夜になって、迎えの車が来た。
今、安ホテルに残っているのは、カズ君とコテツちゃんと私の3人だ。
車は、民家が立ち並ぶシンガラジャ市街に入った。
撮影用照明が用意され、道路が煌煌と照らし出されていた。
黒々とした配線ケーブルが、道路に敷設されている。
あたりには、人垣ができていた。
撮影現場とは、こういうものなのだろう。
そして、その役者が我々3人組だということだ。
オランダ統治時代の建築と思われる2階建の邸宅がライトアップされている。
本格的と思われる撮影現場の雰囲気に圧倒され、緊張する。
今夜は、かなり重要なシーンの撮影になるのだろう。
人垣を抜けて邸宅に入る。
足の踏み場もないほど、いたるところにケーブルが這いずっていた。
監督から手渡された台本には、ローマ字で日本語のセリフが載っている。
以前もらった台本にあったセリフだ。
このセリフなら、ほとんど覚えている。
いよいよ阿南少佐の登場だ。
私は、寝室の設定になっている部屋にいる。
空き家なのだろうか、室内には椅子ひとつない。
座る椅子がないので、部屋の中をウロウロと歩き回る。
扉を隔てた応接室には、平良定三役のカズ君と役名を忘れてしまったコテツちゃんがいる。
この夜、平良定三とその仲間は、血判を押した離隊決意書を携えて阿南隊長宅を訪ねていた。
隊長は尊敬できる人物で、彼らから全幅の信頼を得ていた。
史実では、シンガラジャの阿南隊長宅を訪ねたのは、平良(ニョマン)、田島(グデ)、中野(マデ)、木村(クトゥ)の4名である。
本番スタートの指示がでた。
私は心を落ち着けるために、大きな深呼吸をした。
カチンコが「カチン」と鳴った。
今まで就眠していたという様子で、私は、あくびを噛み締めながら部屋から出る。
机の向こうに、背筋を伸ばして緊張した面持ちで2人が座っている。
この緊張は、彼らがあがっているからか、それとも役柄になりきっているからか、判断がつかない。
私は、相対するように腰をおろした。
彼らから緊張感が伝わってきた。
役柄になりきっている。
「われわれは、今夜12時をもって独立軍に参加すべく離隊いたします」平良軍曹が代表して意見を述べた。
想像はしていた事態だ。
私は渋面をつくり、少し瞑目したあと「そうか……」と、沈む声で答えた。
「お前達の気持はよくわかる。お前達のとろうとする行動について、今は、良いとも悪いとも判断がつかない。結果は歴史が解明するであろう」
複雑な心境での発言だ。
「ただ、私には兵士を親元に帰す義務がある。そのために私は隊長として、お前たちを止めることも薦めることもしない」
それだけ言うと、深く椅子に腰を落とし、背もたれに背中を預けた。
このセリフも事実にもとづいている。
完璧に覚えたセリフで、阿南少佐に成りきることができた。
「有り難うございます。長年お世話になりました。それでは今夜12時に部隊を離れます」と断り、2人の兵隊は退去していった。
彼らは今後、脱走兵として身を隠し、特別遊撃隊としてインドネシアの独立に加担するのだ。
戦時下だか、オランダと蜜月関係のあるウブド王家の長男チョコルド・ラカ・スカワティが、東インドネシア共和国の大統領に任命されている。
オランダのインドネシア統治に賛成であるウブド王族の監視からも逃れなくてはならない。
前途は多難だ。
そんな思いを全身で表現する。
カメラは、私の背中を撮っている。
モニターを見ている関係者から、拍手がわき起こった。
監督の横に、エバァさんとロベルトさんがいる。
カズ君とコテツちゃんの顔も見える。
拍手は、なかなか鳴り止まなかった。
軍関係者の住宅と思われる場所に、車で移動。
カズ君とコテツちゃんが、ぼさぼさの長髪カツラに髭をメークされた脱走兵に変身。
出番のない私は、見学だ。
みすぼらしい姿の2人は、ジャングルを7日間彷徨う脱走兵。
屋外に作られた簡単なセット。
村人に助けられ、食事を施されるシーン。
「もっとダイナミックに食べてください!君たちは一週間何も食べていませ〜ん!うわ〜飯だ〜!っう感じで。わかりますか!は〜いスタート!」と監督の怒鳴り声。
何度目かのNGを経て、やっとOKのサインだった。
続いてのシーンでは、煙幕の夕霧が焚かれた。
ライトに映し出された煙幕が幻想的だ。
夕霧に紛れて、2人は兵舎に忍び込もうとしている。
インドネシアの独立に欠かせない武器を、日本軍から盗もうとしているのだ。
2人はあたりを注意深く窺っている。
銃声が聞こえた。
どこかからか狙われている。
逃げ惑う脱走兵。
レールの上をカメラが移動する。
共演の役者もエキストラもいない。
カズ君とコテツちゃんの2人だけの戦闘シーン。
この後、撮影は資金不足ということで中止となった。
資金のメドがつけば集合がかかるだろうと、我々は映画の完成を望んで待機した。
再び、我々日本人が呼ばれることはなかった。
にわか役者の生活は、3ヶ月ほどで幕を閉じた。
インドネシアの独立に協力した阿南少佐は、英雄となって讃えられている。
映画が放映されていれば、英雄を演じた私も株が上がって、ウブド生活も違ったものになっていただろう。
返す返すも残念である。
バリ島残留日本兵で最後のひとりとなった平良定三(ニョマン・ブレレン)さんは、2004年6月5日に亡くなっている。
〜完〜
2013年12月12日
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