2023年04月29日

ウブドを訪れていた坂本龍一氏の写真を求めて!@Oka Kartini Bungalow(501)

2023年3月28日:坂本龍一氏死去の訃報が報道された。

世界中の坂本龍一ファンは、ショックを隠しきれないでいる。

339086949_2145750518956435_5351870139898710768_n.jpg
画像が著作権保護されている場合は、消去します。


坂本龍一ファンの日本人友人からメッセージがあった。

「オカ・カルティニ・バンガローにあった教授のスナップを、もう一度見てみたいです!」

ホテルのフロントの壁に、教授の写真が飾ってあったと言う。

ファンの方達は、坂本龍一氏のことを教授と読んでいるようだ。

私も、このブログでは教授と呼ぶことにする。

オカ・カルティニは、トゥブサヨ村ウブド大通り沿いにある老舗ホテル。

教授が宿泊したのは、1982年頃のこと。

1983年公開の映画『戦場のメリークリスマス』の音楽制作のために訪問している。

現在はホテルだが、教授が宿泊した頃はバンガローと言われていたと思う。


『戦場のメリークリスマス』




2023年4月8日

もしかすると、当時の写真が見られるかもしれないと、突撃取材することにした。

楽しみのフロントの壁はあとでゆっくり鑑賞するとして、まずは「Studio22k」「ギャラリー」を見学。

次は、ワヤンクリット(影絵芝居)の上演会場だ、と表に出る。

目の前で、私に手を振る女性がいる。

オーナーのオカ・カルティニさんだ。

お顔は、存じ上げている。

ワヤンクリット会場見学は諦めて、フロントに立っている彼女に近づく。

英語の挨拶で、握手で迎えてくれる。

教授が亡くなったことを告げると、彼女は驚いていた。

教授の写真が壁に飾ってあったとの情報を知り、見に来たことを伝える。

「坂本氏と私が握手をしている写真は、持ってますよ」と言う。

「今度、用意しておくので、またいらっしゃい!」と嬉しいお誘い。

写真を見せてもらう約束をして、家路に着いた。

ワヤンクリットの上演会場を見るのを忘れている。

坂本氏が宿泊した部屋とワヤンクリット会場は、次回ということで。

ウブドを訪れていた坂本龍一氏の写真を求めて!@Oka Kartini Hotel




2023年4月15日

1週間後に再訪した。

残念なことに、カルティニさんは在宅していなかった。

連絡をもらえるように、フロントの青年に電話番号を伝えた。

何とフロントで働いていた青年は、プンゴセカン村のコンピアン君の次男だった。



2023年4月25日

「坂本龍一さんの写真を用意してあるので、いらっしゃい!」

カルティニさんからWA(WhatsApp)に、メールが入っていた。

もう連絡はないかなと、諦めていたので嬉しかった。

いそいそと出かけていったが、「いらっしゃい」というわりには、彼女はいなかっt。

マネージャーが迎えてくれて、彼女は体調を崩して部屋で休息しているという。

額縁に入った写真を、マネージャーが見せてくれた。

1982年頃の写真は、さすがに色あせていた。

若かりし頃のオカ・カルティニ嬢とのツーショット。

教授は、口元に面影があった。

sakamoto ryuichi1.jpg


友人が見た写真は、これではなかったと言う。

当時のバンガローのドライバースタッフとのツーショットだったとか。

自慢げに見せてくれたから、本人が持って行ってしまったのかもしれないとも話してくれた。

41年前のドライバーを探せるかな?


お宝拝見!(坂本龍一氏とオカ・カルティニ嬢のツーショット)



教授が宿泊した部屋は、改築されていた。
Oka Kartini1.jpg

この部屋に纏わる、都市伝説のような話を聞いたことがある。

現在は部屋は、家族が利用していて、旅行者が宿泊することはできない。

テラスの柱の根元は、古くからの石がそのまま使われている。
Oka Kartini2ruma.jpg


ワヤンクリット会場
Oka Kartini wayang1.jpg
Oka Kartini Wayang2.jpg



おまけの動画『追悼・坂本龍一 / CAFE LOTUS (1985) 未発売曲 / RIP Ryuichi Sakamoto』

彫刻の村セバツは、Sebatuのことですよね。
撮影現場が知りたいです!
posted by ito-san at 01:51| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年04月25日

オリンピックは、もう開催しないでください!(500)

今年5月、インドネシアで、FIFA(国際サッカー連盟)「第23回U-20ワールドカップ」が開幕されるはずだった。

はずであったと過去形で言うのは、問題があってキャンセルになったからだ。

2021年にインドネシアで開催予定だった「第23回U-20ワールドカップ」は、コロナ禍で中止となっている。

2023年にずれ込んでの開催。

U-20は、FIFAが主催する20歳以下のナショナルチームによるワールドカップ。

20歳以下と言ってもレベルは高いので、見応えはある。

では、なぜキャンセルになったか?

それは、イスラエルの参加が決定したことに、インドネシアの一部の反イスラエル感情の民衆から抗議の声が上がったから。

FIFAは、この事態を深刻に捉え、インドネシアの開催権を剥奪した。

インドネシアにはプロサッカーリーグがあり、熱狂的なファンで盛り上がりをみせている。

バリのチーム「バリ・ユナイテッド」は一部リーグに所属し、2019年に優勝している。

バリでも、何試合かは開催されただろう。

キャンセルになり、サッカーファンの友人が残念がっていた。

kapok.jpg

新たな開催国は、アルゼンチン(5月20日〜6月11日)に決まった。

インドネシアのチームは、参加できないと聞いている。

Bali・BALI UNITED・SEPAKBOLA @ Ubud(撮影:2017年11月12日)




インドネシアのU-20ワールドカップが中止になったニュースと、時を同じくして、

2030年冬季オリンピック・パラリンピックの札幌誘致に、札幌市民の反対の声が高まり見送りになる可能性が高いとのニュースがあった。

そりゃそうだろう、2022年に開催した「2020年東京オリンピック」は、汚職まみれで、いまだに明らかにされていないのだ。

他の国の国民はどう考えているかわからないが、少なくとも日本国民の多くは、もうオリンピック関連のニュースには嫌悪感しかないだろう。

回を重ねるごとの、悪の温床は拡大し、組織だってきている。

今回の東京オリンピックは、主催者協会ぐるみの利権による搾取だ。

お金儲けの思惑が蔓延して気分が悪い。

問題が解決していないのに、札幌冬季オリンピックですか?

それは、考えられないでしょう!

オリンピックは、もう必要ないのじゃないですか?

あなたは、どう思いますか?


今のスポーツは、ほとんどがプロ化している。

オリンピックも、アマチアスポーツの祭典といいながらプロ集団の祭典だ。

オリンピック憲章には、「スポーツを通じて平和な世界の実現に寄与することと目標をさだめ、勝敗ではなく、ルールを遵守し正々堂々と全力を尽くす平和の祭典」とある。

純粋にそう信じて時代もあった。

果たして、現在のオリンピックもそうだろうか?

わたしには、そうは思えない。

言いたいことは山ほどあるが、私の結論は、個々のスポーツは、そてぞれでワールドカップを開催すればいいのではないということ。

侍ジャパンが優勝した、野球のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)は、感動の連続だった。

サッカーのワールドカップ同様に、テニス&ゴルフのように、ほかのスポーツにも世界大会はある。

個々のスポーツがスポンサーをつけて、ワールドカップを開催すればいい。

オリンピックのように、一同に会する必要はない。

極論かな。

今回は、常々思っていたことを呟いてみました。

反論はあると思いますが、受付ていませんのでご理解を!
posted by ito-san at 17:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年04月18日

ナシ・チャンプールの老舗店「Warung Makan Teges」@UBUD(499)

90年代のウブドに、美味しいナシ・チャンプールが評判だった、三大人気ワルンがある。

「ワルン・カチュ」と「ナシ・アヤム・クデワタン」と「ワルン・トゥグス」だ。

日本もそうだが、運転手の立ち寄るワルンは美味しいと聞く。

この三軒も、観光ツアーの運転手が立ち寄るワルンとして知られていた。


デヴィ・シータ通りにあった、今は無き「ワルン・カチュ」。

アパ?情報センター主催のスアールアグン歌舞団ジェゴグ・ツアーの弁当(ナシ・ブンクス)は、ここで調達していた。

1994年から2004年までの10年間、お世話になったと思う。

味は、現在アンドン地域にあるワルン・チャンドラに受け継げられている。

わけは教えられません。

最後尾に、ワルン・チャンドラの動画を貼ってあります。


「ナシ・アヤム・クデワタン」は、ウブド西方約5キロ地点のクデワタン村にある。

クデワタンにあるからナシ・アヤム・クデワタン。

ちょっと場所が遠いのと、味が辛いので、食べている頻度は少ない。

ウブドに滞在を始めた1990年5月から「居酒屋・影武者」を開店する1991年7月10日まで、夕食は主にウブド市場のセンゴール(夜市)だった。

「居酒屋・影武者」開店後は、ワルンでの外食は減る。


そして、今回紹介する「ワルン・トゥグス」です。

場所はウブドの東、プリアタン村の南端の集落。

こちらもトゥグス村にあるからワルン・トゥグス。

トゥグス・カワン集落のT字路を、マス村に向かって南下して100メートルほどの右手の集落の一番端。

隣には、田んぼが広がっていた。

現在は、建物が続いていて見逃してしまった。

正面にあるバイクのサービスショップは、古くからあった。
1.jpg

突き出し看板を見ると、なんと創業1963年とある。
2.jpg

ひょっとすると、ウブドで一番古いワルンかもしれませんね。

テント看板には、集落名は「Br.Yangloni」とある。
3.jpg

こんな名前の集落が、トゥグス村にあるとは知らなかった。


およそ25年ぶりの訪問か?

ワルンの造作は、まったく変わっていない。

女将の顔も懐かしい!

勝手知ったる他人の店。

ナシチャンプールをオーダーして、屋敷の奥に入っていく。

ここは、屋敷内に客席があるワルンの走りかもしれない。

というより、私が知らなかっただけで、これがウブドでは普通だったのかもしれない。

コロナ禍をどう乗り切ったか、気になるところ。

ローカル相手で、持ちこたえたのだろうか。

繁盛しているからか、屋敷棟は豪華になっていた。

南棟のテラスは座敷、バレ・ダギン(儀礼棟)と西棟はテーブル席。

座席数が増えている。


私は儀礼棟に席を確保した。

昔ながらの、汁が少しかかったナシチャンプール。
4.jpg

味も懐かしい!

ちょっと辛かったのを思い出す。

ナシ・チャンプール+テ・パナス(温紅茶)=Rp35,000-

60年間守り続けた老舗の味を、あなたもお試しください。


店舗の左手にある屋敷門
5.jpg

屋敷門から入ると、こんな景色
6.jpg


編集で音声が大きくできました。



「ワルン・チャンドリ」

posted by ito-san at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年04月10日

画家の村と言われる「ペネスタナン集落」と画家ソキ氏の紹介(498)

ウブドの西端チャンプアン橋を越えたところから、ペネスタナン村になる。

集落は、橋の袂から急坂を登って、さらに奥地にある。

古くは、サヤン地域を生活圏とした、孤立した村だった。

村名は、霊力の強いと言う意味だと教えられた。

ウブドの観光化に伴って、画家の多い村として知られるようになる。

アリー・スミット(Arie Smit)氏が住みはじめ、村人に絵の描き方を指導したことが要因だろう。

1960年代、それまで暗い印象だったバリの絵画に鮮やかな色彩を与え、新しい画風を作り出した。

その画風は、ヤング・アーティスト・スタイル(Young Artists Style )と呼ばれている。

アリー・スミット氏は、幻想的にバリを描き続けるオランダ出身の画家。

ドイツ人画家のヴォルター シュピース(Walter Spies)、オランダ人画家のルドルフ ボネ(Rudolf Bonnet)、とともに、バリ絵画に影響を与えた人物で、ピタ・マハの創立にも深く関わっている。

晩年は、ネカ美術館内の住居で余生を送っていたと聞く。

2016年3月23日、享年99歳で昇天。


ヤング・アーチスト・スタイルの絵は、バリを紹介する書籍には必ず紹介されている。

有名な画家がいるのも知っている。

名前は「ソキ=Soki」。

I Ketuk Soki:1943年生まれ。

ヤング・アーチスト・グループ初期のメンバーで、ペネスタナン・スタイルの第一人者。

気には止めていたが、あえて見つけようとはしなかった。

私は備忘録として、youtubeに動画を投稿している。

これまで気づかなかったが、ペネスタナン村で一編制作できるのはないかと思いたった。

古い佇まいを今も残している、お気に入りの集落である。

「画家の村散策」のキャッチフレーズで、ギャラリー巡りも面白い。

この機会に、ソキ氏のギャラリーも紹介しよう。

気に留め出すと見つかるもの。

日頃、頻繁に利用している道沿にあった。

soki.jpg


ギャラリーの扉は、閉じられていた。

店の前でたむろする若者のひとりに「ギャラリーは閉まっているのか?」と聞くと、答えは「そうだ」だった。

「ソキさんの絵が見たい」と伝えると、「それならこちからです」と別棟にある2階の小さなギャラリーに案内された。

ギャラリーは、屋敷の正面玄関から入ると1階になる。

ご婦人が迎えてくれた。

壁いっぱいに飾られた、ヤング・アーティスト・スタイルの絵画に圧倒される。

ソキ氏の自筆の作品を見るのは、初めてだ。

案内してくれた青年は、Ali君。

第二夫人の息子で、後継者となってギャラリーを守っていた。

迎えてくれた婦人は、第二夫人。

ソキ氏は、四人兄弟(女、女、男、男)の末っ子。

2022年10月16日に心臓病(penyakit jantung)で、享年80歳で他界されたそうです。

生前に会うことは叶わなかったが、第二夫人とAli君に会って交流を深めることができた。

soki3.jpg
生前最後の作品。

ソキ・ギャラリー


画家の村散策


同伴者の動画。こちらの方が見応えがあります!

posted by ito-san at 02:05| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年04月06日

帰ってきたホワイト・ボックス=WHITE box Ubud (497)

ウブドを知る人ぞ知る「ホワイト・ボックス」。

その「ホワイト・ボックス」が、ゴアガジャ遺跡の近くに開店している。

そんな噂を、今年(2023年)に入った2月頃からだったろうか、2〜3人から聞いた。

「ホワイト・ボックス」はケーキの美味しい店で、私もよく通った。

3月28日、気になっていたので、訪れてみた。

場所は、ウブドから向かったゴアガジャ遺跡の手前になる。

滝の見えるレストランで有名な「Layana Warung」の西側駐車場、と説明した方がわかりやすいかもしれません。

WHITEbox2.jpg

WHITEbox1.jpg

「Layana Warung」は、こちらの動画で
https://www.youtube.com/embed/yPsDpdvmGZU


美味しいコーヒーが飲めるかと期待して訪れたが、メニューにドリンクがない。

以前は、イタリアのコーヒーメーカー「illy」のコーヒーが飲めた。

「コーヒーは、隣の店に行ってください」と、スタッフにLayanaに向かう階段を示された。

残念なことに、メニューからグラタンもドリアも消えていた。

WHITEbox3.jpg

大家さんが経営する「Layana」と、メニューがバッティングしないようにしているのだろうか。

ケーキを食しながらコーヒーブレイクと考えていたが、コーヒーのないコーヒーブレイクは考えられない。

動画撮影しただけ退店した。





ウブドを知る人ぞ知る「ホワイト・ボックス」は、アンドンの交差点を北上し、スーパーマーケット・デルタ・デワタを通り越して30メートル程進んだところにあった。

小さなアーリーアメリカンな建物は、真っ白く塗装され、ネーミングにぴったりの佇まいだ。

white-box.jpg

バリ東部の港・パダンバイに本店があるケーキ店のウブド出店らしい。

有名なレストランのシェフだった人がオーナーと聞く。

2009年3月2日、ソフトオープン。

店の都合で、9月まで臨時休業するという噂を残して5月頃に閉店。

9月を過ぎた時点で、噂は信憑性を無くした。

再オープンはないのかと、あきらめかけた12月2日に開店した。

ウブドにパン&ケーキの専門店は少なかった。

人気店は「カキアン・ベーカリー」。

「魅力的なスイーツが勢揃いしていて、ウブドのスイーツ好きたちをうならせている」なんて、コピーがあった。

「ホワイト・ボックス」の出店で、美味しいケーキが食べられる選択肢が増えた。


2012年まで営業していたのは、ネットに上げられているブログから確認できた。

奥にある建物で、予約制のレストランを営業していたのも知っている。

その後、何年までここで営業していたかが定かでない。

マス村に移転したと言う噂を聞くようになってから、私の足は遠のいてしまい、情報も途絶えた。

ということは、10年ぶりのホワイト・ボックスだったということか。

以前のホワイト・ボックスを知る人は、もう数少ないかもしれないね。

そういう意味では、今回は新規開店だとも言える。

健闘を祈る。


蛇足だが。

ホワイト・ボックス閉店後、しばらく空いていた店舗には「福寿=フーショー」がウブド大通り(トゥブサヨ村寄り)から移転し、現在人気の中華料理店になっている。

フーショーの開店は、コロナ前と聞くから、2019年の開店か。
posted by ito-san at 03:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする