バリ島は、毎年7月から9月の間、合同火葬儀礼の季節になる。
火葬儀礼は、バリのヒンドゥー教の大切な儀礼。
マジャパイト王朝時代(14世紀)に入ってきたもので、それまで庶民は土葬であった。
ジャワのヒンドゥー教の影響を拒絶したバリ・アガと呼ばれている村では、今でも土葬か風葬(遺体を地上に放置)だ。
個人葬が主流だった時代から、合同葬として、何年かごとに村で一括して行うことが増えている。
合同葬の場合、個人葬に比べて、各遺族の経済的負担が軽くなるという利点があるからだ。
それまでは、数年から10数年、中には数10年も仮埋葬したままの遺体があった。
インドネシア政府は、疫病の心配があるとして、一つの村で2年から6年の周期で火葬を行うように指導している。
合同火葬儀礼は、ガベン・マサル(Ngaben Masal)と呼ばれる。
個人火葬儀礼の場合は、スードラ階層は「ガベン(ngaben)」、トリワンサ階層(プダンダ、クシャトリア、ウエシャ)は「プレボン(plebon)」という。
8月16日、私がお世話になっているテガランタン村が合同火葬儀礼の日だった。
火葬儀礼は、ダラム寺院前の広場で行われる。
広場は、仮埋葬の場でもある。
カーストを持った家族のエリアと持たない家族のエリアとに分かれていた。
その時、初めて目にする光景が2つあった。
ひとつは、エリアから離れた場所で、ささやかな儀礼を行っている集団だ。
知り合いのバリ人に、この疑問を尋ねると、
このグループは、小さなうちに亡くなった子供たちの儀礼だという。
歯が生える前に亡くなった子供だ、と答えが返ってきた。
他の知人からは、ティガ・オトン(ウク暦210日で1年で、3年目の通過儀礼)を行っていない子供だ、と教えてくれた。
人間としての通過儀礼であるポトン・ギギ (Potong gigi)が終わっていないからだろうか?
疑問は残るが、これは課題にしておこう。
もう一つの疑問は、一体だけ全体とは違う方角を向いているプトゥルガン(棺桶)だ。
これは、この家族に聞いた。
彼らは、パセック(pasek )親族集団の一つであるプラサリ(pulasari)一族とのこと。
プラサリの一族だけが、東方が望めるように、遺体の頭部が西側に安置される。
ダラム・バトゥレンゴン王が君臨するゲルゲル王朝時代(16世紀)に、それまであった曖昧な階層は、王国中心の階層に塗り替えられた。
パセック(pasek )親族集団は、ゲルゲル王朝時代以前からあったバリ土着に集団。
プラサリは、ダラム・カルカンの子孫で、王族の跡目争いから逃れるために、パセックの農民に身を隠した。
その後、王宮に戻りたいと許しを請うたが「一度、野にくだった者は、農民として暮らせ」と許しを得ることができなかった。
この一族が、パセック・プラサリと呼ばれている。
頭の向きは、それと関係しているのかもしれない。
王族としての、遺体の位置を違えることで威厳を保ったのかもしれない。
いや、まだまだ知らないことがたくさんある。
だから止められない、バリ島滞在。
2018年08月29日
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