「家族紹介(7)」で、パチュン家の末っ子で次男のコマンの名前「イ・グスティ・ヌラー・プリマナンダ(I Gusti Ngurah Primananda)」の「プリマナンダ」は、ワヤン・スタモ君の奥さんの命名だと書いた。
縁とは不思議なもので、ワヤン・スタモ君の名前が、パチュン家で出るとは思わなかった。
ワヤン君の奥さんは、パチュン君の奥さんイブ・マデとはバリ南部クタの同郷で家も近く幼友達だった。
ワヤン夫妻は、パチュンの奥さんを頼ってテガランタン村に滞在していた時期がある。
ワヤン君の奥さんは、インドのサティア・サイババからパワーをもらった人物。
サティア・サイババ(2011年4月24日年没)は、世界的に有名なインドの聖者。この時は、まだ健在だった。
そんないきさつから名付け親になったようだ。
今回は、バンリ県出身の「ワヤン・スタモ君」について話すことにする。
実は、私とワヤン君との出会いは1998年と古い。
出会いは、ふらっと出掛けたバンリのダラム寺院のオダランだった。
その時、境内を歩いている私に日本語で話かけてきたのがワヤン君だ。
彼は、独学で日本語を勉強していた。
そう言えば「アパ?情報センター」の開設も、ダラム寺院プリアタンのオダランで知り合ったニョマン君との出会いからだった。
私はオダランで知り合った、向上心のある男性をスタッフにハンティングする癖があるようだ。
日本人と生きた日本語を話したいと思っているワヤン君は、訪れる旅行者の少ないバンリ市で日本人に出会える機会はまったくない。
そんなことから、私に声を掛けてきたのだ。
「もっと日本語が話したいので訪ねました。
よかったら、バンリの街を案内しましょう」
この言葉に、これは新手の客引きかと疑った。
たとえ押し売りガイドだとしても、許せるだけの好感を持つ彼の言葉に、私は素直に従った。
バンリの街、遺跡のある村、伝統を残す村、湖や田畑の美しい景色など、近郊の見所をくまなく案内してくれた。
ガイド料は請求されなかった。
彼はやはり、日本語が話したかっただけだった。
そして、自慢の故郷バンリを紹介したかったのだ。
3日間行動を共にしただけだが、それだけでも彼の誠実さが充分に理解できた。
「もし、ウブドで働きたければ紹介できるところがあるから、その時は、私の作業場に訪ねて来るといい」
連絡先を書いたメモを彼に手渡し、バンリ市の旅を終えた。
「神々に捧げる踊り・その二:バトゥ・ガイン寺院」に、その時のエピソードを書いた。
後日、ウブドに訪ねて来た彼には「アパ?情報センター」を手伝ってもらうことにした。
そして半年後、彼は「この仕事は、わたしには向いていません」。
そう言ってバンリへ帰っていった。
ウブド滞在の半年間の彼の不可解な行動は、今でも私の知人の間では語り草になっている。
その不可解な行動とは?
「伊藤さんは、光明を見ましたか?」と訊いてきたことがある。
以前、瞑想中に一条の光が額に飛び込んで来た体験を、私は話した。
その頃から彼は、夜な夜な白装束に身を包みホームステイの家寺で横になることが多くなった。
信仰心の厚いバリ人でも珍しい行動だった。
彼は、瞑想に興味をもち、モンキーフォレス通りにあった欧米人の主宰する「瞑想センター」に通い始めた。
こうして、精神世界にのめり込んでいったようだ。
バンリに帰った彼は、バンリ市の役所に勤めて植樹の仕事をしていた。
多くの人と向き合う仕事より、自然と触れ合う仕事のほうが彼には向いているようだ。
バンリに帰ったあとも、私は彼と連絡を取り合っていた。
結婚し、一子を授かる。
私の提案で、クヘン寺院前に「アパ?情報センター・バンリ支店」を開設した。
この頃、夫婦中が悪化していたようで、離婚することになってしまった。
奥さんの実家はクヘン寺院の横、「アパ?情報センター・バンリ支店」真ん前だった。
そんなことで、バンリ支店は、短期間で閉鎖した。
バンリでのオダランでトランス奉納があると連絡があると、私はよく出掛けていった。
アパ?のバリアン体験・ツアーの切っ掛けをつくってくれたのが彼だ。
ジャンゲール・ムボルボールも彼の紹介だ。
バロンの大集合もそのひとつだった。
再婚相手が、現在の奥さん。
ワヤンの瞑想好きが、彼女を呼び寄せる切っ掛けとなったことは想像できる。
バリヤン体験・ツアーには、奥さんのツアーもメニューに含まれるようになった。
現在、導師(グル)である奥さんは「イブ・アユ・ラクシュミ」と呼ばれている。
ワヤンは「クリシュナ」という名を持っている。
そうして現在に至まで「アパ?のバリヤン体験・ツアーを手伝ってくれている。
バンリの瞑想センターに招待された時の話は、次の機会に報告したいと思っています。
2013年06月28日
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