2024年04月26日

ウズベキスタンのナシゴレン「Plove」を食べてみた!(533)

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バリ島にロシア人が増えつつあるという噂は、コロナの流行以前からあった。

ウブドには、ロシア村と揶揄されて呼ばれる村がある。

ことの発端は「コワーキングスペースPARQ」ができたからだ。

広大な敷地に、ノマドワーカーの拠点「パルク・ウブド」が出現したのは、2019年初頭。

詳しくは;伊藤博史のブログ|生涯旅人
「コワーキングスペースPARQを徘徊! @ Ubud・Bali(408)」をご覧ください。
http://itosan-ubud.seesaa.net/article/485673543.html


特に、ウクライナとの戦いが始まって以来(2022年2月24日)、急増しているのは、肌で感じている。

徴兵を逃れる若年層が世界中に移民していると聞く。

ウブドには、ロシア村ができてしまうほどロシア人が長期滞在している。

バリ島中で20,000人、ウブドで数千人はいるだろう。

ロシア村発信源「パーク・PARQ」 @ テガランタン・ウブド・Bali




そろそろ、今回の本題に入ろう。

ロシア人が増えている割には、ロシア料理店が見つからないのだ。

彼らは、どこで何を食べているのだろう?

気になるので、時間がある時には、探し回っている。

ロシア料理のレストランを探しているうちに、ウズベキスタン料理の店にぶちあたった。

レストラン名は「Buhara Chaihana Balic」。

クトゥ村ティルタタワール通り(Jl.Tirta Tawar)にあります。

グーグルマップの口コミには、ピラフの美味しい店とあった。

焼き飯・チャーハン・ナシゴレン・ピラフに目のない私は、早速視察。

ウズベキスタンのナシゴレンは「Plove」と言うらしい。

メニューには、steamed fried rice cooked on fire oak, raisin,carrots and young lamb. と記されている。

料理法に特徴があるようで、説明を受けたが理解できませんでした。

相変わらず食レポはできませんが、美味しかったです。

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ところで、ウズベキシタンっていう国はどこにあるの?

ウズベキスタンは中央アジアの国で、旧ソ連の構成国でした。

あなたは、知っていましたか?

もちろん、私は知りませんでした。

ブログは書いているタイミングで知人が、ウズベキシタンを旅しています。

私も行きたいな!

追記:ウブドにあるロシア料理店をご存知の方は情報を待ってます。




おまけの情報
久しぶりに遭遇した!
背伸びしないと用を足せない便器。
身長178センチの私でも、爪先立ちます。

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posted by ito-san at 19:23| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月15日

私は親権を妻側に委ねた男!(532)

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この頃、 X(=ツイッター)に「共同親権」という言葉が頻繁に上がってくる。

親権については、離婚経験者なので理解しているが「共同親権」は耳新しい。

それが今、国会で、共同親権制度を強行裁決しようとしていた。

わずか10日のスピード審議だそうだ。

どこから浮上して、なぜそんなに急いでいるのかわからない。

私のような政治オンチには、どんな思惑があるのか、まったく理解できない。


親権は、親の権利ではなく子供に対する責務。

共同親権制度が導入された場合、どんな問題が危惧されるのか?

離婚の原因が児童虐待だった場合、被害の継続や拡大がありうる。

それは、子供にとって不幸なことだ。

もちろん夫婦間の暴力もある。

離婚が成立したら、二度と連絡を取りたくない人もいるだろう。

私でさえ、これぐらいは思いつく。

共同親権が採決されて浮上してくる問題点は、私の頭脳では思いつかないほどあるだろう。

それはこれから勉強していくとして、今は「共同親権に反対!」の声を上げておく。 



今回は「親権」に関連した、プライベートな話を書いてみた。

私は親権を妻側に委ねた男。

海外旅行を計画していた私は、住民票の申請に市役所を訪れた。

受け取った住民票は、養子だったはずの私の名前が、元の姓に戻っていた。

カウンターの女性に、その事を聞くと「奥様がご両親と見えて、離婚の申請をしていきました」との答え。

息子は、妻の両親の養子になっていた。

私は離婚した覚えはないし、息子を養子に出した覚えもはない。

「こんなことが相談もなく、勝手にできるんだ!」と唖然とした。

しかたなく、旧姓にもどった住民票を受け取った。

同じ屋根の下で暮らしながら、何の話し合いもなかった。

離婚の理由はわからないが、私の生活力のなさだとは想像できる。

妻の両親と姉妹が望んんでいるのなら、修復は無理だろう。

息子には、可哀想だが、従うしかない。


家庭裁判所からの呼び出しがあった。

調停委員は、離婚の理由は伝えず、健全な両親の援助がある妻側に息子を引き取らせることを提案した。

日本の親権は、妻側が有利な単独親権。

それが私の常識だった。

子供のことを考えれば、それで良かったと思っている。


私のケースは、息子が成人して、本人が父親に会いたいと考えるまで、会うことは許されない。

どうせ会えないのならと、私は息子とは同じ土地に住むことを拒み、行き先も告げず日本を離れることにした。

息子に、別れの言葉もなく姿を消した

二度と日本には戻らないことを覚悟した、終の住処を探す旅となった。

そして、バリ島ウブド村に長期滞在して34年。

8歳で別れた息子は、20歳になって会いに来てくれた。

空港の歓迎ロビーに、子供から大人に変化した息子が立っている。

「おう、久しぶり!」

涙の対面にはならず、ミョウチクリンな声をかけていた。

会う前には、あれも言おう、これも聞こうと思っていたのに、照れていたのか言葉にならない。

しかし私の心は、12年間の空白を一瞬に埋めていた。

最後の荷物を取りに行った日、息子は私の車を、泣きながら追っかけた、と話してくれた。


親の離婚の被害者は、子供達だ。

離婚の理由には、様々なケースがあると考えられる。

親権についても、様々なケースに対応できる解決策が必要になるだろう。

「共同親権」については、今後も注視していきたいと思っている。

posted by ito-san at 19:08| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月09日

内緒にしておきたい情報「インディゴ染めの店2軒」!(531)

インドネシアの国土は東西に広く、アメリカ合衆国の幅と同等の長さに17,000を超える島々を抱える群島国家。

その横長の国を東西に二分して、バティック&イカットの布の文化が分布する。

バリ島を含む西の島々にはイカットが、ジャワ島を含む東の島々にはバティックの伝統が残っている。

イカットに興味を持ちロンボク島、スンバワ島、スンバ島、フローレス島と巡ったことがある。

それぞれの土地に特徴があって、興味深い旅だった。

バリ島のイカットは、日本の絣模様に似ている。

インドネシアのバティックは、2009年10月、ユネスコの世界無形文化遺産に認定されて脚光を浴びている。

バティック&イカットの詳細は、ここでは説明しないので各自で学習してください。


バリはイカット文化が根付いている地域だが、近年はバティックも生産している。

今回は、バリのバティックについて取り上げてみた。

文化遺産に認定された伝統模様のバティックでなく、モダンな図柄に出会った。

染料もインディゴ、私の大好きな藍染だ。

伝統柄の良さは理解できるが、それよりも好きな色と柄が見つかったのです。

日本の伝統模様を大柄にアレンジして、キャンパス布に藍染されている。

力強い仕上がりには存在感があり、時を経て色あせたとしても、温もりを残してくれることを約束してくれているようだ。


ウブドにあるバティックの店を二軒紹介したい。

@『 IKATBATIK=イカットバティック 』

ウブドで有名な藍染の店。

モンキーフォレスト通りの南端にある。

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ファサードは狭いけど、店内に入ると中庭を挟んで素敵な展示スペースが点在している。

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ファブリックはもちろんだが、インディゴカラーの陶器、アクセサリー、雑貨小物がセンス良く展示されている。

品揃いも豊富で、購買意欲をそそられる。

なぜか、シンギングボールもあった。

オーナーは以前、「Gaya Ceramic And Design」でマーケティング担当として実績を積んでいる。

「なるほど!」と納得できる経歴だった。




A『 Indigo Batik Pejeng 』

こちらは、ペジェンの王族が経営する工房。

王家の後継は、村人思いの芸術家で、村人の雇用のために始めたビジネスだと聞いている

バティック制作風景も見られます。

もちろん販売もしています。



ペジェン村の王族が経営する藍染の工房「Indigo Batik Pejeng」を見学!


posted by ito-san at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月04日

あの坂本龍一氏も訪れたマンディ場 @グヌン・カウィ寺院 スバトゥ村(530)

友人からのメッセンジャーに、家族の近況報告とユーチューブ動画が送られてきた。


動画は「1985年 音楽の旅はるか 坂本龍一YAS-KAZU バリ島」だった。


神々と電子音楽の饗宴




友人は、坂本龍一の超々崇拝者。


坂本龍一33歳の姿とバリの風景に感動する。


動画の中でマンディ(水浴び)する場面がある。


どこだろうと、場所が気になって、何度も見返した。


テロップには「プジョン」とある。


スバトゥ村で、録音したという話は有名だ。


もしかするとプジョンは、プジュン=Pujungのことだろうか。


プジュンなら私も知っている。


グヌン・カウィ寺院(Pr.Gunung Kawi)スバトゥが位置する集落がプジュンだ。


村人は、この辺りをプジュンと呼ぶのが通例。


余談だが、テガラランのライステラスは、村人にはチキン(Ceking)テラスと呼ばれている。


坂本龍一とヤスカズが入ったマンディ場は、スバトゥのグヌン・カウィ寺院だと確信を持った。


あとは、確認するのみ。




そして、愛バイク・スクーピーを転がして行ってきました。


ウブドから北上すること約10キロ、テガラランのライステラスを過ぎた、小さな村。


パサールのある十字路を右折。


メイン道路を外れるので、少し不安になるほどの田舎道をしばらく走って左折すると、左手に見下ろす形で寺院が見えてくる。


グヌン・カウィ寺院 スバトゥは、見下ろしたことはあるが参拝したことはない。



バイクを止め、ローカル価格Rp20,000-を払って入場

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門を入ると、右手に鯉が泳ぐ池が見える。

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May Peace Prevail On Earth(世界人類の平和でありますように!)の表示板

ウブドにもあったのを思い出す

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奥の寺院にいる村人が、お供えの花とお香を用意してくれる

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故・坂本龍一氏 とヤスカズ氏が入ったマンディ場



正式には、ムルカット(聖なる沐浴)場です。


1985年の映像では門柱に、右側が男子(pria)で左側が女子(wanita) の表示になっていますが、現在表示はありません。


マンディとして使用されていた頃は、男女別のマンディ場だった。


いつの頃からか、左右どちらも使うムルカット場になったということでしょう。


正装はしてきたが、濡れても良い準備をしてこなかったので、ムルカットは次回に持ち越すことにした。





posted by ito-san at 18:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする