城下町だったのなら、お城があったはずと考えるのは常識だろう。
市役所で観光ガイドマップをもらい、開いた。
見ると、豊田市美術館に隣接して挙母城(別名:七州城)隅櫓跡があることを知った。
美術館で鑑賞したあと挙母城に寄ろうと、さっそく行ってみることにした。
ところが豊田市美術館は、バリアフリー化などの改修工事のため10月9日まで休館。
城内には入ることができなかったが、外観は見ることができた。
挙母城は別名、七州城と言う。
築城は、江戸時代・慶長9年(1604年)。
七州城(しちしゅうじょう)と呼ばれる理由は、「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「遠江国」「伊勢国」「近江国」の7つの国が望める童子山の高台(樹木台とも言う)にあるからだそうだ。
廃藩置県後に取り壊され、現在見られるのは復興した隅櫓(すみやぐら)だけ。
周囲は、散策に適した庭が広がっていた。
もう一つ、旧市街に残っている「桜城址」。
挙母城は、もともとこの地に築城予定であったが、工事途中に矢作川の氾濫により建築不能となり、跡だけが残っている。
この機会に、お城についてWikipediaで、ちっと勉強してみることにした。
「城」は戦略上の重要な拠点であり、防衛の上でも要であった。
城は大きく分けて “山城” と “平城” がある。
“山城” は、要塞、要害としての城。
戦乱の世であった時代、戦略的、防衛的な観点から地形を利用して山に建てられた。
小牧城、岐阜城など。
“平城” は、天下統一の後、戦略的な意味合いが薄れ平地に作られる平城となり、防衛的な特色より立派な天守閣のある権力示威的な色合いが濃くなる。
戦略的な目的を失った城は、今度はそこに封ぜられた大名のその藩の民に対する権力誇示の意味合いを持つようになり、また城下町内を統治する上での拠点、政所としての役割を担うようになった。
名古屋城、犬山城、岡崎など。
挙母城も“平城” になる。
立派な城廓は、お城を模したレストランです。
かに本家
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ここで、少しバリ島を振り返ってみよう。
滞在始めた頃、疑問に思ったことがある。
それは、お城がないことだ。
バリ島の歴史にも戦国時代はあった。
群雄割拠の時代があれば、お城が残っているはず。
私は、ヨーロッパや日本とは異なった、バリ独特の城文化を期待していた。
バリ島の王族の住居・王宮は “プリ(Puri)” と呼ばれている。
市場に隣接した、交通の便のよい立地に建っている。
プリは、堅牢な城壁で囲まれていない。
先ほど勉強した “平城”に似ている。
諍いはあったか、激しい戦闘にはならなかったのだろう。
バリ人は、争うことを嫌う民族だと聞く。
こんなところにも、バリ人気質が現れているのではないだろうか。
(お城と王宮の違いを把握できていないので、説明を省きました)
ウブドにある「サレン王宮=プリ・サレン」の写真(2014年7月)をアップ。
変化続ける「ウブド変則十字路」。
次回、訪れた時にはどう変っているか、楽しみだ。