25年ぶりの日本一時帰国が終了した。
5月10日から6月18日までの40日間、みなさまには本当にお世話になりました。
これでウブド滞在中、一度も日本に帰らなかった記録(24年)に終止符が打たれたことになる。
長寿が記録に残るように、滞在年数も長くなればなるほど記録とされる。
24年の歳月は、何もしなくても重宝がられる人を作り、時には重鎮と呼ばれることもある。
私もそんな一人だったかもしれない。
1990年5月にウブドにたどり着いて、最初に考えたこと。
それは、日本人であることを最大限生かそうということだった。
なんの能力もない平凡な私が持っているものといえば、日本人であるということだけだ。
長期滞在している日本人の姿が少なかった時期。
何かしら役に立つことはあるだろう。
そして、希少価値な存在になること。
それは、唯一の物であり一番最初であること。
滞在年数24年は、そのひとつだ。
サクセスするかどうかは、努力次第。
私は、ほどほどが主義だから、金銭的には成功していない。
しかし、精神的には充分満足している。
「一番最初であれ」という考え方は、社会人になってから芽生えたようだ。
振り返ってみると、他人に先を越されるのが嫌いな性格のようで、思い立つとすぐに着手している。
二番煎じが嫌なのだ。
人より少し早く物事を始めていた。
手がけるのも早いが、手を引くのも早い。
ようするに飽き性なのだ。
足跡を残したことだけで満足してしまう。
商売も下手だから長続きしない。
これが23才から42才までの私だ。
ウブドでも、同じだった。
◎ウブド初の日本料理店「居酒屋・影武者」。
その土地に行ったらその土地の物を食べよ、というのが私の考え方。
腹痛・つわりなどでインドネシア料理が食べられなくなってしまった日本人旅行者がいた。
そう言う私も、滞在3ヶ月目で食傷気味になった。
必要悪かも、と考えながらオープンしたのが1991年の7月10日。
現在は、後継者の女将・由美さんによって老舗に育っている。
◎イラストマップ(作者:伊藤ちづる)の発行。
1990年版「パスフィンダー」と「地球の歩き方・インドネシア」のウブド地図は簡略すぎた。
日本語で描かれたウブド・イラストマップは、旅行者にありがたがられた。
1993年に一枚1000ルピアで販売していた。
◎「極楽通信・ウブド」の発行。
1994年から1999年にかけてバリ島UBUDから発信されていた幻のミニコミ誌。
3ヶ月に1度の発行で、Vol.30まで5年間続いた。
バリで取材した原稿を日本に郵送し、それを元にPageMakerによってDTP作業後LaserWriterでプリントアウトした版下原稿をバリに送付し、UBUDでコピー印刷されて製本され、日本の読者に郵送されていたという、アナログ60%+デジタル40%というシロモノ。
「Club Bali・極楽通信UBUD」からダウンロードできます。
◎日本人専門の情報センター「アパ?」開設。
寺院祭礼(オダラン)見学ツアー&正装のレンタル。
こちらはワヤン・スタモ君が頑張ってくれている。
◎スアールアグン芸術団の「ジェゴグ」、スバリ村の「ジョゲッピンギタン」、ヤンアピ村の「ジャンゲール・ムボルボル」など、マニアックな芸能ツアーを主催した。
この他にもいくつか「ウブド初」はあったと思うが思い出せない。
こうして書き並べると、斬新なことはなにひとつしていない。
しかしこれらは、ウブドに今までなかった新しい出来事なのだ。
それほどウブドは田舎だったということだ。
私のようにお金も能力も度胸もない人間が世界に飛び出すなら、こんな田舎の村を探すとよいだろう。
度胸がないというよりは、英語もできないので、向こう見ずなのかもしれない。
自慢しているわけではありませんが、もちろん英語以外の外国語もできません。
今回の一時帰国は、次の沈没地=田舎を目指す旅立ち前の、故郷帰り。
息子夫婦、そして孫にも会った。
前妻とも和解した。
日本も満喫した。
あとはウブドに戻って、旅の準備をするだけだ。
2014年07月03日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック