知人から、2012年8月20日(月)6.00pmからマス村の大広場で護摩(ホーマ)法要があるとの情報あり。
バリで護摩法要とは、不思議なり。
好奇心の強い私は、もちろん見学に出掛けた。
広場では、護摩木を焚いている(ように見える)10以上の集団ができていた。
その光景に顔を背けるバリ人もいた。
私も腰が引けている。
受付が用意されていて、勧誘されるのではないかと不安。
通りがかりのバリ人に「何をしているのです?」と問うと、「純潔と平穏の実現と精神の自覚を起こすため、大地を司る女神・プリティウィにお祈りをしている」と答えた。
私が知っているのは、信奉者が踊っている「クリシュナ崇拝」だけだった。
1993年、私が最初にバリ舞踊を教えてもらったワヤン先生の奥さんが「クリシュナ崇拝」だった。
クリシュナもヒンドゥーの神だが、バリのヒンドゥー教とは関係が薄いので、村人から疎まれていた。
それが先生のお父さんの悩みの種だと、先生を紹介してくれた知人が教えてくれた。
バリのヒンドゥー教にもインドの各宗派が浸透し、活発に活動しているようだ。
「サティア・サイババ崇拝」もそのひとつだろう。
ご存知だと思いますが、少々説明をさせていただきます。
「サティア・サイババ」は、インドのスピリチュアルリーダー。
インド国内では多くの要人も聖者として認める霊的指導者。
活動本拠地としてインドのいくつか のアシュラム、病院、学校があるほか、数百万の信奉者と世界126カ国に1200のサティヤ・サイ・ババ・センターを持つ。
サティア・サイババはシルディ・サイババの生まれ変わりと言われている。
シルディ・サイババ(1838年生まれとされる)は神の化身として信者たちから崇められた聖者。
「使命をまっとうするために、8年後に南インドのヴィシュヌ神を信仰する家に生まれ変わる」と予言して1918年に死んだ。
その予言通りに転生したのが、1926年生まれのサティア・サイババとされる。
サティア・サイババは、1926年11月23日生〜2011年4月24日没。
サイババという名称は「サイ」と「ババ」が合体したものである。
前者はイスラーム教の「聖者」、後者はヒンドゥー教の「父親」を意味する。
つまり、サイババとは、ヒンドゥー教とイスラーム教が合体した超宗教的な尊称なのである。(参考:ウィキペデア/「ヒンドゥー教の本」学研)
余談だが、私が滞在始めた頃のウブドには「サニアシン」と呼ばれるツーリストが多く滞在していた。
「バグワン・シュリ・ラジニーシ師」を崇拝する人々だ。
「ラジニーシ師」は、独自の瞑想法を開発し、1974年インドのプーナにアシュラムを創設し「真の宗教の必要性」を説いた人物だ。
晩年は「和尚」と改名。1990年死去。(参考:「ヒンドゥー教の本」学研)
当時、バリ北部ブレレン県イエ・サニ村とバリ東部カランガッサム県チャンディダサ村にアシュラムがあった。
日本での私の知人にも何人かの「サニアシン」がいる。
バリのあと、プーナで会う約束した女性がいた。
この約束は、私の「ウブド沈没」で保古となった。
前置きが長くなってしまったが、本題は「ワヤン・クリシュナ(42)」で書いた、ワヤン・スタモ君の話だ。
両親兄弟と住むバンリの自宅を訪れた時のこと。
10数年前だと思うが、正確に何年だったかは思い出せない。
ワヤン君が再婚してから、始めてのお宅訪問だ。
案内された部屋には、サティア・サイババの大きな写真が壁に飾ってあった。
トレードマークのアフロヘアーとオレンジ色の法衣姿の写真だ。
この頃、すでにサティア・サイババは有名であったが、私はまったく興味がなく知識もなかった。
サティア・サイババの写真の前で、お祈りをした。
私がサティア・サイババを理解したと解釈したのか、夫妻は当時私が経営していた「ブンブン・カフェ」に、ガネーシャの石像を用意してくれた。
「ブンブン・カフェ」には、ブラック・マジックがかかっていたそうだ。
夫妻は度々「ブンブン・カフェ」を訪れて、サティア・サイババにコンタクトをとってくれる。
歌を唄い、ガネーシャ像にミルクを掛け「これで安心です」と言って帰っていった。
本題に入るまでに、息切れしてしまいました。
続きは、次回「バンリのサイババ崇拝・弐(15)」ということで。
2013年07月15日
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