現在、土岐市で世話になっている友人は現役のイラストレーター。
みんなからは親しみを込めて「画伯」と呼ばれている。
今は亡きお父さんは、陶器の絵付師。
特殊が技術が求められる匠の職人です。
私の寝床確保のために、お父さんの仕事場を整理してくれた。
まだまだ使える道具や、使われなく長年眠っていた物が片付けられていく。
処分するゴミが集められたところで、市の処分場に持っていく。
同居人の男性と私が手伝うことになった。
軽自動車で8回ほど、往復した。
この処理場を見て、日本のゴミ処理は進んでいると感じた。
ついこの間まで滞在していたバリ島は今、ゴミの処理問題に直面している。
私が訪れた1990年から問題になっていたが、一向に改善された様子はみえない。
今回、日本に帰り、土岐市からゴミの処理について学んだ。
市民から行政の一貫した分別ゴミ処理が、街を清潔にしている。
ここに記録に留めて、機会があれば、バリ島にアドバイスできればと思う。
土岐市環境センターを見学してきた。
ここには、地域で分別されたゴミが清掃車で運ばれてくる。
家庭で出る多量のゴミや、事業から出る一般廃棄物(陶器の町だから、食器や型など)が持ち込まれる。
日本には各地に、これくらいの規模か、それ以上の規模の焼却施設があると言われている。
各家庭による早朝の分別ゴミ
家庭からのゴミは、燃えるゴミ、燃えないゴミ、資源物、粗大と指定された日と場所に分別して出される。
みんなが少しづつ手間をかけることで、ゴミの問題は解決される。
清掃車が、こうして分別されたゴミを回収して地域を回っている。
役所やスーパー、コンビニなどにも、分別ゴミの投棄ボックスが用意されている
これは、一般家庭とは別ルートで回収されると聞いている。
市民から行政へと一貫した分別ゴミ処理が、街を清潔にしていく。
清潔な街は、住みやすい街の第一歩。
バリ島9つある県に、こんな焼却施設があれば、今のゴミ問題は解決されると思うのだが。
政府は気が付いているのに、やろうとしないのだろうか?
早く手を打たないと、観光地としての魅力が減速してしまうと心配する。
■追加情報「ポイントカードを利用できる「古紙回収BOX」見つけた!」
こんな取り組み歓迎だね(下石町県道19号沿い・エアーポート77近く)
2024年12月23日
2024年12月17日
まずはテント生活から(3)
土岐市の駅前に降り立った時、呆然とした。
大都市でもあるまいに、何を期待していたのかな。
たいてい地方都市の駅前は、こんなもんだということを思い出した。
人口10万人も満たない、54,286人の小都市。
年々人口は減少しているようだ。
乗用車の普及が、拍車をかけているのだろう。
土岐氏は陶器の街として古くからある町、私を魅了するものは残っているはず。
歴史はおいおい勉強していくとして、まずは自然環境を見てみたい。
友人に、スマホで駅に着いたことを知らせた。
和食・影武者の女将由美さんが、セッティングしてくれた海外ローミングが役に立っている。
車で迎えに来てくれる。
不安と期待を織り交ぜた気持ちで、友人を迎えた。
何年ぶりの再会だろうか。
数日前に別れたばかりの友人に会うような、呆気ない対面だった。
仕事が忙しく、私の寝床の確保ができていなく、とりあえず庭でテント生活となった。
こんなことで驚く私ではない。
ヨーロッパでは、駅前でホームレスと一夜を共にした。
温風が吹き出る場所を、譲ってくれた。
オランダでは、運河に係留されたボートにもぐって寝た。
朝方、叩き起こされたが。
トルコではバスに乗り遅れ、港の芝生で一夜を明かした男だ。
野宿でないだけで御の字だ。
3日ほど、小雨が当たるテントで暮らした。
テント暮らしだが、食事は家族と一緒に母屋でする。
6人が同居する大家族だった。
毎晩、心温まる食事がテーブルに並んだ。
家族の団欒は、久しぶり。
良いもんだ!
寝床を確保するために、荷物を片付けをする。
お父さんの仕事場だったところを私に提供してくれる予定のようだ。
着々と、私の住処が完成していく。
どんな生活が始まるのか、楽しみになってきた。
大都市でもあるまいに、何を期待していたのかな。
たいてい地方都市の駅前は、こんなもんだということを思い出した。
人口10万人も満たない、54,286人の小都市。
年々人口は減少しているようだ。
乗用車の普及が、拍車をかけているのだろう。
土岐氏は陶器の街として古くからある町、私を魅了するものは残っているはず。
歴史はおいおい勉強していくとして、まずは自然環境を見てみたい。
友人に、スマホで駅に着いたことを知らせた。
和食・影武者の女将由美さんが、セッティングしてくれた海外ローミングが役に立っている。
車で迎えに来てくれる。
不安と期待を織り交ぜた気持ちで、友人を迎えた。
何年ぶりの再会だろうか。
数日前に別れたばかりの友人に会うような、呆気ない対面だった。
仕事が忙しく、私の寝床の確保ができていなく、とりあえず庭でテント生活となった。
こんなことで驚く私ではない。
ヨーロッパでは、駅前でホームレスと一夜を共にした。
温風が吹き出る場所を、譲ってくれた。
オランダでは、運河に係留されたボートにもぐって寝た。
朝方、叩き起こされたが。
トルコではバスに乗り遅れ、港の芝生で一夜を明かした男だ。
野宿でないだけで御の字だ。
3日ほど、小雨が当たるテントで暮らした。
テント暮らしだが、食事は家族と一緒に母屋でする。
6人が同居する大家族だった。
毎晩、心温まる食事がテーブルに並んだ。
家族の団欒は、久しぶり。
良いもんだ!
寝床を確保するために、荷物を片付けをする。
お父さんの仕事場だったところを私に提供してくれる予定のようだ。
着々と、私の住処が完成していく。
どんな生活が始まるのか、楽しみになってきた。
2024年12月11日
ハノイの夜景を見ながら考えたこと(2)
窓外の夜景を見下ろしながら、ウブドを離れることに未練はないか?と自問した。
まったくないと言えば、嘘になる。
しかし、感傷的になることはない。
誰一人として知り合いのいないウブドに滞在を始めたのは、1990年の5月。
運が良いことに、この村の若者たちは日本語が覚えたがっていた。
日本人旅行者が増え、会話ができることで収入を得られることを知った。
そんな彼らは私を利用し、私は彼らとのコミュニケーションを必要としていた。
信仰・文化・慣習・芸能すべてに興味を惹かれて、34年間の滞在となった。
私の能力では、これ以上習得することはできないだろう。
諦めたのではなく、見切ったのである。
2015年、25年ぶりの日本一時帰国。
この時、ウブドを離れようと考えた。
南米コロンビア・サレント移住計画だ。
*サレントは、コロンビアのキンディオ県の北東にある町で、コーヒー生産で世界遺産登録された観光地。
現地に、ウブドで知り合ったジュンペイさんがいたので、チャレンジしてみた。
観光客としての訪問なら楽しいところだが、残念なことに私の生活には向いていなかった。
ビザ有効期限の6ヶ月で諦め、ウブドに戻ることに決めた。
私は人生に何を求めているのだろう。
生きがいだろうか。
答えは見つかっていない。
生涯旅人『南米コロンビアの旅』を一読いただけると嬉しいです。
あそこに行きたい、ここも行ってみたい。
あんなことをしてみたい、こんなこともやっておきたい。
そんな気持ちは残っている。
今回ウブドを離れる時、それらはすべてを次の人生に持ち越すことにした。
バリの信仰するヒンドゥー・ダルモに輪廻転生という考え方がある。
人は死んでも何度も生まれ変わる。
なかなか天国には行けず、人間界に戻って試練の道を歩むことになる。
それでも、もう一度人間に生まれてきたい。
残りの人生、今世で思い残すことがないように生きたい。
今回、土岐市に移住を決めたのは、友人を頼ってである。
25年ぶりの日本一時帰国の際、友人を集めた歓迎会の幹事を受け持ってくれた彼女です。
この歳になると頼る人のいない移住には、自信がない。
先回の捨て身の日本脱出と違って、今回は大いに戸惑いがある。
これからの日本での生活は、終活になるだろう。
都会でもない、田舎でない、そんな町に住んでみたかった。
そんな私の思いに、アシストしてくれる人物がいた。
つくづく幸運に恵まれた男だと思う。
骨を埋める覚悟で帰国する。
町の魅力を全身で感じてみたい。
終活ではあるが、悔いのない人生にしたいと、老体だが精神は燃えたぎっている。
ウブド生活は私の人生第2章となった。
人生第3章、土岐市生活が楽しみだ。
生きがいは見つかるだろうか?
まったくないと言えば、嘘になる。
しかし、感傷的になることはない。
誰一人として知り合いのいないウブドに滞在を始めたのは、1990年の5月。
運が良いことに、この村の若者たちは日本語が覚えたがっていた。
日本人旅行者が増え、会話ができることで収入を得られることを知った。
そんな彼らは私を利用し、私は彼らとのコミュニケーションを必要としていた。
信仰・文化・慣習・芸能すべてに興味を惹かれて、34年間の滞在となった。
私の能力では、これ以上習得することはできないだろう。
諦めたのではなく、見切ったのである。
2015年、25年ぶりの日本一時帰国。
この時、ウブドを離れようと考えた。
南米コロンビア・サレント移住計画だ。
*サレントは、コロンビアのキンディオ県の北東にある町で、コーヒー生産で世界遺産登録された観光地。
現地に、ウブドで知り合ったジュンペイさんがいたので、チャレンジしてみた。
観光客としての訪問なら楽しいところだが、残念なことに私の生活には向いていなかった。
ビザ有効期限の6ヶ月で諦め、ウブドに戻ることに決めた。
私は人生に何を求めているのだろう。
生きがいだろうか。
答えは見つかっていない。
生涯旅人『南米コロンビアの旅』を一読いただけると嬉しいです。
あそこに行きたい、ここも行ってみたい。
あんなことをしてみたい、こんなこともやっておきたい。
そんな気持ちは残っている。
今回ウブドを離れる時、それらはすべてを次の人生に持ち越すことにした。
バリの信仰するヒンドゥー・ダルモに輪廻転生という考え方がある。
人は死んでも何度も生まれ変わる。
なかなか天国には行けず、人間界に戻って試練の道を歩むことになる。
それでも、もう一度人間に生まれてきたい。
残りの人生、今世で思い残すことがないように生きたい。
今回、土岐市に移住を決めたのは、友人を頼ってである。
25年ぶりの日本一時帰国の際、友人を集めた歓迎会の幹事を受け持ってくれた彼女です。
この歳になると頼る人のいない移住には、自信がない。
先回の捨て身の日本脱出と違って、今回は大いに戸惑いがある。
これからの日本での生活は、終活になるだろう。
都会でもない、田舎でない、そんな町に住んでみたかった。
そんな私の思いに、アシストしてくれる人物がいた。
つくづく幸運に恵まれた男だと思う。
骨を埋める覚悟で帰国する。
町の魅力を全身で感じてみたい。
終活ではあるが、悔いのない人生にしたいと、老体だが精神は燃えたぎっている。
ウブド生活は私の人生第2章となった。
人生第3章、土岐市生活が楽しみだ。
生きがいは見つかるだろうか?
2024年12月03日
生涯旅人、最後は日本生活です!(1)
早いもので日本に来てから一ヶ月が経過した。
移住の手続き、アパート探しと入居の準備に時間が取られ、ブログを書く時間が見つけられなかった。
WiFi環境が整っていないのもあるが、環境の変化で自分のペースに戻れていないのも原因だと思う。
11月22日に、アパートの入居。
快適な空間が確保できました。
アパート紹介は、おいおいということで。
ブログはライフワークとして続けたいので、今後ともお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
帰国日の記録を、覚えとしてメモっておきます。
バリ島デンパサール国際空港まで車で送ってくれたまりこさんと、見送りに来てくれるはずの高木夫婦とお茶をする約束だったが、会えずじまい。
二度とバリでは会えないかもしれないのに。
スマホで連絡が取れないし、時間がないのではと焦る私は、そうそうにチェックインしてしまったのでした。
何と言っても、10年ぶりの飛行機搭乗だから。
搭乗手続きの無人化で、ほとんどがコンピューター対応だと聞いて、インターネット恐怖症の私は恐れをなしている。
毎夜、和食・影武者の大テーブルを囲んで友人たちから、さまざまなアドバイスをもらった。
チェックインしてからのハードロックカフェ
10月26日(土)デンパサール交際空港 17:30発・ベトジェット(VJ998)
ベトジェット初乗り
10月26日(土)ベトナム・ハノイ国際航空 21:45着
和食・影武者の女将由美さんが、この日から一ヶ月間、バリで使っていたスマホが日本でも使えるように海外ローミングを繋いでくれた。
ハノイのトランジットでは、アキラさんから餞別でいただいたUSドルでベトナムのラーメン(名前は忘れた)を食した。
バリ人女性が「静岡の息子に会いに行くのですが、日本語ができなくて困っています。名古屋の空港まで手助けしてください」と不安そうに声をかけてきた。
私の方が助けて欲しい心境ですが、初めての日本訪問のバリ人よりは私の方が頼りになるだろう。
「はい、大丈夫です」と答えた。
10月27日(日)ベトナム・ハノイ国際航空 01:35発・ベトジェット(VJ920)
10月27日(日)中部国際空港セントレア 08:00着
バリ人女性の書類作成をお手伝いして、私は顔認証やなんだかんだの不安材料を無事クリアーして到着ロビーに向かう。
私のあとしばらくして、彼女が到着ロビーの出てきた。
彼女が私に小さく手を振るのと同時に、息子さんが駆け寄って行く姿が見えた。
セントレアは、私がウインドサーフインをしていた常滑沖に2005年に完成。
朝食は、コメダ珈琲のモーニングセット。
セントレアから名鉄常滑線で金山駅へ。
30キロ弱のスーツケースとハンドパン(楽器)とリュックを背負っての移動。
日曜日だったので、車内は空いていた。
電車の出発と同時に、スーツケースが滑り出し慌てて取り押さえる。
その後は、両足で挟んでキープ。
生まれ故郷の南区柴田駅を通り過ぎる。
金山駅から中央本線に乗り継いで、土岐駅に。
切符の購入も皆様のアドバイス通りで、スムーズに行きました。
何と言っても、日本語表記なのがいい。
当たり前か!
土岐駅には、友人が迎えに来てくれることになっている。
さっそく、海外ローミングを使って連絡を取る。
移住の手続き、アパート探しと入居の準備に時間が取られ、ブログを書く時間が見つけられなかった。
WiFi環境が整っていないのもあるが、環境の変化で自分のペースに戻れていないのも原因だと思う。
11月22日に、アパートの入居。
快適な空間が確保できました。
アパート紹介は、おいおいということで。
ブログはライフワークとして続けたいので、今後ともお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
帰国日の記録を、覚えとしてメモっておきます。
バリ島デンパサール国際空港まで車で送ってくれたまりこさんと、見送りに来てくれるはずの高木夫婦とお茶をする約束だったが、会えずじまい。
二度とバリでは会えないかもしれないのに。
スマホで連絡が取れないし、時間がないのではと焦る私は、そうそうにチェックインしてしまったのでした。
何と言っても、10年ぶりの飛行機搭乗だから。
搭乗手続きの無人化で、ほとんどがコンピューター対応だと聞いて、インターネット恐怖症の私は恐れをなしている。
毎夜、和食・影武者の大テーブルを囲んで友人たちから、さまざまなアドバイスをもらった。
チェックインしてからのハードロックカフェ
10月26日(土)デンパサール交際空港 17:30発・ベトジェット(VJ998)
ベトジェット初乗り
10月26日(土)ベトナム・ハノイ国際航空 21:45着
和食・影武者の女将由美さんが、この日から一ヶ月間、バリで使っていたスマホが日本でも使えるように海外ローミングを繋いでくれた。
ハノイのトランジットでは、アキラさんから餞別でいただいたUSドルでベトナムのラーメン(名前は忘れた)を食した。
バリ人女性が「静岡の息子に会いに行くのですが、日本語ができなくて困っています。名古屋の空港まで手助けしてください」と不安そうに声をかけてきた。
私の方が助けて欲しい心境ですが、初めての日本訪問のバリ人よりは私の方が頼りになるだろう。
「はい、大丈夫です」と答えた。
10月27日(日)ベトナム・ハノイ国際航空 01:35発・ベトジェット(VJ920)
10月27日(日)中部国際空港セントレア 08:00着
バリ人女性の書類作成をお手伝いして、私は顔認証やなんだかんだの不安材料を無事クリアーして到着ロビーに向かう。
私のあとしばらくして、彼女が到着ロビーの出てきた。
彼女が私に小さく手を振るのと同時に、息子さんが駆け寄って行く姿が見えた。
セントレアは、私がウインドサーフインをしていた常滑沖に2005年に完成。
朝食は、コメダ珈琲のモーニングセット。
セントレアから名鉄常滑線で金山駅へ。
30キロ弱のスーツケースとハンドパン(楽器)とリュックを背負っての移動。
日曜日だったので、車内は空いていた。
電車の出発と同時に、スーツケースが滑り出し慌てて取り押さえる。
その後は、両足で挟んでキープ。
生まれ故郷の南区柴田駅を通り過ぎる。
金山駅から中央本線に乗り継いで、土岐駅に。
切符の購入も皆様のアドバイス通りで、スムーズに行きました。
何と言っても、日本語表記なのがいい。
当たり前か!
土岐駅には、友人が迎えに来てくれることになっている。
さっそく、海外ローミングを使って連絡を取る。