2023年02月21日

ウブド地域には、裕福を証明するかのように銀行の数が多い(490)

他の地域に比べて、ウブド村が裕福だと考えられる理由を、数回に分けて検証してきた。

「@屋敷内にあるバリ料理のワルン(487)」
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/497987515.html
「Aバリ伝統的屋敷の名称とレイアウト@スバリ村(488)」
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/498092242.html

ウブド地域には、裕福を証明するかのように銀行の数が多い。

私が滞在始めた1990年初頭には、「バンク・セントラル・アジア=BCA」と「バンク・ドゥタ=Bank Duta」の2店舗しかなかったと記憶している。

私は、レストラン・ノマドの東隣にあった「BCA」を利用していた。

2階屋の1階にあった「BCA」の店舗は、両替商のようで現在のマネーチェンジより貧相だった。

ウブドに観光地として人気が出始めると、銀行の支店開業が続いた。

インドネシア経済は、1997 年のアジア通貨危機、1998 年のスハルト政権崩壊によ って大きな混乱を経験する。

小規模銀行は倒産し、大手銀行には取り立て騒ぎが起こった。

2000 年からは、国際通貨基金(IMF: International Monetary Fund)の 政策指導や日本、世界銀行、アジア開発銀行(ADB: Asian Development Bank)の 緊急支援もあって安定を回復する。

このあと銀行の数は、さらに増えて行く。

場所は、アンドン交差点周辺の2箇所にかたまっている。


一つは、交差点からウブド大通りの約200m。
ここに6件。

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Danamon

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Bank BRI

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BANK MEGA

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May bank

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BCA

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MNC bank


もう一つは、交差点から北へテガララン方面に約300m。
ここにも6件。

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CIMB niaga

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Permata Bank

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BNI

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Bank Mandiri

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sinarmas

(2023年1月現在・掲載漏れがあれば教えてください)


ここで耳寄り情報を!

外国人観光客でも預金できる銀行があります。

条件はKITAS保持者であること。

保証人が必要な銀行は、BCAとBNI。

保証人がいらない銀行は、MaybankとPermataBank。

Maybankには、踊り手ユリアティさんがいるので、コンタクトは容易。

アパ?情報センターでは、銀行預金のお手伝いを行なっています。

連絡先(責任者ワヤン):apainfo@indo.net.id・wayan_apa@yahoo.co.jp
携帯電話:+62-8510-8001110


銀行以外に「Bank BPD Bali」と「LPD」がある。

「BPD」はバリ州100%出資の地域開発銀行で、1962年6月5日創業。

BPD=BANK PEMBANGUNAN DAERAH BALI=バリ地域開発銀行

ウブド大通りとハヌマン通りの東角にある一軒。

BPD.jpg
BPD


「LPD」は1997年のアジア通貨危機の後1998年に、バリ州の銀行「BPD」のバックアップによって開設された村の信用金庫。

LPD=Lembaga Perkreditan Desa=村の信用金庫。

各村にあるということは、ウブド村で13軒はあるということだ。

利息が良い(年利8%との噂を聞く)。

LPD Padangtegal2.jpg
パダンテガル村のLPD

どんなけ、お金があるんだと言う話でした。
posted by ito-san at 19:47| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年02月15日

ウブド村のビジネス発展のプロセスを考える!(489)

リピーターのひとりから、こんな質問を受けた。

「ウブドって、他の村に比べて裕福じゃありませんか?」

その質問に、お答えした。

「そうなんです。多くの観光客が訪れ、パフォーマンスの定期公演にお金を落としていくからです」

数年前から、バリ島南部ウルワトゥ岬のケチャが大人気になっている。

ウルワトゥ岬観光プラス、ケチャの公演が成功したのだ。

地元の村は今、きっと裕福になっていることでしょう。

ケチャといえば、その昔はボナ村のケチャが有名で、ウブドから観光客をシャトルバスが送迎していた。

ウブドでケチャの公演が始まると、ボナ村のケチャは廃っていった。

栄枯盛衰とは、このこと。

ウブド村は13の集落(バンジャール=最小単位の自治体)で構成している。

ウブド・カジョ、ウブド・トゥンガ、ウブド・クロッド、サンバハン、ブントゥユン、タマン・カジョ、タマン・クロッド、テガランタン、ジュンジュンガン、パダントゥガル・カジョ、パダントゥガル・トゥンガ、パダントゥガル・クロッド、パダントゥガル・ムカールサリ。

現在ウブドのケチャ公演は、ウブド村、サンバハン村、タマン村が人気で高収益だが、パダンテガル村、ジュンジュンガン村と、それぞれの集落でも公演が行われ、利益をあげている。

これもウブド村に、多くの観光客が訪れるからできること。

ケチャ公演は集落主導で、村人によって演じられ、収益は集落に入る。

村営のビジネスが始まりだ。


ウブドに観光客が訪れるようになったのは、いつからだろうか?

インドネシア独立以前、オランダから汽船で訪れるツアーがあったと聞く。

フランス・パリで開催された世界植民地博覧会で、バリの魅力が知られると、世界中から観光客が来島するようになった。

ウブドでの宿は、王族の屋敷を解放していた。

海外からの画家が滞在し、農民だった村人に絵画の指導をしていく。

村人に絵描きが誕生し、画廊が開設される。

絵描きは、画廊に納めるか自分の屋敷に飾り、求める観光客がいれは売った。

バリ南部の観光地クタ海岸に、行商に行って財を成したという画廊主の苦労話を聞いた。

ウブド村は、絵画の村として有名になり、観光客が増えていく。

個人のビジネスの始まりは、絵描きだったのか。


バックパッカーが訪れるようになり、村人は屋敷の棟を宿泊施設として解放して、日銭を稼ぐようになる。

ホームステイ稼業の始まりだ。

訪れるツーリストが増加してくると、敷地内に貸し棟を増築していく。


村人相手の雑貨屋や食堂は、屋敷前の狭いスペースに簡易小屋を建て、営業していただろう。

屋敷前で始めた小さなワルン(簡易食堂)が繁盛すると、屋敷内のテラスを解放して営業していく。

その話は、次のブログでまとめてあります。

「@屋敷内にあるバリ料理のワルン(487)」
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/497987515.html

こうして、ウブドに各種ビジネスが根づいていく。


ウブド民が裕福になったのは、貸家・貸店舗などの家賃収入を得るようになってからだろう。

屋敷の構造から、道路側の土地が活用できる家と、活用できない家とがある。

こちらのブログを読んでみてください。

「Aバリ伝統的屋敷の名称とレイアウト@スバリ村(488)」
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/498092242.html

IMG20230211155746.jpg

屋敷寺が奥になる家は、道路側を屋敷門以外の土地を全面貸店舗に利用できる。

道路沿いに屋敷寺がある家は、門を挟んで屋敷寺の反対側の土地しか運用できないが、屋敷寺の壁との間に少しの土地が残っていて、奥行きの狭い店舗を確保しているところもある。

王宮に近いモンキーフォレスト通りとカジェン通り、ゴータマ通りとハヌマン通りなどは、屋敷が連なった集落のため、屋敷門しか見えない状態になっている。

集落のはずれに田畑を持っている村人は、その土地を売却したり借地にする。

売却したり借地にした土地には、ホテルやレストランが建つ。

集落は拡大し、隣村との境がわからないほどに発展していく。

現在のウブド村、プリアタン村、プンゴセカン村がそうだ。


こうやって店舗が建っていくことを、「私はメッキされる」と言っている。

極楽通信:メッキされるウブド //informationcenter-apa.com/gt_plating.html

本来の素材を覆い隠して、観光地というメッキがされる。

メッキの輝きが、ウブドの裕福さのバロメーターでもあると言える。

外観からはわからないが、ウブドの本質は失われていないので、ご安心ください。

今回も、うまく文章がまとまりませんでした。

「何が言いたいかわからない!」と、お叱りを受けそうですが、お許しを。
posted by ito-san at 01:02| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年02月08日

バリ伝統的屋敷の名称とレイアウト@スバリ村(488)

家のことをインドネシア語で「ルマ=Rumah」と言う。

バリは、四つに色分けされた階層(カスタ)・チャトル・ワルナ(チャトル=4/ワルナ=色・Catur Warna)によって、屋敷の名称が異なる。
*階層(カスタ):https://informationcenter-apa.com/kb_kasta.html

高僧(ブラフマ=brahmana)の屋敷は「グリヤ=Geriye」

王族(クシャトリア=kesatria)の屋敷は「プリ=Puri」

貴族(ウエシャ=wasia)の屋敷は「ジェロ=Jero」

この三つの階層をトゥリ・ワンサ(Tri wansa)と呼ぶ。

平民(スドラ=sudra)の屋敷は「ウマ=Umah」

カスタの導入は、5世紀から16世紀まで中部ジャワで栄えたマジャパイト王朝の影響である。

バリに移り住んだマジャパイト王朝の末裔をトゥリワンサとし、バリ先住民をスドラとした。

言語には、トゥリワンサの使う二種類とスドラの使うバリ語があり、相手によって使い分けている。

中部ジャワのジャワ人が使う言葉にトゥリワンサの使う単語が含まれていたり、スドラの会話にインドのヒンドゥー語が入っていて、興味深い。


今回の本題に入ります。

バリ人の屋敷は、バリの伝統的法則にそって建てられている。

家長の足のサイズや手のひらが物差しとして使われる。

法則がつくられたのは、マジャパイトの末裔が移り住んだ16世紀頃ではないか、と私は想像している。

マジャパイトの末裔の影響を受けなかった村(バリアガ)の屋敷は、その限りでない。
*バリアガ:https://informationcenter-apa.com/kb_bali_aga.html

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「バリ島ウブド 楽園の散歩道」地球の歩き方 Gem stone

バリ人の屋敷は、このレイアウトに基づいて建てられている。

屋敷を訪れる機会があれば、見学させてもらっうことをおすすめします。

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棟には、それぞれを役目があり、呼び名も違う。

全体の名称を、復習しましょう。

*アンクル アンクル(Angkul Angkul)=屋敷門
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*アリン アリン(Alin Alin)=魔除けの壁
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*ジナン(Jineng)=米倉
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*バレ ダギン(Bale Dagin)・グリヤとプリはバレスマンゲン(Bale Semanggen)=儀礼棟
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通過儀礼(子供の誕生日儀礼、結婚儀礼、歯を削る儀礼、葬儀礼など)を行う棟

*ムラジャン(Merejan)・スドラはサンガ(Sanggah)=屋敷寺
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*バレ ダジョー(Bale Daja)・グリヤとプリはグドン(Bale Gedong)・スドラはムテン(Meten)=家長の住む棟
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*バレ ダウ(Bale Dauh)・グリヤとプリはバレ ロジ(Bale Loji)=家族の住む棟
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*ナタラン(Nataran)・スドラはナタ(Natah)=内庭

*パオン(Paon)・グリヤとプリはプラントゥナン(Perantenan)&パワレガン(Pawaregan)=台所
家族一同で食事を共にする習慣がないので、台所はあるが食堂(ダイニング)はない。
朝一で作られた食事を、各人が好きに時間に好きな場所で、サッサとすませる。

動画でご覧ください!

posted by ito-san at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする