一日は、太陽のある陽の半日と、太陽が隠れる闇の半日とがある。
陽と闇の間には、夜明け(かはたれどき)と夕暮れ(たそがれどき)と言われる、曖昧な時間帯がある。
夜明けは、山々の頂、木々草花の先から明るくなり、正に地球が目覚めていく感だ。
夕暮れは、森の奥、深い谷間から、そして地面の底から暗くなっていく。
夜明けの清々しい気分に比べ、夕暮れは物悲しく感じる。
陽の中間地点は、昼12時。
闇の中間地点は深夜0時だ。
境目にあたるこの時間は、霊力の強い時間だと言われている。
オダランの奉納芸能で、悪魔払いのチャロナラン劇が、深夜0時を挟んで行うのも、こんな理由があるからだろう。
人間は陽の時間に生きている。
不眠症でない限り、昼間眠ったからといって夜眠れないということはない。
夜間の仕事で睡魔が襲ってくるのは、この時間は眠るのだと人間の身体ができているからかも。
暗い所だと眠れるのは、養鶏場の鶏が電灯の明かりで夜明けだと勘違いするのと似ている。
鶏は夜明けを告げる陽の動物。
フクロウは闇の世界の門番。
一日の半分である闇の時間に活動する何かが、生存していてもおかしくはない。
闇の深いところには、魔物がいると言う。
夜、出歩かないように、怖い話が作られたのも、闇の住民に迷惑を掛けないように心掛けて生活しないと、災いがふりかかってくるという教えかもしれない。
月が隠れるティラム(闇月)の夜。
バンリの山深い村の寺院祭礼で、チャロナラン舞踊劇を観ている途中、小用をたしに林に入った。
見上げると、満天の星。
月の出ないティラムの夜は、いつもに増して星の数が多い。
黒い雲が近づいてきた。
雲は一瞬にして、それまで輝いていた星の光を遮り、見えなくした。
眼の前が暗幕を張ったような闇になり、足元も見えなく、自分の身体さえ確認できない。
一歩踏み出せば、そこには地面がなく、奈落の底に落ちそうな気がして動けない。
前に進むことも、後戻りすることも出来ずに立ち尽くした。
不穏な静寂に包まれ、物の怪に取り憑かれたような不安に襲われた。
人間の三大恐怖の対象は、暗闇、落下、蛇だという。
この場で、大嫌いな蛇に足首を巻かれたら、私はきっと気絶するだろう。
気絶した私の身体の上を、無数の蛇が這いずっている。
空想を振り払うように、私は、首を左右に強く振った。
眼が慣れるにしたがって、ほのかな明かりが確認できるようになってきた。
木々のシルエットの向こうに、寺院祭礼の灯りが美しく見える。
闇の世界からは、陽の世界がこう見えているのか。
電気が発明され、闇の部分が少なくなったおかげで、闇に棲む輩の時間や場所が少なくなった。
闇夜に徘徊する人間どもを彼らは、どんな気持ちで観察しているのだろうか?
そんなことを考えさせられた体験だった。
2025年05月19日
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