先週の日曜日(12日)から、この一週間、知人の訃報が続いた。
年を取ると知合いが増える。
そのどこかが、綻びる。
この日(19日)で、4人目。
「和食・影武者」のスタッフ・クトゥット君が逝った。
女将の由美さんから電話で知ることになる。
聞いたときは、唖然として、声もでなかった。
「どうして! どうして! どうして!」
心の中で叫んでいた。
近い将来、年取った私を実家に住まわせて面倒見てくれると言っていたではないか。
クトゥット君は、21年前に私が雇い入れたスタッフだ。
ウブドでホテル勤めをしているお兄さんが、頼みに来た。
お兄さんが、なぜ私を知っていたかは、記憶にない。
20歳だった彼は、生意気盛りの顔で私に接した。
私は、こんな態度の若者に共感を得る。
接客を担当したのだが、適任だった。
陽気な性格は、スタッフの牽引役になり。
店舗の造作にも気を配り、適切に指示をする。
手先が器用で、私が伝授したバナナの幹で作る紙も作れるようになった。
彼の実家近くで行われる合同火葬儀礼に、アパ?情報センターのツアーで参加した。
「帰りに、家に寄ってくれ」と誘われた。
そのときに賄われた料理が、参加した日本人全員の嗜好に合った。
もちろん私も満足した。
料理上手な奥さんのカルニーとクトゥット君を「ワルン・ビアビア」のオープニング・スカウトに誘ったことがある。
「私は、ここでお世話になっているので、止めるわけにはいかない」と義理堅いことを言う若者だった。
カルニーは働いてくれて、レシピーを作ってくれた。
レシピーは今でも受け継がれていると、現在のオーナーから聞いている。
今年の7月で70歳になる私は、死の覚悟は出来ている。
今生に未練を残さない生活を心掛け、いつでも旅立てるように心構えはしている。
これからの一年一年は、神様からのおまけの人生だと思っている。
両親が他界した時、すでに社会人だった私の涙の源泉は、思い出だった。
他人の死の悲しみは、思い出の数だけある。
私の死で悲しむ者もいるだろうが、年齢で大往生だと納得してくれるだろう。
しかし、クトゥット君の場合は違う。
彼は、41歳と若い。
大往生とは違う。
働き盛りだ。
残された者の悲しみを計らなければいけない年齢だ。
若者の死の悲しみは、深い。
奥さんのカルニーも若い、2人の男児も幼い。
彼らの喪失感は、私には想像もできない。
お母さん、お兄さんも、さぞかし悔しかろう。
クトゥット君は、精神的な病を克服できなかった。
苦しみは、他人が計り知ることはできない。
辛かっただろう。
生死をさまよった数ヶ月で、くだした決断。
自分で命を断つことだった。
来世を選ぶほど、苦悩したのだ。
愛妻と二人の息子を残して、さぞかし心残りだろう。
私の人生で、はじめて経験する知人の死に様。
信じられない。
認めたくない。
バンジャールで火葬が出来ないため、火葬はその日のうちにヌサ・ドゥアにある葬儀場で行われた。
私は、列席しなかった。
頭も内臓も空っぽ、身体は重いのに足は地につかない、そんな状態で、大雨の中、バイクを走らせる気にならなかった。
実は、クトゥット君の死を受け入れられなくて、先送りいしたいのだ。
引き延ばしたところで、現実は変らないのに。
「影武者」での夕食後、クトゥット君は、何も言わずコピ・バリを出してくれる。
いつのまにか、他のスタッフも見習って恒例になっていた。
「あずき寒天、食べますか? アイスクリームは何をのせますか?」デザートを進めてくれる。
花粉症の鼻をズーグー鳴らしていると、トイレットペーパーのロールが一巻きテーブルに置かれる。
いつも気にかけてくれていた。
私は、いつまでも忘れない。
クトゥット君、もう苦しむことはないね。
安らかにお眠り。
2017年03月22日
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育ての母が亡くなってやっとお葬式が終わって数日後、冷蔵庫の隅に母が刻んだ野菜がしおれて遺っていたのを見たとき、初めて涙が流れました。私23歳の初夏でした。私ももういい歳、私が逝ったら、娘たちもそんな経験をするのかな。などと時々考えます。
クトゥットさんには影武者で数回お会いしただけですが柔和な感じの良いかたでしたね。
今は大空を走けているのでしょうか。
そう今、クトゥット君のことが頭をよぎるたびに、放心します。
おこがましいですが、今おもえば人生、どん底に落とされた辛かったこと厳しかったことが 何処か行くべきところへ自分を連れて行ってくれた気がします。
生涯旅人itosan そうだったでしょう。またいつか元気になりますね。
違う心の旅が待っているから。。