2018年07月04日

彼女が18才の春だった(208)

「日本から電話です」

スタッフに、耳元でささやかれた。

「和食・影武者」の電話に、私に掛かってくることは滅多にない。

私はスマートホンを使っていて、たいていはこちらに掛かってくる。

以前、「知人の知人ですが」の電話がよくあった。

煩わしい用件に立ち会うこともしばしば。

そんなわけで、スマートホンも登録した名前が表示されないと出ることはない。

「誰から?」と問うと、首を傾げて「昼にも掛かってきました」と答える。

知らない人からの電話には出たくないので、取り次がないように頼んである。

スタッフとしては、2度も掛かってきた電話だから重要だと考えたのだろう。

彼らの気持ちもわかる。

訝しく感じながら、電話に取ることにした。

「もしもし、伊藤です」

「タツトシだけど」の声がした。

札幌の住む息子の声だと、すぐにわかった。

何年振りだろう。

「久しぶりだね」

私の言葉にかぶせるように「お母さんが死んだ」と、つぶやくように答えた。

これは、悪い冗談だろうか?

久しぶりの電話に、いきなり、別れた妻の訃報。

それはないだろう。

息を飲み込んだまま、私は沈黙した。

答える言葉が見つからない。

「俺、今、東京に住んでいるんだけど、一週間前に死んだらしい」

その一言で、私の胸が悲しみに震えた。

孤独死だったんだ。

悲しい死に、私は責任を感じた。

私の思考を遮断するかのように、息子の声がした。

「また、電話するから」

こんな短い会話で、電話は切られた。

何かを忘れている。

私は何かをしなければいけない。

寂しさに、瞼の裏が滲んでいる。

今は、考え付かない。


遠い過去が蘇ってきた。

馴れ初めを思い出している。

24才の私がいる。

この日、愛車Nコロが故障して、市バスで通勤した。

一日の疲れた身体を引きずって、バスに乗る。

バスは、起点駅の栄からサラリーマンやOLでギュウギュウ詰め。

黒川、上飯田の駅で、乗客の半数ほどが降りた。

私は先ほどから、吊り革に身体を預けている、ひとりの女性が気になっていた。

そこだけにスポットが当たったように、クローズアップされていている。

パンタロンの似合う、背の高いスリムな姿に魅入っていた。

愛車が故障して、仕方なく乗ったバスに乗り合わせた女性に、運命の巡り合わせを感じた。

上飯田橋を渡ったあたりから空席ができ、彼女は出入り口に近いひとり席に腰を下ろした。

乗客がまばらになった車内で、私は、どう声を掛けようかと戸惑っている。

空席が目立つのに立っているのは不自然だと、私は、最後部の座席に坐った。

ここからなら、彼女の姿が見える。

終点に近づくにつれて、乗客は減っていく。

彼女に、降りる気配はない。

私は、次の駅で降りなくてはならない。

バスが止まり、自動ドアーが開いた。

彼女は降りない。

私も降りなかった。

次の駅でも、彼女は降りなかった。

この次は終点駅だ。

彼女が降り、そのあとに私が続いた。

今のご時世なら、ストーカーと言われてしまうような行動だ。

私は、彼女の背中を見ながら、どう声を掛けたものか悩んでいる。

終点で降りた、ほかの乗客2〜3人が、家路を急いで私を追い越していった。

彼女は、私のことをまったく気に掛けず、前を歩いている。

こんなところで後ろから声を掛ければ、彼女はきっと、怖がって逃げてしまうだろう。

あきらめよう、という心とは裏腹に

「あの〜、すみませんが、お茶でも飲みませんか?」

と、私は声を掛けていた。

彼女は、ビックリした顔で振り返り、私を覗くようにして見た。

しばらくの間をおいて、彼女の口から「いいですよ」の幸運な言葉が返ってきた。

2人は、バス停の近くの小さな喫茶店に入った。

最終のバスがなくなるまで話をしたことは覚えているが、興奮していたのか、何を話したかはまったく覚えていない。

恥ずかしい話だが、この時、私の財布にはお金が入っていなかった。

「ごめんなさい。お金持っていないので、貸してくれる」

なんて、ず〜ず〜しい奴だと、思っただろう。

このあと、連絡先を聞いて、私は2駅を歩いて家に帰った。

この機の逃してはというあせる気持ちが、私をこんな恥も外聞もない行動にさせたのだろう。

一目惚れ。

彼女が18才の春だった。


馴れ初めのシーンが、足早に通り過ぎていった。

我にかえると、連絡先を知らないことに気がついた。

別れた妻の電話番号も知らない。

東京に住む、息子の電話番号もわからない。



posted by ito-san at 16:37| Comment(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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