定期公演始まる
1986年:日本人経営のレストラン「ウブド・ラヤ」開店
1986年12月1日:アナック・アグン・グデ・ングラ・マンダラ死去(享年81歳)プリアタンの芸能を世界の知らしめ「グンカ=偉大なる父」と慕われる
1988年:スマラ・ラティ歌舞団結成
1989年:ウブド市場にセンゴール(夜市)が開店
1989年:「アマンダリ・ホテル」オープン
高級リゾート化への幕開け
1989年6月:ビナ・ウィサタがウブド村議会主導となる
1990年:「ワルン・カチュ(Warung Kacu)」開店@デヴィシータ通り
1990年:小物雑貨の店「茶々=チャチャ=chacha 」開店@モンキーフォレスト通り
1990年5月7日:伊藤博史のウブド長期滞在始まる
1990年:ナシ・パダンの「ドゥン・サナック」開店@ハヌマン通り
1991年7月10日:日本食レストラン「影武者」開店@プンゴセカン通り
1991年:サテ・カンビン「ワルン・マドゥラ」開店
1992年:「イブ・ライ=Ibu Rai Restaurant & Bar」開店@モンキーフォレスト通り
1993年:マス村と島根県邑智町が友好都市となる
1993年:レストラン「ミロス」開店
1993年11月22日:センゴール閉鎖・閉鎖理由はレストランからの圧力
1994年:ウブド・イラストマップ配布(画・いとうちづる女史)フォトコピー(白黒)配布
1994年12月25日:「極楽通信・UBUD」発刊 Vol.1〜Vol.3
http://www.potomak.com/bali/ubud/ubud.html
1995年:映画「Puputan Margarana」バリで撮影、ウブド在住の外国人多数出演・完成しなかった
1995年:ママズ・ワルン@スクマ通り・トゥブサヨ村
1995年:スパゲティの店「アパ・カバール」開店@デヴィシータ通り
1995年:カフェ・エグザイルス(Cafe EXILESE)開店@マデ・ルバ通り
1995年8月20日:アパ?情報センター創設@モンキーフォレスト通り
1996年3月25日:「バリ島 楽園紀行」発売・新潮社・とんぼの本
1996年6月9日:アルマ美術館開館
1997年2月:ニュークニン村とシンガクルタ村を繋ぐ、S字型架橋が完成
1997年4月21日:カフェ・アンカサ開店@スゥエタ通り
1997年7月25日:伊藤さん・50歳記念・アグン山登頂
1998年:*ガス・ステーション一号店(テガス=Teges)
1998年:「ユリアティ・ハウス=Yuliati Hause」オープン@スクマ通り
極楽通信・UBUD vol-25.pdf
1999年:画家アントニオ・ブランコ死去(享年88歳)
ブランコ・ルネッサンス美術館開館。
1999年6月30日:「極楽通信・UBUD」廃刊 Vol.1〜Vol.30
2001年3月:「ティガティガ=Tiga Tiga」開店@デヴィシータ通り
2001年9月:「カキアン・カフェ」開店@ポンゴセカン通り
2001年11月19日:信号設置第一号はアンドンの交差点、続いてテガスの交差点
2002年4月:バリ料理専門の店「Biah Biah」開店@デヴィシータ通り
2002年10月1日:本格的バー「バー・ラビアン・ローズ」開店@サンギンガン通り
2002年10月12日:クタ爆弾テロ
2003年:バレルン・ステージ定期公演始まる@プリアタン村
2003年1月:ウブド変則十字路の南西角(モンキーフォレスト通り)の集合店舗が撤去
2003年1月:ケテケテ大流行
2003年2月:ホテル経営危機
クプクプ・バロン閉館、チェディはアリラ(ALILA)に経営移行
2003年2月:パサール・プリアタン、リニューアル・オープン
2003年5月:「踊る島の昼と夜」漫画家・深谷陽氏(5月7日出版)
2003年6月:ウブドの変則十字路、コンクリート・ブロック(20cm角)敷き
2003年8月:ピザ・バグース移転オープン(プンゴセカン通り)
2003年8月11日:西ジャワ料理「WARUNG IGELANCA」開店@ネカ・ギャラリー前
2003年9月:コンビニ一号店「デルタ・デワタ」開店@カフェワヤン前
2004年:「インドネシア中華・ワルンタマン」開店@スリウェダリ通り
2004年:大型リゾートの「ホテル・ロイヤル・ピタマハ」がオープン
2004年:「Setia Darma House of Masks and Puppets」開館@マス村
2004年3月:イダ・バグース・ラーメン閉店
(日本料理のカンパイ、エンジェル・カフェ、ブンガブンガ閉店)
2004年5月:「ワルン・マンガ・マドゥ=Warung Mangg Madu」開店
2004年9月9日:スーパーマーケット「ビンタン」オープン
2004年12月:ラマックの姉妹店「ワルン・エナッ」開店@プンゴセカン通りスーパー・ホレホレ前
2004年12月:アンドン交差点にアルジュナ王子のモニュメント完成
2004年12月28日:スマトラ島に大地震
2005年:「ヤマハ・オートマチック・スクーターMio」発売
2005年1月:崖崩れ@ペネスタナン村へ行く急な坂道
2005年2月:「KAFE」開店@ハヌマン通り
2005年3月25日:ワルン「MADE RAY」開店@スグリオ通り
2005年5月23日:「the WARONENG」開店@モンキーフォレスト通り・現在「Laughing Buddha Bar」
2005年6月21日:「INDIAN delites」開店@プンゴセカン通りプラマ社前・現在サンギンガン通りに移転
2005年7月8日:ビナ・ウィサタが「U・T・I(Ubud Tourist Information=ウブド・ツーリスト・インフォーメーション)」と名称を変更して村営に
2005年9月:「ティティ・カフェ」開店@ゴータマ南通り・元「エンジェル。カフェ」現在「タクス・スパ」
2005年10月:「ワルン・オペラ(Warung Opera)RESTO CAFE & BAR」開店@PURI DEWATA HOTEL前・バラワン氏コーディネイト
2006年2月:「ワルン・ミー・アヤム・ジャカルタ」開店@ウブド大通り・本店デンパサール
2006年3月:「ポカポカ地球家族」和食・影武者の女将出演、放映日5月13日
2006年5月:「DRAGONFLY」開店@デウィ・シータ通り・旧「乾杯」
2006年6月1日:「Ayam Tulang Lunak・Malioboro」開店@ハヌマン通り・旧「マイマイ」
2006年7月25日:「カフェ・モカ(Cafe Moka)」開店@ウブド大通り
2006年9月2日:日本食レストラン「大和(YAMATO)」開店@ハヌマン通り
2006年10月:「BOTANIC GARDEN UBUD=ウブド植物園」開園@ティルタ・タワール通り
2006年12月31日:スーパー・マーケット「ホレホレ」がスポーツ・センターに業種変え
2006年12月20日:レストラン「BABY FACE」開店@モンキーフォレスト通り・全国に47店舗を構える奈良発祥のレストラン、初海外進出
2006年12月17:フランス料理店「Pignou di Penyu」開店@ゴータマ通り
2006年末:「ワルン・ボダッ・マリア=Warung Bodag Maliah」開店@Subak Sok Wayah 通り
2007年:「クブク=kubuku」が消えた@モンキーフォレスト南通り・現在「Warung Semesta」
2007年3月:「旅の指さし会話集(74)バリ」発売 著者・山本哲也
2007年3月1日:定期公演入場料金の値上げ・Rp50,000ル→Rp80,000
2007年4月:「ケーキショップのKue」開店@ウブド大通り・旧「レストラン・トロピカーナ」
2007年4月:「Bath Fizzの店ayayu」開店@ハヌマン通り
2007年6月18日:「焼き魚のワルン・ミナ」開店@グヌン・サリ通り/ワルン・マンガ・マドゥー前
2007年7月25日:伊藤さん・還暦記念・アグン山登頂
2007年8月17日:ウブド初フライドチキンの店「YUMMY FRIED CHICKEN」開店@モンキーフォレスト通り
2007年8月18日:「プンディ・プンディ=pundi-pundi」開店@ハヌマン通り
2007年19月21日:「日本料理店・萬まる」開店@サンギンガン通り
2007年12月22日:ショッピング・センター「ubud point」開店@モンキーフォレスト通り
2007年12月25日:「サークルK一号店」開店@モンキーフォレスト通り
2008年:「プリ・ルキサン美術館」渓谷が埋められ、立派な割れ門のある駐車場が完成
2008年4月20日:「バリ・シナノヤ(Bali Shinanoya)」開店@ハヌマン通り
2008年6月16日:「PT . Asian Prophecy」開店@プンゴセカン通り
2008年6月19日:「ビン・ハウス(BIN house)」開店@モンキーフォレスト通り
2008年8月25日:「Tropical Restaurant」開店@モンキーフォレスト通り
2008年9月6日:レストラン「ブラック・ビーチ」開店@ハヌマン通り
2008年11月28日:レストラン「Bunut」開店@デヴィシータ通り
2008年12月:「ウブド子供図書館=Tunas Mekar」始動(2010年6月:開館)
2009年1月5日:「カフェ・アンカサ」移転@モンキーフォレスト通り
2009年2月5日:ケーキの店「ホワイト・ボックス」@アンドン通り
2009年2月14日:タイ料理店「サイアム・サリー(SIAM SALLY)」開店@プンゴセカン通り
2009年3月2日:可愛いケーキ店「ホワイト・ボックス(White Box)」開店@アンドン通り・現在「Fu Shou Noodle Club」
2009年3月21日:「ウブド・本の交換会」始まる@第1回「カフェ・アンカサ」・10年100回続く
2009年3月13日:「バリ島ウブド・楽園の散歩道」出版
2009年5月2日:アート・ショップ「Manik Muncar」開店@ハヌマン通り・現在「スーパーCOCO」
2009年5月26日:「ウブド役場=KANTOR LURAH UBUD」完成
2009年7月7日:ダイアナ事件・地盤沈下!!
2009年8月:バンガロー「プラサンティ=PRASANTI」オープン@ペネスタナン村
2009年9月1日:「Coco bistro」開店@ウブド大通り
2009年9月23日:「サリナ・ワルン」開店@スリウェダリ通り・テガランタン村
2009年9月28日:「The Pond」開店@プンゴセカン通り
2009年10月15日:ハリウッド映画「「eat, pray, love」」の撮影
2009年11月:「Warung Sawah Indah」開店@サワインダ通り
2009年11月11日:「レストラン・イスタンブール」開店@プンゴセカン通り
2009年12月31日:「第1回年越し仮装パーティ」@「カフェ・アンカサ」モンキーフォレスト通り
2010年:「ホンダ・オートマチック・スクーターScoopy」発売
2010年:「レストラン&ラウンジ・カユン=Kayun」開店@マス村・ビダダリギャラリー内
2010年1月:カジェン通り奥・橋の完成
2010年1月29日:「Cafe Eclipse」開店@スゥエタ通り・旧「カフェ・アンカサ」
2010年1月31日:エコバッグの販売@ウブド・エコ・プロジェクト(UEP=UBUD ECO PROJECT)
2010年2月5日:「CLEAR CAFE」開店@ハヌマン通り
2010年4月17日:ワルン・ソパ=Warung・sopa」開店@スグリオ通り
2010年5月:「Warung Semesta」開店@モンキーフォレスト南通り
2010年6月26日:「モコ(Dewa Putu Mokoh)氏」死去・1934年生まれの享年76歳
2010年7月23日:「Warung Janggar Ulam」開店@ゴア・ガジャ通り
2010年8月10:アヤム・ゴレン「アスリ・プランバナン=ASLI PRAMBANAN」開店@アンドン十字路
2010年9月:「サンティカ・スパ=Santika Spa」開店@Subak Sok Wayah通り
2010年9月5日:「Warung HANA」開店@ゴア・ガジャ通り
2010年9月8日:Tシャツ専門店「ニルマラ(Nirmala)」開店@ハヌマン通り
2010年9月9日:「スターバックス・コーヒー=STARBUCKS C0FFEE」開店@カジェン通り入り口
2010年10月:「バリ・エコ・カルタ」発売@CUB(クリーン・アップ・バリ)企画
2010年10月7日:「ボレロ(BOLLERO)」開店@デヴィ・シータ通り
2010年10月8日:「TACO CASA 'n GRILL」開店@プンゴセカン通り
2010年10月29日:「Makasih」UBUDプラスチックバックが人気@モンキーフォレスト通り
2010年11月12日:「Warung Pulau Kelapa」開店@サンギンガン通り
2010年12月:「レストランOO.PS」開店@旧「BB'S CAFE & DELI」
2010年12月5日:「sisiプンゴセカン店」開店@プンゴセカン村
2010年12月31日:「第2回年越し仮装パーティ」@「カフェ・アンカサ」モンキーフォレスト通り
続く・・・
加筆・訂正可能です。
情報・写真の提供をお待ちしております。
2022年11月28日
2022年11月21日
sun sun warung @ Jl.Jembawan(471)
知人のツイッターにアップされていた、ウブドでツーリストに人気のレストラン「sun sun warung」。
店名はワルン(warung)となっているが、価格はレストランレベルなので、レストランと呼ばせてもらいます。
ジュンバワン通りの老舗レストラン「バリ・ブッダ」の南隣にある。
ブログでも紹介されていて、気になっていたので、初の訪問。
レストランといっても、店舗があるわけではなかった。
屋敷を解放して食事を提供するスタイルのワルンは、これまでにもあったし、今でもある。
道沿いの店舗が繁盛して、拡張したいのだが、土地はないし、設備投資にも予算がかかる。
とりあえず、日常使っている棟のテラスを活用しようということになる。
テラスの利用が、意外と人気になる要素になった。
バリの屋敷は、バリ伝統建築で作られている。
バリ人が信仰するヒンドゥー・バリの屋敷寺は、敷地内の聖なる方角・山側(ウブドの場合はアグン山側)にある。
屋敷門の位置によって、入り口側にあるか奥にあるかは違うが、レイアウトはどこも同じである。
屋敷には、役目の決まった棟が数個建っている。
入り口を入ってすぐのところに建つ米倉「ジナン」。
屋敷寺の横には、家長の寝室である「バレ・ダジョー」。
庭の中央には、儀礼がおこなわれる東屋「バレ・ダギン」。
聖なる屋敷寺の対角線上の地所に、台所(パオン)などがある。
こんなバリ人の屋敷内のテラスで、貴重な食事体験ができる。
観光客がバリ人の屋敷を訪れることは、ほとんどないだろう。
「sun sun warung」が、ターゲットを観光客に絞ったのも頷ける。
人気のひとつは、そんなところにあるのでは。
心配なのは、屋敷で生活している家族の日常はどうなっているだろう、ということと、祭礼日には休日になるのだろうなと思うこと。
動画は、客席は満席で撮れず、写真が多くなってしまってゴメンなさい。
価格は、ツーリスト向けのようで、ちょっと高め。
BGMは、グス・テジョのスリン(笛)でした。
店名はワルン(warung)となっているが、価格はレストランレベルなので、レストランと呼ばせてもらいます。
ジュンバワン通りの老舗レストラン「バリ・ブッダ」の南隣にある。
ブログでも紹介されていて、気になっていたので、初の訪問。
レストランといっても、店舗があるわけではなかった。
屋敷を解放して食事を提供するスタイルのワルンは、これまでにもあったし、今でもある。
道沿いの店舗が繁盛して、拡張したいのだが、土地はないし、設備投資にも予算がかかる。
とりあえず、日常使っている棟のテラスを活用しようということになる。
テラスの利用が、意外と人気になる要素になった。
バリの屋敷は、バリ伝統建築で作られている。
バリ人が信仰するヒンドゥー・バリの屋敷寺は、敷地内の聖なる方角・山側(ウブドの場合はアグン山側)にある。
屋敷門の位置によって、入り口側にあるか奥にあるかは違うが、レイアウトはどこも同じである。
屋敷には、役目の決まった棟が数個建っている。
入り口を入ってすぐのところに建つ米倉「ジナン」。
屋敷寺の横には、家長の寝室である「バレ・ダジョー」。
庭の中央には、儀礼がおこなわれる東屋「バレ・ダギン」。
聖なる屋敷寺の対角線上の地所に、台所(パオン)などがある。
こんなバリ人の屋敷内のテラスで、貴重な食事体験ができる。
観光客がバリ人の屋敷を訪れることは、ほとんどないだろう。
「sun sun warung」が、ターゲットを観光客に絞ったのも頷ける。
人気のひとつは、そんなところにあるのでは。
心配なのは、屋敷で生活している家族の日常はどうなっているだろう、ということと、祭礼日には休日になるのだろうなと思うこと。
動画は、客席は満席で撮れず、写真が多くなってしまってゴメンなさい。
価格は、ツーリスト向けのようで、ちょっと高め。
BGMは、グス・テジョのスリン(笛)でした。
2022年11月16日
新企画「ミー・ゴレン食べ歩きレポート!」F〜H(470)
好評の「ミー・ゴレン食べ歩きレポート!」。
ゴメンなさい、好評ではありませんでした。
今回は、第七弾から第九弾を、総集編として公開します。
それぞれ、ブログに投稿しているので、重複することをお許しください。
私のYouTube「バリ島ウブドに沈没」をご覧の方にも、動画が重複してしまうことをお許しください。
グッドボタンの数を増やしたいので、投稿しました。
視聴回数を気にするタイプじゃないのですが、あまりにも少ないとモチベーションがあがりませんな。
💲Thanksで支援も募っています。
もうしばらくウブド滞在ができればいいなと、願う今日この頃です。
皆さんの協力を期待してます。
*第七弾「Green kubu Cafe」ミー・ゴレン食べ歩きレポート!@クリキ・テガララン
ブログにも投稿したので、こちらも合わせてお読みください。
instagram spot「 GREEN KUBU CAFE A」あれから5年 @Ubud Bali(462)
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/492649658.html
*第八弾「Dewa Warung」ミー・ゴレン食べ歩きレポート!@テガランタン村
家族同然の「デワ・ワルン」を紹介しないわけにはいかないでしょう。
ブログにも投稿したので、こちらも合わせてお読みください。
Dewa Warungの変遷・三十有余年!(465)
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/492950630.html
*第九弾「Kedai D'Sawah」ミーゴレン食べ歩きレポート!@タガス村
大好きな景色です!
ブログにも投稿したので、こちらも合わせてお読みください。
「Kedai D'SAWAH」ミーゴレン食べ歩きレポート@タガス村(468)
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/493320846.html
ゴメンなさい、好評ではありませんでした。
今回は、第七弾から第九弾を、総集編として公開します。
それぞれ、ブログに投稿しているので、重複することをお許しください。
私のYouTube「バリ島ウブドに沈没」をご覧の方にも、動画が重複してしまうことをお許しください。
グッドボタンの数を増やしたいので、投稿しました。
視聴回数を気にするタイプじゃないのですが、あまりにも少ないとモチベーションがあがりませんな。
💲Thanksで支援も募っています。
もうしばらくウブド滞在ができればいいなと、願う今日この頃です。
皆さんの協力を期待してます。
*第七弾「Green kubu Cafe」ミー・ゴレン食べ歩きレポート!@クリキ・テガララン
ブログにも投稿したので、こちらも合わせてお読みください。
instagram spot「 GREEN KUBU CAFE A」あれから5年 @Ubud Bali(462)
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/492649658.html
*第八弾「Dewa Warung」ミー・ゴレン食べ歩きレポート!@テガランタン村
家族同然の「デワ・ワルン」を紹介しないわけにはいかないでしょう。
ブログにも投稿したので、こちらも合わせてお読みください。
Dewa Warungの変遷・三十有余年!(465)
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/492950630.html
*第九弾「Kedai D'Sawah」ミーゴレン食べ歩きレポート!@タガス村
大好きな景色です!
ブログにも投稿したので、こちらも合わせてお読みください。
「Kedai D'SAWAH」ミーゴレン食べ歩きレポート@タガス村(468)
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/493320846.html
2022年11月13日
Museum Arkelogoi Gedong Arca=グドン・アルチャ考古学博物館(469)
ひと月ほど前のこと。
私のYouTube「バリ島ウブドに沈没(https://www.youtube.com/@bali75)」に、視聴者のひとりから「ペジェンの考古学博物館に行ったことがあるのですが、よくわからなかったので、展示品の説明をしてくれると嬉しいです!」というコメントがあった。
考古学博物館の正式名は「Museum Arkelogoi Gedong Arca」。
日本語に訳すと「グドン・アルチャ考古学博物館」。
ウブドの東2.5キロのペジェン村にある。
私も10年以上前に行ったきり。
その時の感想は、視聴者の方と同様に「よくわからなかった」であった。
考古学博物館に、貴重な出土品が展示品されていることは知っていた。
しかし、それらの出土品の時代背景をまったく理解できなかった。
知りたいとは、思っている。
観光客が訪れることは少なく、現在はローカルの小・中・高等学校の校外学習に使われているようです。
バリを訪れる観光客には、まったく興味の持てない展示品なのだろうか。
そんなことはないと思う。
バリの歴史に興味を持っている観光客はいるはず。
よし、少しでも日本人観光客に説明できるように、私が勉強しよう!
地球の歩き方・バリ島編
入館料:2022年10月25日現在・無料
先日(10月25日)、下調べに行ってきました。
説明書は、英語かインドネシア語。
結論を先に言うと、私の語学力ではまったく理解できませんでした。
パンフレットを頂戴してきた。
「グドン・アルチャ考古学博物館」には、紀元前のものから展示してある。
バリの歴史は、882年に出土した碑文から始まる。
それ以前の歴史は、この考古学博物館の展示品から想像するしかない。
興味惹かれるでしょう!
それでは、ご案内します。
パンフレットは、Google翻訳に一任しました。
申し訳ありません、能力不足で、わかりやすく変換することもできませんでした。
●A展示室 :バリの先史時代
*旧石器時代/旧石器時代とシンプルなレベルの食品調合。
この時代は紀元前 60 万年ほど続き、当時の人間の生活パターンは単純なレベルでの狩猟採集であり、人間はある場所から別の場所 (遊牧民) に隣接する水源に移動して生活していました。
この時の道具の作り方はとてもシンプルで、片端を削るだけです。
シャープとスチール グリップ (片面) として。
この時代のコレクションの中には、形が非常に単純で、不規則で、表面が粗い手斧 (チョッパー) の形をした石器が含まれています。
バリ島では旧石器時代の道具・道具がバトゥール湖、トルニャン村、ケディサン村周辺で発見されました。
*中石器時代/中世の石器時代 (高度な狩猟採集時代)。
この時代は紀元前約20,000年続きました(完新世の始まりから)、人間の生活はまだ狩猟と採集が進んでいますが、彼らは選択することができました洞窟のように暮らす場所 - 自然の洞窟、アルコーブ、シェルター。
この時期に生産された機器は、両側の剪定技術(バイフェイシャル)に精通していたため、より高度で完璧なものでした。
この時期のコレクションには、ムンドゥック ポイント (lancipan munduk) として知られるテーパーの形をした動物の骨の道具、食物から残された貝殻 (koyken moddinger)、および小さな矢じり (microliths) などの石器が含まれます。
バリ島では、中石器時代の道具/道具がバリ州バドゥン県バドゥン県南クタ地区ペチャトゥ村のカルスト丘陵地帯のセロンディン洞窟、カラン ボマ洞窟 1、およびカラン ボマ洞窟 2 で発見されました。
*新石器時代/Youngstone Age(耕作の時代)
この時代は非常に大きな文明革命と言われています
この頃の人類は集団で生活し、洞窟の外に定住し、ある地域に村落共同体を形成し、農耕によって生活を営んでいた。
この頃の道具作りの技術は急速な進歩を遂げており、道具を美しく見せるために土手で研ぎ、形を整え始めると、両面とも鋭く滑らかで滑りやすい道具ができあがります。
この時代のコレクションには、楕円形の斧、四角い斧、つるはしなど、さまざまな形状のものがあります。
バリ島では、タルカン村、ベドゥル村、ケルス村、タンパクシリン村、パダンテガル村、ギャニャール県で新石器時代の道具が発見されました。
さらに、クルンクン県ヌサ・ペニダ村、ジュンブラナ県アンビアサリ村でも発見されました。
*メタルエイジ(ペルンダギアンエイジ)
この時点で、人間は金属材料を加工する技術を知っていました。つまり、人間は、熱 (高温) を制御するなど、火を管理および使用するスキルを持っています。
また、これらの金属物を二枚貝法、ワックス成型法(シレペルデュー)、鍛造法で成形する技術にも精通しています。
この時代の人間の能力から、鉄、青銅、銅などの加熱温度のレベルに応じて変化する金属ツールを製造することができました。
この時期のコレクションには、ブレスレット、アンクレット、リング、ネックレスなどさまざまな形があり、この時、インドネシアは銅器時代を経ず、青銅器・鉄器時代へと続きました。
バリでは、金属時代の道具/道具がギャニャール県のサンディング村で発見されました。
また、バリ州バンリ県タマン バリ村のブヌタン村でも発見されました。
*巨石器時代 / 大石器時代
メタルエイジが始まっても、石器時代はそのまま終わりませんでした。
金属の時代になっても、人間は石を素材や媒体として使い続けています。
新石器時代と金属の時代の間に、大きな石を道具として使う文化・伝統である巨石時代と呼ばれる「メガリス」文化が発達しました。
巨石文化のルーツは新石器時代 (精霊信仰とダイナミズム) にあり、実際に発展し、金属時代にピークに達します。
インドネシアでは今もインドネシア東部のような巨石文化・伝統が残っています。
巨石文化/伝統の結果は、石細工、段々になったプンデン、メンヒル、ドルメン、石棺、石の墓、およびアエカです。
この時期のコレクションには、石棺、祖先の化身の彫像、青銅、鉄、ガラスビーズで作られた副葬品が含まれます。
バリでは、巨石の伝統に関する研究が行われてきました。
●B展示室 :ギリマヌクの先史時代の人間のサイトからのコレクション
ギリマヌク遺跡は、バリ島の埋葬地 (ネクロポリス) の 1 つです。
ギリマヌク サイトは、1962 年にギリマヌク - デンパサール間の道路建設プロジェクトを実施していた P.U 労働者からの報告に基づいて最初に発見されました。
1963 年に選択的な調査が実施され、1977 年、1979 年、1984 年から 1986 年に実施されたその後の調査では、2重の壷埋葬と 123 人の人骨と墓用品の形で友人が得られました。
1990 年から 1993 年にかけて、ジェンブラナ政府がギリマヌク古代人類博物館として使用していたギリマヌク遺跡を保存するための調査が行われました。
研究から、墓の準備とともに5人の人骨が見つかりました。
ギリマヌク遺跡で発見された遺物には、ビーズのブレスレット、食べ物の残りの貝殻などがあります。
鹿の角、猿の頭蓋骨、豊かなネックレス、ガラスのブレスレット、水差し/やかん、大きなボウル、小さな陶器/ポット、テラジャラをモチーフにした陶器、陶器の破片、テラジャラをモチーフにした陶器の破片、粘土の瓶。
●C・D・E・F・G・H・I展示室
バリ島の石棺研究は、1960 年に R.P Soejono 博士によって活性化され始め、1962 年に発見されたギリマヌク サイトからの研究資料が追加されて拡大されました。
バリ島ギャニャール県カカン村の石棺に関するR.P.ソエジョノ博士によると、石棺を用いた埋葬システムを実行する文化的支援者は、モンゴロイド人種の特徴を持つ人間であることがわかります。
石棺のある埋葬文化は、そこに埋葬された人に対する人間の敬意の形です。
一般的に、石棺に埋もれているのは、当時の共同体で尊敬されていた共同体の指導者(部族長)であり、共同体・支援共同体でかなりの功績を残した人物です。
バリでは、石棺を伴う埋葬システムは、約 2,500 〜 3,500 年前の原始史 (歴史に向かって) ペルンダゲ時代にさかのぼると推定されています。
●J・K展示室 : バリのヒンズー教の古典期
ペジェン、ブドゥルを都として11世紀から14世紀半ばに栄えた、バリ初期の王国の出土品を中心に展示してある。
王族が使用していたと推定される品々、サンスクリット語で書かれた石碑、ヒンドゥー教による火葬をする以前の土葬用の石製の柩などを見ることができる。
バリは、1920 年にペジェン村で仏教のマントラ (イエテ マントラ) を含む粘土の仏塔と印章が発見されたことで、歴史の時代に入りました。
粘土のスタンプは、プラナガリ文字とサンスクリット語を使用して書かれていました。
カラサン寺院の入り口の上の書体の古文書学的研究に基づいて、印章は西暦 8世紀のものであると考えられています。
さらに、「siwas(-) ddh(-)」と読み、おそらく「siwa sidanta」と読むサンスクリット語を使用したタントラ碑文の断片もペジェン村で発見されました。
碑文のデータに基づいて、古代バリ時代 (9 世紀から 14 世紀) に統治したワルマデワ王朝の 22 人の王がいたことがわかります。
ランガハンの碑文 (1259 Saka) に含まれる最後のバリ王は、「バタラ スリ アスタスラ ラトナプーム バンテン陛下」と言及しています。
ゴリスは、王はベラルーの王、マヤ・デナワと同一であると主張している。
ブダウル王国は、1265 サカ (西暦 14 世紀) にケディリからのアーリア人によって支援されたマハパティ ガジャマダの指導の下、マジャパヒト軍によって征服されました。
以上。
次回は、各展示室の解説書を読み解いて、説明できるようにしたいと考えています。
それまで、しばらくお待ちください。
私のYouTube「バリ島ウブドに沈没(https://www.youtube.com/@bali75)」に、視聴者のひとりから「ペジェンの考古学博物館に行ったことがあるのですが、よくわからなかったので、展示品の説明をしてくれると嬉しいです!」というコメントがあった。
考古学博物館の正式名は「Museum Arkelogoi Gedong Arca」。
日本語に訳すと「グドン・アルチャ考古学博物館」。
ウブドの東2.5キロのペジェン村にある。
私も10年以上前に行ったきり。
その時の感想は、視聴者の方と同様に「よくわからなかった」であった。
考古学博物館に、貴重な出土品が展示品されていることは知っていた。
しかし、それらの出土品の時代背景をまったく理解できなかった。
知りたいとは、思っている。
観光客が訪れることは少なく、現在はローカルの小・中・高等学校の校外学習に使われているようです。
バリを訪れる観光客には、まったく興味の持てない展示品なのだろうか。
そんなことはないと思う。
バリの歴史に興味を持っている観光客はいるはず。
よし、少しでも日本人観光客に説明できるように、私が勉強しよう!
地球の歩き方・バリ島編
入館料:2022年10月25日現在・無料
先日(10月25日)、下調べに行ってきました。
説明書は、英語かインドネシア語。
結論を先に言うと、私の語学力ではまったく理解できませんでした。
パンフレットを頂戴してきた。
「グドン・アルチャ考古学博物館」には、紀元前のものから展示してある。
バリの歴史は、882年に出土した碑文から始まる。
それ以前の歴史は、この考古学博物館の展示品から想像するしかない。
興味惹かれるでしょう!
それでは、ご案内します。
パンフレットは、Google翻訳に一任しました。
申し訳ありません、能力不足で、わかりやすく変換することもできませんでした。
●A展示室 :バリの先史時代
*旧石器時代/旧石器時代とシンプルなレベルの食品調合。
この時代は紀元前 60 万年ほど続き、当時の人間の生活パターンは単純なレベルでの狩猟採集であり、人間はある場所から別の場所 (遊牧民) に隣接する水源に移動して生活していました。
この時の道具の作り方はとてもシンプルで、片端を削るだけです。
シャープとスチール グリップ (片面) として。
この時代のコレクションの中には、形が非常に単純で、不規則で、表面が粗い手斧 (チョッパー) の形をした石器が含まれています。
バリ島では旧石器時代の道具・道具がバトゥール湖、トルニャン村、ケディサン村周辺で発見されました。
*中石器時代/中世の石器時代 (高度な狩猟採集時代)。
この時代は紀元前約20,000年続きました(完新世の始まりから)、人間の生活はまだ狩猟と採集が進んでいますが、彼らは選択することができました洞窟のように暮らす場所 - 自然の洞窟、アルコーブ、シェルター。
この時期に生産された機器は、両側の剪定技術(バイフェイシャル)に精通していたため、より高度で完璧なものでした。
この時期のコレクションには、ムンドゥック ポイント (lancipan munduk) として知られるテーパーの形をした動物の骨の道具、食物から残された貝殻 (koyken moddinger)、および小さな矢じり (microliths) などの石器が含まれます。
バリ島では、中石器時代の道具/道具がバリ州バドゥン県バドゥン県南クタ地区ペチャトゥ村のカルスト丘陵地帯のセロンディン洞窟、カラン ボマ洞窟 1、およびカラン ボマ洞窟 2 で発見されました。
*新石器時代/Youngstone Age(耕作の時代)
この時代は非常に大きな文明革命と言われています
この頃の人類は集団で生活し、洞窟の外に定住し、ある地域に村落共同体を形成し、農耕によって生活を営んでいた。
この頃の道具作りの技術は急速な進歩を遂げており、道具を美しく見せるために土手で研ぎ、形を整え始めると、両面とも鋭く滑らかで滑りやすい道具ができあがります。
この時代のコレクションには、楕円形の斧、四角い斧、つるはしなど、さまざまな形状のものがあります。
バリ島では、タルカン村、ベドゥル村、ケルス村、タンパクシリン村、パダンテガル村、ギャニャール県で新石器時代の道具が発見されました。
さらに、クルンクン県ヌサ・ペニダ村、ジュンブラナ県アンビアサリ村でも発見されました。
*メタルエイジ(ペルンダギアンエイジ)
この時点で、人間は金属材料を加工する技術を知っていました。つまり、人間は、熱 (高温) を制御するなど、火を管理および使用するスキルを持っています。
また、これらの金属物を二枚貝法、ワックス成型法(シレペルデュー)、鍛造法で成形する技術にも精通しています。
この時代の人間の能力から、鉄、青銅、銅などの加熱温度のレベルに応じて変化する金属ツールを製造することができました。
この時期のコレクションには、ブレスレット、アンクレット、リング、ネックレスなどさまざまな形があり、この時、インドネシアは銅器時代を経ず、青銅器・鉄器時代へと続きました。
バリでは、金属時代の道具/道具がギャニャール県のサンディング村で発見されました。
また、バリ州バンリ県タマン バリ村のブヌタン村でも発見されました。
*巨石器時代 / 大石器時代
メタルエイジが始まっても、石器時代はそのまま終わりませんでした。
金属の時代になっても、人間は石を素材や媒体として使い続けています。
新石器時代と金属の時代の間に、大きな石を道具として使う文化・伝統である巨石時代と呼ばれる「メガリス」文化が発達しました。
巨石文化のルーツは新石器時代 (精霊信仰とダイナミズム) にあり、実際に発展し、金属時代にピークに達します。
インドネシアでは今もインドネシア東部のような巨石文化・伝統が残っています。
巨石文化/伝統の結果は、石細工、段々になったプンデン、メンヒル、ドルメン、石棺、石の墓、およびアエカです。
この時期のコレクションには、石棺、祖先の化身の彫像、青銅、鉄、ガラスビーズで作られた副葬品が含まれます。
バリでは、巨石の伝統に関する研究が行われてきました。
●B展示室 :ギリマヌクの先史時代の人間のサイトからのコレクション
ギリマヌク遺跡は、バリ島の埋葬地 (ネクロポリス) の 1 つです。
ギリマヌク サイトは、1962 年にギリマヌク - デンパサール間の道路建設プロジェクトを実施していた P.U 労働者からの報告に基づいて最初に発見されました。
1963 年に選択的な調査が実施され、1977 年、1979 年、1984 年から 1986 年に実施されたその後の調査では、2重の壷埋葬と 123 人の人骨と墓用品の形で友人が得られました。
1990 年から 1993 年にかけて、ジェンブラナ政府がギリマヌク古代人類博物館として使用していたギリマヌク遺跡を保存するための調査が行われました。
研究から、墓の準備とともに5人の人骨が見つかりました。
ギリマヌク遺跡で発見された遺物には、ビーズのブレスレット、食べ物の残りの貝殻などがあります。
鹿の角、猿の頭蓋骨、豊かなネックレス、ガラスのブレスレット、水差し/やかん、大きなボウル、小さな陶器/ポット、テラジャラをモチーフにした陶器、陶器の破片、テラジャラをモチーフにした陶器の破片、粘土の瓶。
●C・D・E・F・G・H・I展示室
バリ島の石棺研究は、1960 年に R.P Soejono 博士によって活性化され始め、1962 年に発見されたギリマヌク サイトからの研究資料が追加されて拡大されました。
バリ島ギャニャール県カカン村の石棺に関するR.P.ソエジョノ博士によると、石棺を用いた埋葬システムを実行する文化的支援者は、モンゴロイド人種の特徴を持つ人間であることがわかります。
石棺のある埋葬文化は、そこに埋葬された人に対する人間の敬意の形です。
一般的に、石棺に埋もれているのは、当時の共同体で尊敬されていた共同体の指導者(部族長)であり、共同体・支援共同体でかなりの功績を残した人物です。
バリでは、石棺を伴う埋葬システムは、約 2,500 〜 3,500 年前の原始史 (歴史に向かって) ペルンダゲ時代にさかのぼると推定されています。
●J・K展示室 : バリのヒンズー教の古典期
ペジェン、ブドゥルを都として11世紀から14世紀半ばに栄えた、バリ初期の王国の出土品を中心に展示してある。
王族が使用していたと推定される品々、サンスクリット語で書かれた石碑、ヒンドゥー教による火葬をする以前の土葬用の石製の柩などを見ることができる。
バリは、1920 年にペジェン村で仏教のマントラ (イエテ マントラ) を含む粘土の仏塔と印章が発見されたことで、歴史の時代に入りました。
粘土のスタンプは、プラナガリ文字とサンスクリット語を使用して書かれていました。
カラサン寺院の入り口の上の書体の古文書学的研究に基づいて、印章は西暦 8世紀のものであると考えられています。
さらに、「siwas(-) ddh(-)」と読み、おそらく「siwa sidanta」と読むサンスクリット語を使用したタントラ碑文の断片もペジェン村で発見されました。
碑文のデータに基づいて、古代バリ時代 (9 世紀から 14 世紀) に統治したワルマデワ王朝の 22 人の王がいたことがわかります。
ランガハンの碑文 (1259 Saka) に含まれる最後のバリ王は、「バタラ スリ アスタスラ ラトナプーム バンテン陛下」と言及しています。
ゴリスは、王はベラルーの王、マヤ・デナワと同一であると主張している。
ブダウル王国は、1265 サカ (西暦 14 世紀) にケディリからのアーリア人によって支援されたマハパティ ガジャマダの指導の下、マジャパヒト軍によって征服されました。
以上。
次回は、各展示室の解説書を読み解いて、説明できるようにしたいと考えています。
それまで、しばらくお待ちください。
2022年11月08日
「Kedai D'SAWAH」ミーゴレン食べ歩きレポート@タガス村(468)
ひとりでボ〜としたい時に、訪れるワルン「クダイ・デ・サワ」。
店名の意味は、田んぼ(sawah)にある店、とでも言うのか。
私のお気に入りカフェのひとつ。
場所は、ウブド中心部(変則十字路)から、バイクで10分ほど走ったトゥグス村。
「古代遺跡・ゴアガジャ」に向かうゴアガジャ街道の途中、右手にある。
田んぼの見渡せる位置に、ジャワ建築のガゼボが数棟建つ。
180度の田んぼビューに、ホテルやヴィラなどの建物が見えない(現在、アランアラン葺きの屋根が数軒見える)。
一年中、景色に変化があって目を楽しましてくれる。
田んぼの水引から始まる。
農夫の働く姿。
代掻き(田掻き)、この時、耕運機の周りにココカン(シラサギ)が群がり餌をついばむ。
ココカン(白鷺)が滑空する。
水が張られた田んぼは、モザイク鏡のように美しい。
椰子の木が映ったり、田ごとの月が見られるのは、このタイミング。
べべ(あひる)の大群が、田んぼの虫をついばんで稲作のお手伝い。
田が整ったところで、田植えだ。
稲の成長にともなって、見える景色が異なる。
黄色く実った稲穂が風に揺れる。
稲刈りの風景も、風情があって大好きだ。
これが5ヶ月ほどのサイクルで巡ってくる。
どの時期も情緒がある。
緑に囲まれた憩いの空間で不粋な行為だが、のんびりFree WiFIを利用できる。
理想の空間で、理想に時間が流れる。
2022年10月23日:第九弾「Kedai D'Sawah」ミーゴレン食べ歩きレポート@タガス村
2016年6月8日:ブログ・ウブド沈没:「クダイ・デ・サワ @ ウブドらしい店(63)
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/438760424.html
2016年6月8日:YouTube:『Kedai D'SAWAH @ Ubud・Bali』
店名の意味は、田んぼ(sawah)にある店、とでも言うのか。
私のお気に入りカフェのひとつ。
場所は、ウブド中心部(変則十字路)から、バイクで10分ほど走ったトゥグス村。
「古代遺跡・ゴアガジャ」に向かうゴアガジャ街道の途中、右手にある。
田んぼの見渡せる位置に、ジャワ建築のガゼボが数棟建つ。
180度の田んぼビューに、ホテルやヴィラなどの建物が見えない(現在、アランアラン葺きの屋根が数軒見える)。
一年中、景色に変化があって目を楽しましてくれる。
田んぼの水引から始まる。
農夫の働く姿。
代掻き(田掻き)、この時、耕運機の周りにココカン(シラサギ)が群がり餌をついばむ。
ココカン(白鷺)が滑空する。
水が張られた田んぼは、モザイク鏡のように美しい。
椰子の木が映ったり、田ごとの月が見られるのは、このタイミング。
べべ(あひる)の大群が、田んぼの虫をついばんで稲作のお手伝い。
田が整ったところで、田植えだ。
稲の成長にともなって、見える景色が異なる。
黄色く実った稲穂が風に揺れる。
稲刈りの風景も、風情があって大好きだ。
これが5ヶ月ほどのサイクルで巡ってくる。
どの時期も情緒がある。
緑に囲まれた憩いの空間で不粋な行為だが、のんびりFree WiFIを利用できる。
理想の空間で、理想に時間が流れる。
2022年10月23日:第九弾「Kedai D'Sawah」ミーゴレン食べ歩きレポート@タガス村
2016年6月8日:ブログ・ウブド沈没:「クダイ・デ・サワ @ ウブドらしい店(63)
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/438760424.html
2016年6月8日:YouTube:『Kedai D'SAWAH @ Ubud・Bali』
2022年11月05日
「Mama’s Warung」ミーゴレン食べ歩きレポート・第十弾!(467)
「ママズ・ワルン」は、トゥブサヨ村スクマ通りにある。
プリアタン区域に属し、民宿の多い地域。
「ママズ・ワルン」も、宿を営んでいる。
民宿だから、呼び名はホームステイでよいのだが、日本人が受けるホームステイとは形態が違う。
同じ屋根の下で宿泊するのではなく、別棟に客室がある。
バリ伝統建築の一戸建が用意されることもあり、バリ情緒を満喫できる。
古くはバックパカーが多く滞在していたが、現在も海外からの旅行者が多く泊まる地域で、コロナ停滞の今、ワルンも繁盛していた。
これまで屋敷内だけだった店舗を、スクマ通り沿いに拡張した。
そうそう、ローカル・ワルンが軒を連ねる「ワルン街道」でもある。
「ワルン街道」の命名者は、私だ!
蛇足だが、2009年・CS旅チャンネル「チャレンジ・トラベラーズ、勝手に決定!バリ島NO1ワルン」で、クタ、レギャン、スミニャック、サヌール、ウブドの33店舗の中からナシ・チャンプールの美味しい店として「ママズ・ワルン」は、同率一位として選ばれている。
2022年10月29日、拡張してから初の来店。
「何年ぶりかな!」とほざいていますが、ユーチューブを見ると昨年(2021年)の5月に来ている。
昨年に引きつづき、またもやママズ・ワルンをカフェ・ワヤンと言い間違えている。
娘さんの踊りはクリンチ(ウサギの踊り)でなく、キジャン(鹿の踊り)でした。
「メカール・サリ歌舞団」でユリアティーさんがクリンチで注目を集めた時期、同じ舞台でキジャン群舞の中央で、ひときわ元気に飛び跳ねる彼女の踊りは見ものだった。
現在ホテル勤めをしていますが「バリ舞踊、教えま〜す!」と言っていました。
昨年(2021年)5月の動画も見てください。
「食事レポ「Mama's Warung」@ Ubud・Bali」
今回は、約2年ぶりにトゥブサヨ村スクマ通りにある「ママズ・ワルン」を訪ねました。
そうです、ここにはオムライスがあるんですよ。
動画の中、「ママズ・ワルン」を「カフェ・ワヤン」と間違って連呼しています。
見苦しいですが、訂正せずに編集しています。
極楽通信「ウブド・ホテル事情」
これはホテルの歴史です。
https://informationcenter-apa.com/gt_hotel.html
プリアタン区域に属し、民宿の多い地域。
「ママズ・ワルン」も、宿を営んでいる。
民宿だから、呼び名はホームステイでよいのだが、日本人が受けるホームステイとは形態が違う。
同じ屋根の下で宿泊するのではなく、別棟に客室がある。
バリ伝統建築の一戸建が用意されることもあり、バリ情緒を満喫できる。
古くはバックパカーが多く滞在していたが、現在も海外からの旅行者が多く泊まる地域で、コロナ停滞の今、ワルンも繁盛していた。
これまで屋敷内だけだった店舗を、スクマ通り沿いに拡張した。
そうそう、ローカル・ワルンが軒を連ねる「ワルン街道」でもある。
「ワルン街道」の命名者は、私だ!
蛇足だが、2009年・CS旅チャンネル「チャレンジ・トラベラーズ、勝手に決定!バリ島NO1ワルン」で、クタ、レギャン、スミニャック、サヌール、ウブドの33店舗の中からナシ・チャンプールの美味しい店として「ママズ・ワルン」は、同率一位として選ばれている。
2022年10月29日、拡張してから初の来店。
「何年ぶりかな!」とほざいていますが、ユーチューブを見ると昨年(2021年)の5月に来ている。
昨年に引きつづき、またもやママズ・ワルンをカフェ・ワヤンと言い間違えている。
娘さんの踊りはクリンチ(ウサギの踊り)でなく、キジャン(鹿の踊り)でした。
「メカール・サリ歌舞団」でユリアティーさんがクリンチで注目を集めた時期、同じ舞台でキジャン群舞の中央で、ひときわ元気に飛び跳ねる彼女の踊りは見ものだった。
現在ホテル勤めをしていますが「バリ舞踊、教えま〜す!」と言っていました。
昨年(2021年)5月の動画も見てください。
「食事レポ「Mama's Warung」@ Ubud・Bali」
今回は、約2年ぶりにトゥブサヨ村スクマ通りにある「ママズ・ワルン」を訪ねました。
そうです、ここにはオムライスがあるんですよ。
動画の中、「ママズ・ワルン」を「カフェ・ワヤン」と間違って連呼しています。
見苦しいですが、訂正せずに編集しています。
極楽通信「ウブド・ホテル事情」
これはホテルの歴史です。
https://informationcenter-apa.com/gt_hotel.html
2022年11月01日
「Cafe Tegal=カフェ・テガル」の変遷・現在「CAFE ANGSA」(466)
ハヌマン通りはデサ寺院パダンテガル前のワンティラン(多目的建物)北横にあるレストラン「CAFE ANGSA」。
この通りで唯一、緑地が見渡せる店。(写真:2022年11月1日現在)
ブログを書くために”ANGSA”を調べたら、インドネシア語で白鳥(swan)の意味でした。
開店当初は、kaが抜けているのに気がつかず、「カフェ・アンカサ=Angkasa」と同名だと思っていた。
ちなみに”Angkasa”は「宇宙のことです」と、サブオーナー・コテツちゃんが教えてくれた。
コロナ禍の2020年に、和るん・アンカサは閉店。
今回のブログ内容は、「CAFE ANGSA」でも「和るん・アンカサ」でもありません。
”CAFE ANGSA”が、開店する前にあった「カフェ・テガル=Cafe Tegal」の話です。
カフェ・テガルは、1996年頃から2000年初頭にかけて、ウブドで繁盛していたレストランのひとつです。
ハヌマン通りの南・Y字路近くの「ベベ・ブンギル」の向かいにあった。
海の家チックなオープンエアーの店は、気兼ねいらずの雰囲気で落ち着いた。
友人が来ウブドすると、必ず案内した。
私のオススメは、カンクンゴレン・ビーフンゴレン・サポタフの三点セット。
ナシプティ(白飯)を注文して、シェアして食べるのが楽しかった。
カンクンゴレンが、鉄板の上で湯気を立てながら運ばれて来るのに、興奮した。
全てが、安くて、美味しい!
カフェ・テガルの閉店後、様々なレストランがオープンしたが長続きしていない。
カフェ・テガルは、現在の”CAFE ANGSA”に「カフェ・キタ」として移転した。
美味しいプラス、田んぼビューの店として人気は上昇。
チョコレート入りのアボガド・ジュースが、評判となった。
そして閉店(何年のことか記録がない)。
今年10月に駆体が解体されて、形跡がなくなってしまった。
フェイスブックのウブディアンに「躯体解体のニュース」を投稿したら、コメントがたくさん寄せられた。
代表して、Tさんのコメントを。
「ヒンヤリする夜、熱々のサポタフ嬉しかったです。
奥の席の向こうが田んぼで、夜はドジョウ取りの人の明かりが見えて、気持ちの良い空間でした。
田んぼの向こうに見える景色に建物が増えたが、店舗の形態はほとんど変わっていない。
おまけの動画
メニュー:飲み物
コピ・バリ:Rp20,000-(ポット)
エスプレッソ(小):Rp20,000-
ビールビンタン:大Rp50,000-/小Rp35,000-
この通りで唯一、緑地が見渡せる店。(写真:2022年11月1日現在)
ブログを書くために”ANGSA”を調べたら、インドネシア語で白鳥(swan)の意味でした。
開店当初は、kaが抜けているのに気がつかず、「カフェ・アンカサ=Angkasa」と同名だと思っていた。
ちなみに”Angkasa”は「宇宙のことです」と、サブオーナー・コテツちゃんが教えてくれた。
コロナ禍の2020年に、和るん・アンカサは閉店。
今回のブログ内容は、「CAFE ANGSA」でも「和るん・アンカサ」でもありません。
”CAFE ANGSA”が、開店する前にあった「カフェ・テガル=Cafe Tegal」の話です。
カフェ・テガルは、1996年頃から2000年初頭にかけて、ウブドで繁盛していたレストランのひとつです。
ハヌマン通りの南・Y字路近くの「ベベ・ブンギル」の向かいにあった。
海の家チックなオープンエアーの店は、気兼ねいらずの雰囲気で落ち着いた。
友人が来ウブドすると、必ず案内した。
私のオススメは、カンクンゴレン・ビーフンゴレン・サポタフの三点セット。
ナシプティ(白飯)を注文して、シェアして食べるのが楽しかった。
カンクンゴレンが、鉄板の上で湯気を立てながら運ばれて来るのに、興奮した。
全てが、安くて、美味しい!
カフェ・テガルの閉店後、様々なレストランがオープンしたが長続きしていない。
カフェ・テガルは、現在の”CAFE ANGSA”に「カフェ・キタ」として移転した。
美味しいプラス、田んぼビューの店として人気は上昇。
チョコレート入りのアボガド・ジュースが、評判となった。
そして閉店(何年のことか記録がない)。
今年10月に駆体が解体されて、形跡がなくなってしまった。
フェイスブックのウブディアンに「躯体解体のニュース」を投稿したら、コメントがたくさん寄せられた。
代表して、Tさんのコメントを。
「ヒンヤリする夜、熱々のサポタフ嬉しかったです。
奥の席の向こうが田んぼで、夜はドジョウ取りの人の明かりが見えて、気持ちの良い空間でした。
田んぼの向こうに見える景色に建物が増えたが、店舗の形態はほとんど変わっていない。
おまけの動画
メニュー:飲み物
コピ・バリ:Rp20,000-(ポット)
エスプレッソ(小):Rp20,000-
ビールビンタン:大Rp50,000-/小Rp35,000-