今年に入って睡眠不足が続いている。
元妻との生活を断片的に思い出しては、その前後を構築しようとモガク夜。
まったく記憶が蘇ってこないことが多い。
薄情なものだ。
どうしても、話が私中心になってしまって申し訳ない。
彼女と知り合うちょっと前、会社勤めをしながら民家を改装した雑貨屋をオープンした。
郡道と呼ばれていたる街道にある、二階建ての一軒家。
愛知郡だったころの昭和時代の家並みや面影が残る道。
ネットで調べる前は、軍道だと思い込んでいた。
近く軍事工場があったという噂からの連想だった。
高度成長を成し遂げたばかりの活気の中で「大阪万博」が開催された1970年(3月15日から9月13日までの183日間)のこと。
1年間の海外放浪で持ち帰った物を、現金化したいと思いついて始めた。
大型ゴミを回収しアートとしてリサイクルした商品と、針金を曲げて作ったアクセサリー。
アメリカン衣料で購入したジーパンも売ったな。
屋号を「人畜無害」とした。
世間様に迷惑をかけないという、意気込みだ。
同じ頃、東京では「文化屋雑貨店」が開店している。
似たアイデアを持つ人間がいるものだと、その時に感じた。
名古屋駅前にある名鉄メルサがヤング館(現在のセブン館)をオープンしたのが、1972年。
オープンイベントで、針金細工で出店させてもらった。
手作りコーナーは人気で、たくさんの人が押しかけた。
商品が追いつかなかいほどだ。
閉店後、家に帰っては作った。
それでも追いつかないので、店頭でも作った。
懐かしい思い出だ。
名古屋でフリーマーケットが盛んに催されるようになったのも、この頃からだ。
もちろん「人畜無害」は、フリーマーケットの常連だ。
こうやって紐解いていかないと、彼女のことも思い出すことができない。
彼女は勤めを辞めて「人畜無害」を手伝ってくれることになった。
「こんな店がやりたかった!」と言ってくれた。
手先が器用で、アクセサリー小物を作り始めた。
人当たりが良く、お客とはすぐに打ち解け、常連客が増えた。
生き生きとして店番をしていた。
私は、仕事の途中で「人畜無害」に立ち寄った。
一悶着あった下請け業社の社長から「入り浸っている」と我が社の社長に密告があり、私は会社を辞めた。
フリーの店舗デザイナーになった。
これを機会に、私たちは結婚した。
19歳で結婚したいというのが彼女の夢。
私に依存はない。
現実には、20歳になっていたと思う。
貧乏な私に、結婚式ができる予算はない。
母親が「お金がないのなら、家で両家の顔見せだけでもいいのでは」と言ってくれた。
顔合わせは、私が暮らす市営住宅の一室で行われた。
彼女の家族は、両親と兄たちがが、遠路から訪れてくれた。
近くに住む兄は、私たちの結婚を最後まで望んでいなかったそうだ。
皆んなに可愛がられていた末っ子の娘だということが、伝わってくる。
母親が切り盛りした、質素だが心の暖まる「顔見せ」は、滞りなく終わった。
「人畜無害」は業績があがらず、店を任せて欲しいという知人に経営を託した。
知人に任せた「人畜無害」とは別に、友人の珈琲店の2階に「人畜無害」を開店した。
こちらも、暇だった。
旧「人畜無害」は、「元祖・人畜無害」と名打っていた。
彼女は時間を持て余し、仕事を探した。
身長167センチの彼女ならファッションモデルに最適と、友人のモデル事務所に紹介した。
名古屋でファッションショーの仕事はないのか、お呼びはかからなかった。
チラシや新聞広告のモデルには長身すぎたのか、こちらの仕事も少なかった。
スナックに勤めたこともある。
あまり酔客の接待には向いていなかったようだ。
思い出しながら、私は何度も懺悔している。
続く・
2020年01月22日
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