私の鼻炎が最悪のピークだったのは、「ゴメンな “ちびた”!(87)」で報告した9月頃だ。
もしかすると、愛猫 “ちびた” の抜け毛がアレルギーの原因かもしれないと神経質になった時期。
これまで同居していた “ちびた” を、断腸の思いで入室を禁じた。
その時の悲しいエピソードは「ゴメンな “ちびた”!(87)」に詳しく書いた。
エピソードを読んだ猫好きの友人から「 “ちびた” が不憫で心配だから、その後の動向を教えて欲しい」という便りがあった。
そんなわけで、今回の報告となりました。
鼻炎は、“ちびた” を部屋に入れなくなってから、徐々に良くなっていった。
今では、すっかり治っている。
だからと言って、原因が “ちびた” とは限らない。
花粉かもしれないし、 ダストかもしれない。
治ったんだから、“ちびた” の入室を解除しよう。
「カムバック・チビタ!」
これで、また鼻炎になったら、その時はその時。
また考えよう。
昼間、扉を開けておいても、“ちびた” は部屋に入って来なくなった。
いつもテラスの椅子の上で横になっている。
12月、雨季に入って蒸し暑い夜が続いた。
風を入れるために、マンディ場に通じる扉を開けて寝るようにした。
こうしておけば “ちびた” も自由に入って来られる。
ある日、“ちびた” が忍び足で部屋に入って来た。
叱られるかもと、警戒しているような動作だ。
ベッドに飛び乗った重さを、足もとに感じた。
腰を引き気味に、忍び寄ってくる。
私の横で、両手を揃えて身体を沈めた。
ゴロンと横になり、私の身体に寄り添ってきた。
以前の習性を思い出しているのだろうな。
そのうち慣れるだろう。
しばらくして、外に出て行った。
以前は、私が起きるまで横で寝ていたのに。
きっと“ちびた” は、外での楽しみを見つけたのだろう。
食事は、台所でイブからもらっている。
トイレも庭でできるようになった。
すっかり、パチュン家の一員になったようだ。
嬉しいようで寂しい。
親心って、こんなものなのかな。
2014年12月25日
2014年12月02日
祠の屋根の葺き替え作業(89)
白い雲が空一面を覆い、青空を遮っている。
陽射しは柔らかく、過ごしやすい。
気温が高く生温い風が吹くと、雨が降ると予告する。
2日に1回は雨が降るようになった。
スコールと呼ぶには弱い雨だ。
毎日、雨が降るようになり、降雨時間も長くなる。
雨の合間に、晴れ間が見える。
こうして雨季は、徐々にやってくる。
早朝の4時。
雷の音で目が覚めた。
近くに落ちたような凄まじい音だ。
スコールの音も聴こえる。
ゴロゴロ・ガラガラ・バッシャン。
バリバリと雷の音が、何度も響いた。
先週からパチュン家では、ムラジャン(家寺)の祠の屋根の葺き替えが始まった。
15年ぶりの葺き替えらしい。
祠は、プリンゲー(=Palinggih、ローマ字表記がはっきりしない)と呼ばれている。
バリの寺院には、必ずいくつかのプリンゲーがある。
プリンゲーは椅子の意味で、神が降臨する祠のことを指す。
神々が降臨する12月17日のガルンガン祭礼日前には終わらせたいようだ。
9月18日:パチュン家ムラジャンのオダラン。修繕前の祠が見える。
今回の素材は20年間は耐えられると、パチュン君は言う。
屋根に使われるのは、ジャコー椰子(シュロ椰子)の幹を包む黒い樹毛。
年々、バリ島のジャコー椰子が減り、樹毛が入手困難となり、ジャワ島から仕入れられているそうだ。
運ばれて来た樹毛は、すでに掃除され選別された状態だった。
材料がなくなれば、屋根の素材も変っていくだろう。
家寺が地上から一階二階の屋上に設置されたように、焼き物の瓦や新建材の屋根になるのか。
地中とは、土を詰めたパイプで繋がっているから良しとする屋上の家寺。
地霊も苦笑いしていることだろう。
屋根葺きの構造には、それなりに理由がだろう。
私の語学力では理解できないだろうと、聞くことをあきらめている。
カット作業は大変に見える。
専門のノミでカットする。
ヒゲは、魚の小骨ほどの固さで簡単には折れなかった。
ノミのような道具は、バリ語でKAPATと言うらしい。
ちなみに、ノミは、パハット(pahat)。
仕上げのブラシかけ。
近づいている雨季を心配したが、葺き替え作業は2日間で終了した。
あとは、パチュン君が自ら着色する。
器用なパチュン君は、なんでもこなす働き者だ。
「12月6日の満月の日には間に合わせるんだ」と意気込んでいる。
ムラジャンから、調しっぱずれの口笛が聴こえる。
インドネシアで人気の日本の歌、五輪真弓の「こころの友」だ。
奥さんのマデは、ギターを弾き日本語で唄うことができる。
日本人のお客様が訪れると披露することもある。
仲の良い夫婦だ。
※後日談
パチュン君の着色作業も滞りなく終わり、12月6日はプマンクによる儀礼が行われた。
陽射しは柔らかく、過ごしやすい。
気温が高く生温い風が吹くと、雨が降ると予告する。
2日に1回は雨が降るようになった。
スコールと呼ぶには弱い雨だ。
毎日、雨が降るようになり、降雨時間も長くなる。
雨の合間に、晴れ間が見える。
こうして雨季は、徐々にやってくる。
早朝の4時。
雷の音で目が覚めた。
近くに落ちたような凄まじい音だ。
スコールの音も聴こえる。
ゴロゴロ・ガラガラ・バッシャン。
バリバリと雷の音が、何度も響いた。
先週からパチュン家では、ムラジャン(家寺)の祠の屋根の葺き替えが始まった。
15年ぶりの葺き替えらしい。
祠は、プリンゲー(=Palinggih、ローマ字表記がはっきりしない)と呼ばれている。
バリの寺院には、必ずいくつかのプリンゲーがある。
プリンゲーは椅子の意味で、神が降臨する祠のことを指す。
神々が降臨する12月17日のガルンガン祭礼日前には終わらせたいようだ。
9月18日:パチュン家ムラジャンのオダラン。修繕前の祠が見える。
今回の素材は20年間は耐えられると、パチュン君は言う。
屋根に使われるのは、ジャコー椰子(シュロ椰子)の幹を包む黒い樹毛。
年々、バリ島のジャコー椰子が減り、樹毛が入手困難となり、ジャワ島から仕入れられているそうだ。
運ばれて来た樹毛は、すでに掃除され選別された状態だった。
材料がなくなれば、屋根の素材も変っていくだろう。
家寺が地上から一階二階の屋上に設置されたように、焼き物の瓦や新建材の屋根になるのか。
地中とは、土を詰めたパイプで繋がっているから良しとする屋上の家寺。
地霊も苦笑いしていることだろう。
屋根葺きの構造には、それなりに理由がだろう。
私の語学力では理解できないだろうと、聞くことをあきらめている。
カット作業は大変に見える。
専門のノミでカットする。
ヒゲは、魚の小骨ほどの固さで簡単には折れなかった。
ノミのような道具は、バリ語でKAPATと言うらしい。
ちなみに、ノミは、パハット(pahat)。
仕上げのブラシかけ。
近づいている雨季を心配したが、葺き替え作業は2日間で終了した。
あとは、パチュン君が自ら着色する。
器用なパチュン君は、なんでもこなす働き者だ。
「12月6日の満月の日には間に合わせるんだ」と意気込んでいる。
ムラジャンから、調しっぱずれの口笛が聴こえる。
インドネシアで人気の日本の歌、五輪真弓の「こころの友」だ。
奥さんのマデは、ギターを弾き日本語で唄うことができる。
日本人のお客様が訪れると披露することもある。
仲の良い夫婦だ。
※後日談
パチュン君の着色作業も滞りなく終わり、12月6日はプマンクによる儀礼が行われた。
2014年10月14日
パチュン家昼下がりの一幕(88)
10月10日(金)
久しぶりにパチュン家の出来事です。
雨季が近づいて来たかも、と感じるような爽やかな風がテラスに吹き抜ける昼下がり。
私は、テラスで読書に夢中。
「ウラール(=ular・へび)!」
イブの大きな声が聞こえた。
庭に顔を向けると「イトウ、イトウ!!」と、イブが私を呼んでいる。
私に、へびを追い払ってもらうつもりなのだろう。
慌てぶりをみると、相当デカイへびに違いない。
イブの助けを拒むことはできない。
私がへびを苦手にしていることをイブは知らない。
パチュン家でへびを見るのは、滞在して始めてだ。
カメラを手にして庭におりた。
洗濯干スペースの芝の上を示して「ここに大きなへびがいた」と興奮気味。
今は、姿が見えない。
このくらいの太さだったと、自分の手首を示す。
それなら大蛇ではない。
黒っぽい色だと言うから毒蛇でもないだろう。
渓谷に戻って行ったにしては、姿を消すのが早過ぎる。
まだ、近くにいるはずだ。
次男コマンがこん棒を手に現れた。
自然児コマンがいれば、私の出る幕もないだろう。
しかしその考えは甘かった。
コマンは、小さなへびでも大騒ぎをするほどのへび嫌いだった。
身体をこわばらせて近寄ってもこない。
こん棒は、イブに渡された。
イブと私は、あたりを探し始める。
不吉な予感、もしかしてヒロさんの部屋に入ったのでは。
イブとコマンが部屋に入っていった。
私は、引けた腰で塀沿いを見て行く。
今日は陽射しが暑い。
涼場を求めて這い出して来たと思われる、へびの行方を考える。
雑然と置かれた材木の間は、どうだろう。
絶好の隠れ場所と思われた。
腰を落として、一番下を覗いた。
薄暗くて、よく見えない。
棒で突ついてみた。
へびの鎌首が持ち上がった。
やはりここにいたのだ。
へびは写っていません。
「いたいた!」私はイブとコマンに聞こえるように叫んだ。
追い出そうと、棒で激しく突く。
鎌首は、私の反対方向に逃げようとしている。
イブは、こん棒を構えて待ち伏せている。
腰は引けているが、殴り殺す勢いだ。
私は上体を少し隙間に入れ、棒をさらに深く入れようとした。
その時、眼の前で何かが動いた。
板の間でウネルものが・・・・。
思わず後ずさった。
2メートルほど先のへびを追い払っているつもりで、果敢に戦っていた。
まさかこんな近くに。
冷や汗が出た。
2匹いるのでは。
手前のへびは太かったゾ。
私は怖いのを我慢して材木を少しずつずらしていく。
遭遇するのが怖くて、腰が前より引けている。
愛猫チビタが応援に駆けつけて、私の近くを右往左往している。
心強い見方は、いざへびが出て来たらどう対処するのだろう。
見てみたい気もする。
いっこうに、へびの姿は見えない。
すでに、谷底へ姿を消したのかもしれない。
深追いするのはやめよう。
今夜、へび地獄に落ちる夢を見そう。
へび地獄って、幾重にも重なるようにへびがウゴメイている穴なんです。
怖いんですよ。
翌朝起きると、パチュン君が材木を整理していた。
塀の向こうに、黒へびが姿を消すのを私は確認した。
久しぶりにパチュン家の出来事です。
雨季が近づいて来たかも、と感じるような爽やかな風がテラスに吹き抜ける昼下がり。
私は、テラスで読書に夢中。
「ウラール(=ular・へび)!」
イブの大きな声が聞こえた。
庭に顔を向けると「イトウ、イトウ!!」と、イブが私を呼んでいる。
私に、へびを追い払ってもらうつもりなのだろう。
慌てぶりをみると、相当デカイへびに違いない。
イブの助けを拒むことはできない。
私がへびを苦手にしていることをイブは知らない。
パチュン家でへびを見るのは、滞在して始めてだ。
カメラを手にして庭におりた。
洗濯干スペースの芝の上を示して「ここに大きなへびがいた」と興奮気味。
今は、姿が見えない。
このくらいの太さだったと、自分の手首を示す。
それなら大蛇ではない。
黒っぽい色だと言うから毒蛇でもないだろう。
渓谷に戻って行ったにしては、姿を消すのが早過ぎる。
まだ、近くにいるはずだ。
次男コマンがこん棒を手に現れた。
自然児コマンがいれば、私の出る幕もないだろう。
しかしその考えは甘かった。
コマンは、小さなへびでも大騒ぎをするほどのへび嫌いだった。
身体をこわばらせて近寄ってもこない。
こん棒は、イブに渡された。
イブと私は、あたりを探し始める。
不吉な予感、もしかしてヒロさんの部屋に入ったのでは。
イブとコマンが部屋に入っていった。
私は、引けた腰で塀沿いを見て行く。
今日は陽射しが暑い。
涼場を求めて這い出して来たと思われる、へびの行方を考える。
雑然と置かれた材木の間は、どうだろう。
絶好の隠れ場所と思われた。
腰を落として、一番下を覗いた。
薄暗くて、よく見えない。
棒で突ついてみた。
へびの鎌首が持ち上がった。
やはりここにいたのだ。
へびは写っていません。
「いたいた!」私はイブとコマンに聞こえるように叫んだ。
追い出そうと、棒で激しく突く。
鎌首は、私の反対方向に逃げようとしている。
イブは、こん棒を構えて待ち伏せている。
腰は引けているが、殴り殺す勢いだ。
私は上体を少し隙間に入れ、棒をさらに深く入れようとした。
その時、眼の前で何かが動いた。
板の間でウネルものが・・・・。
思わず後ずさった。
2メートルほど先のへびを追い払っているつもりで、果敢に戦っていた。
まさかこんな近くに。
冷や汗が出た。
2匹いるのでは。
手前のへびは太かったゾ。
私は怖いのを我慢して材木を少しずつずらしていく。
遭遇するのが怖くて、腰が前より引けている。
愛猫チビタが応援に駆けつけて、私の近くを右往左往している。
心強い見方は、いざへびが出て来たらどう対処するのだろう。
見てみたい気もする。
いっこうに、へびの姿は見えない。
すでに、谷底へ姿を消したのかもしれない。
深追いするのはやめよう。
今夜、へび地獄に落ちる夢を見そう。
へび地獄って、幾重にも重なるようにへびがウゴメイている穴なんです。
怖いんですよ。
翌朝起きると、パチュン君が材木を整理していた。
塀の向こうに、黒へびが姿を消すのを私は確認した。
2014年09月24日
ゴメンな “ちびた”!(87)
猫ファンに方に、久々に「愛猫ちびた」のネタをお届けします。
皆様もご存知のように、私は肥満体猫 “ちびた” と暮らしている。
この猫、捨て猫だから毛並みが良いわけではない、と思う。
毛並みは良くないが、餌の食べ方も上品だし、フサフサと豊富な毛を持っている。
その豊富な毛が、日々抜ける。
病気ではない。
ハゲとか薄毛の兆候でもない。(ハゲ・薄毛は、差別用語ではないですよね?)
昨年来、私は鼻炎に悩んでいる。
鼻水が止めどもなく流れ落ち、時には、一日にトイレットペーパーをふた巻以上使ってしまうこともある。
就眠時には、両鼻の穴にティッシュで栓をする醜態をさらしている。
おかげで鼻の頭は皮が剥け、鼻の穴が広がった。
眼が痒いので、何かのアレルギーではないかと、知人からは言われている。
花粉じゃないか?
ダストじゃないか?
“ちびた” のノミ、シラミ、フケとも考えられる。
どちらにしても、我が愛する “ちびた” に関係があるだろう。
いろいろと可能性を考えてみた。
結論は、猫の抜け毛が原因ではないかということだった。
確かにそうかもしれない。
“ちびた” のブラッシングをしたり、こまめに掃除をするが、舞い上がった毛は捕獲できない。
窓、扉を全開にして、風通しも良くしている。
ところが、いつの間にか部屋の隅やベッドの下に抜け毛は積もる。
始終クシャミや鼻をかんでいるのを心配して、パチュン家の人々は「 “ちびた” を部屋から出した方がよいのではないか」と助言をしてくれる。
しかし、今まで一緒にベッドで寛いでいた “ちびた” が、おとなしく外で寝てくれるだろうか。
私のことを大好きな “ちびた” のことだ、寂しがるだろうな。
一週間前、“ちびた” に部屋から出てもらうことにした。
夜になって、テラス側の木製扉を閉めた。
庭で遊んでいる “ちびた” は、気づいていない。
枕元のスタンドの灯りを消した。
しばらくして、鳴き声が聴こえた。
どことなく甘えた鳴き声は「部屋に入れてくれ」とのコールだろう。
そして、扉を引っ掻き始めた。
扉が開かない事がわかると、今度はマンディ場に廻って、そちらの扉を鳴きながら引っ掻く。
突然の仕打ちに、戸惑っていることだろう。
優しいはずの飼い主に閉め出されて「一体、どうしたんだろう?」と悩んでいるはず。
説明が出来なくてゴメン。
鳴き声と引っ掻く音は、数分続いた。
せつない。
これで入れてしまっては、私の鼻炎が解決しない。
じっと我慢であった。
3日目の夜、鳴き声と引っ掻く音がなくなった。
翌日 “ちびた” は、扉の敷居をまたがなくなっていた。
どう理解したのかわからないが、 “ちびた” は、部屋に入る事を諦めたようだ。
育ての親が良い人なので、親思いの、物わかりの良い子に育ったのだろう。
餌をもらいたい時も、敷居の手前で待っている。
そんな姿も申し訳なく思ってしまうほど、可愛い。
“ちびた” は、私が起床して扉を開けるまで窓や扉を眺めている、とイブが教えてくれた。
夜は私が帰宅すると、門まで迎えに来てくれる。
どうやら、バイクの音を聞き分けられるようだ。
そんな “ちびた” を不憫に思う私は、昼間、テラスにいる時は、 “ちびた” と一緒にいることにしている。
横になって本を読んでいると、いつの間にか胸の上に乗っている。
一段と甘えん坊になったような気がする。
今夜も “ちびた”は、テラスの椅子でおとなしくお休みしている。
この頃、トイレットペーパーを使うほどの鼻水はない。
悪いね “ちびた” 。
皆様もご存知のように、私は肥満体猫 “ちびた” と暮らしている。
この猫、捨て猫だから毛並みが良いわけではない、と思う。
毛並みは良くないが、餌の食べ方も上品だし、フサフサと豊富な毛を持っている。
その豊富な毛が、日々抜ける。
病気ではない。
ハゲとか薄毛の兆候でもない。(ハゲ・薄毛は、差別用語ではないですよね?)
昨年来、私は鼻炎に悩んでいる。
鼻水が止めどもなく流れ落ち、時には、一日にトイレットペーパーをふた巻以上使ってしまうこともある。
就眠時には、両鼻の穴にティッシュで栓をする醜態をさらしている。
おかげで鼻の頭は皮が剥け、鼻の穴が広がった。
眼が痒いので、何かのアレルギーではないかと、知人からは言われている。
花粉じゃないか?
ダストじゃないか?
“ちびた” のノミ、シラミ、フケとも考えられる。
どちらにしても、我が愛する “ちびた” に関係があるだろう。
いろいろと可能性を考えてみた。
結論は、猫の抜け毛が原因ではないかということだった。
確かにそうかもしれない。
“ちびた” のブラッシングをしたり、こまめに掃除をするが、舞い上がった毛は捕獲できない。
窓、扉を全開にして、風通しも良くしている。
ところが、いつの間にか部屋の隅やベッドの下に抜け毛は積もる。
始終クシャミや鼻をかんでいるのを心配して、パチュン家の人々は「 “ちびた” を部屋から出した方がよいのではないか」と助言をしてくれる。
しかし、今まで一緒にベッドで寛いでいた “ちびた” が、おとなしく外で寝てくれるだろうか。
私のことを大好きな “ちびた” のことだ、寂しがるだろうな。
一週間前、“ちびた” に部屋から出てもらうことにした。
夜になって、テラス側の木製扉を閉めた。
庭で遊んでいる “ちびた” は、気づいていない。
枕元のスタンドの灯りを消した。
しばらくして、鳴き声が聴こえた。
どことなく甘えた鳴き声は「部屋に入れてくれ」とのコールだろう。
そして、扉を引っ掻き始めた。
扉が開かない事がわかると、今度はマンディ場に廻って、そちらの扉を鳴きながら引っ掻く。
突然の仕打ちに、戸惑っていることだろう。
優しいはずの飼い主に閉め出されて「一体、どうしたんだろう?」と悩んでいるはず。
説明が出来なくてゴメン。
鳴き声と引っ掻く音は、数分続いた。
せつない。
これで入れてしまっては、私の鼻炎が解決しない。
じっと我慢であった。
3日目の夜、鳴き声と引っ掻く音がなくなった。
翌日 “ちびた” は、扉の敷居をまたがなくなっていた。
どう理解したのかわからないが、 “ちびた” は、部屋に入る事を諦めたようだ。
育ての親が良い人なので、親思いの、物わかりの良い子に育ったのだろう。
餌をもらいたい時も、敷居の手前で待っている。
そんな姿も申し訳なく思ってしまうほど、可愛い。
“ちびた” は、私が起床して扉を開けるまで窓や扉を眺めている、とイブが教えてくれた。
夜は私が帰宅すると、門まで迎えに来てくれる。
どうやら、バイクの音を聞き分けられるようだ。
そんな “ちびた” を不憫に思う私は、昼間、テラスにいる時は、 “ちびた” と一緒にいることにしている。
横になって本を読んでいると、いつの間にか胸の上に乗っている。
一段と甘えん坊になったような気がする。
今夜も “ちびた”は、テラスの椅子でおとなしくお休みしている。
この頃、トイレットペーパーを使うほどの鼻水はない。
悪いね “ちびた” 。
2014年09月18日
パチュン家・屋敷寺の祭礼(86)
17日は、パチュン家の屋敷寺の祭礼日だった。
今年は、2月にもあったので2度目になる。
私が滞在始めてからは、3度目だ。
4度目は、立ち会えないかもしれない。
理由は、そのうちに発表します。
何度も言うが、バリは独特の伝統的暦「ウク暦」に従って祝う。
1年を30週×7日の210日で数える暦だ。
そんなわけで西暦のカレンダー内では、210日ごとに巡って来るウク暦の祭礼日が2度行われることもある。
数週間前から、パチュン家のイブは祭礼の供物作りで忙しそうだった。
女手がないので、夜遅くまで、ひとり黙々と手を動かしていた。
数日前からは、近所のイブイブたちが供物作りを手伝いに来ていた。
私のテラスの前で、賑やかな嬌声が続いた。
バリ語は理解できないが、会話は楽しそうだった。
今回の祭礼は、渓谷に建てられた「ルアック・ウブド・ヴィラ」のスパ工事が終わったので、普段より供物が多いとのこと。
供える場所も屋敷寺以外に、門内、中央、南西の祠、台所前と4カ所も加わった。
工事はケガ人も出ず、無事終了したようだ。
ムチャル(地霊をおさめる儀礼)に使われた「トゥトゥアン」と呼ばれる祠が、渓谷に飛び込むという不吉な事件が起きたので心配していた。
思い起こせば、今年4月から始まった工事。
渓谷沿いの樹木がチェーンソーで倒された。
朝日、夕日、熱い陽射しに照らされる豊富な緑が姿を消した時は、ちょっぴり寂しかった。
8月に1ヶ月、イスラム教徒の断食祭休日を挟んで完成した。
職人のほとんどが、ジャワ島から出稼ぎに来ているイスラム教徒だ。
工事期間中、パチュン家の庭は作業員の通行路となった。
一部は資材置き場に。
私の住む家屋の横は、コンクリート・ミキサーの作業場となった。
コンクリート・ミキサーが砂利を撹拌(かくはん)する音は、耳障りな雑音だった。
( “撹拌” に読みがなつけてゴメンなさい。私のように読めない人もいるかも、と思って)
工事が終了した今は、昔の静かなパチュン家に戻っている。
この日は、ウク暦の第二十八週・KELAWUのRABU (BUDA) WAGEは、Upacara Rambut Sedana(ランブット・スダナ)の祭礼日でもある。
お金に感謝をする日です。
商売を営んでいる人は、市場の寺院・ムランティン(Pr.Melanting)にお参りに行く。
あちらこちらで正装姿のバリ人を見かけたのは、祭礼日だったからです。
ツーリストの私はお参りもせず、テラスの大テーブルでラワールの昼食をいただいて大満足。
伐採を免れた樹木から、セミの声が聴こえてくる。
陽射しの熱い午後です。
今年は、2月にもあったので2度目になる。
私が滞在始めてからは、3度目だ。
4度目は、立ち会えないかもしれない。
理由は、そのうちに発表します。
何度も言うが、バリは独特の伝統的暦「ウク暦」に従って祝う。
1年を30週×7日の210日で数える暦だ。
そんなわけで西暦のカレンダー内では、210日ごとに巡って来るウク暦の祭礼日が2度行われることもある。
数週間前から、パチュン家のイブは祭礼の供物作りで忙しそうだった。
女手がないので、夜遅くまで、ひとり黙々と手を動かしていた。
数日前からは、近所のイブイブたちが供物作りを手伝いに来ていた。
私のテラスの前で、賑やかな嬌声が続いた。
バリ語は理解できないが、会話は楽しそうだった。
今回の祭礼は、渓谷に建てられた「ルアック・ウブド・ヴィラ」のスパ工事が終わったので、普段より供物が多いとのこと。
供える場所も屋敷寺以外に、門内、中央、南西の祠、台所前と4カ所も加わった。
工事はケガ人も出ず、無事終了したようだ。
ムチャル(地霊をおさめる儀礼)に使われた「トゥトゥアン」と呼ばれる祠が、渓谷に飛び込むという不吉な事件が起きたので心配していた。
思い起こせば、今年4月から始まった工事。
渓谷沿いの樹木がチェーンソーで倒された。
朝日、夕日、熱い陽射しに照らされる豊富な緑が姿を消した時は、ちょっぴり寂しかった。
8月に1ヶ月、イスラム教徒の断食祭休日を挟んで完成した。
職人のほとんどが、ジャワ島から出稼ぎに来ているイスラム教徒だ。
工事期間中、パチュン家の庭は作業員の通行路となった。
一部は資材置き場に。
私の住む家屋の横は、コンクリート・ミキサーの作業場となった。
コンクリート・ミキサーが砂利を撹拌(かくはん)する音は、耳障りな雑音だった。
( “撹拌” に読みがなつけてゴメンなさい。私のように読めない人もいるかも、と思って)
工事が終了した今は、昔の静かなパチュン家に戻っている。
この日は、ウク暦の第二十八週・KELAWUのRABU (BUDA) WAGEは、Upacara Rambut Sedana(ランブット・スダナ)の祭礼日でもある。
お金に感謝をする日です。
商売を営んでいる人は、市場の寺院・ムランティン(Pr.Melanting)にお参りに行く。
あちらこちらで正装姿のバリ人を見かけたのは、祭礼日だったからです。
ツーリストの私はお参りもせず、テラスの大テーブルでラワールの昼食をいただいて大満足。
伐採を免れた樹木から、セミの声が聴こえてくる。
陽射しの熱い午後です。
2014年08月20日
パチュン家のマデ君、クルーズに乗る(85)
8月18日の昼下がり。
「明日、出発します」
テラスからおりる私を見つけて、東屋(バレ・ダギン=儀式の為の建物)からマデ君が声を掛けてきた。
東屋に腰をおろして、数人と雑談していたようだ。
明日の出発を控えて、親戚の人が “別れの挨拶” に訪れているのだろう。
唐突な言葉だが、以前からクルーズに乗ると聞いていたので、そのことだろうと理解した。
「船に乗ることになったの?」
当然の質問を返した。
「明日、早朝にジャカルタへ行きます」
「それはおめでとう」
申し込んでいた乗船が決まったからだろう、マデ君は自信に満ちて一段とたくましく感じた。
マデ君は、グスティ家の長男。
正式名には「イ・グスティ・ヌラー・ヨギスワラ(I Gusti Ngurah Yogiswara)」。
1994年4月4日生まれ。
20才になったばかりだ。
ウブドの高校では、コンピューターを専攻した。
高校卒業後、デンパサールにある観光学校に1年間通う。
すでに将来を決めていたのか、バーテンダーの勉強をしていた。
私なんかは、高校卒で社会人になるのが不安で大学まで卒業させてもらった。
そんな私のワガママが許される家庭環境だったと言うことだ。
大学へ通ったからといって勉強するわけでもなく、ただ遊んでいただけ。
親に申し訳ないと思いながらも、できれば大学も留年しながら8年間通いたかった。
そうです、私は芯からの怠け者なんです。
しっかり者のマデ君は観光学校を卒業すると、ウブドにあるホテルのバーに見習いで入った。
見習い期間中、行く末を考慮中。
いつの頃からか、クルーズに乗ることを決めていた。
クルーズとは豪華客船による周遊観光のことだが、ここウブドでは乗務員として乗船することを現す。
アジア、ヨーロッパ、アメリカと幾種類かの航路があり、旅客船会社も多いと聞く。
クルーズに乗船するには、エージェントに大金を支払わなければならない。
「何でも自分で決める子なんです。家でじっとしていることが嫌いな子で、いつも友人の家に出かけて行く」と母親は言う。
今回もエージェント探しから、申込、面接と済ませていた。
父親パチュン君もおおいに思案したようだが、息子のために一肌脱いだ。
クルーズで仕事をすれば、バーテンダーと英語のスキルがアップすることを保証されたようなものだ。
ほとんどの青年が、3度4度とクルーズで仕事をし大金を掴む。
クルーズを降りてから起業し、成功するウブド人も多い。
25年前から、クルーズ乗船はウブドのサクセス・ストリーでもある。
私の20才の時の初海外は、旅行だった。
寂しくなればいつでも帰れた。
そんな気楽な旅だった。
マデ君の場合は、仕事だ。
ジャカルタへは、国内線の飛行機に同期2人と同乗する。
初のジャカルタ、初の飛行機搭乗。
仲間の2人も初搭乗だと聞く。
2日間ジャカルタで講習を受けて、翌日は香港へ。
香港から、いよいよクルーズに乗船だ。
10ヶ月の船上での仕事。
就職、クルーズ乗務、海外、すべてが初になる。
初心者は、エージェントから航路を割りふられる。
比較的、ゆるめの航海を選んでくれるようだ。
始めは、カジノのウエーターだと聞いている。
こちらも徐々にレベルアップされるていくのだろう。
マデ君の顔からは、夢の実現に向けて楽しみいっぱいのようだ。
少々の日本円と米ドルを「何かの時に使いなさい」と手渡した。
翌朝、マデ君は、晴れ晴れとした顔で出発して行った。
心細いだろうと思うのは、私の思い過ごしだろう。
10ヶ月後、私はパチュン家にいない。
次は、いつ会えるかわからない。
私の方が感傷的になっている。
「元気でな!」
「明日、出発します」
テラスからおりる私を見つけて、東屋(バレ・ダギン=儀式の為の建物)からマデ君が声を掛けてきた。
東屋に腰をおろして、数人と雑談していたようだ。
明日の出発を控えて、親戚の人が “別れの挨拶” に訪れているのだろう。
唐突な言葉だが、以前からクルーズに乗ると聞いていたので、そのことだろうと理解した。
「船に乗ることになったの?」
当然の質問を返した。
「明日、早朝にジャカルタへ行きます」
「それはおめでとう」
申し込んでいた乗船が決まったからだろう、マデ君は自信に満ちて一段とたくましく感じた。
マデ君は、グスティ家の長男。
正式名には「イ・グスティ・ヌラー・ヨギスワラ(I Gusti Ngurah Yogiswara)」。
1994年4月4日生まれ。
20才になったばかりだ。
ウブドの高校では、コンピューターを専攻した。
高校卒業後、デンパサールにある観光学校に1年間通う。
すでに将来を決めていたのか、バーテンダーの勉強をしていた。
私なんかは、高校卒で社会人になるのが不安で大学まで卒業させてもらった。
そんな私のワガママが許される家庭環境だったと言うことだ。
大学へ通ったからといって勉強するわけでもなく、ただ遊んでいただけ。
親に申し訳ないと思いながらも、できれば大学も留年しながら8年間通いたかった。
そうです、私は芯からの怠け者なんです。
しっかり者のマデ君は観光学校を卒業すると、ウブドにあるホテルのバーに見習いで入った。
見習い期間中、行く末を考慮中。
いつの頃からか、クルーズに乗ることを決めていた。
クルーズとは豪華客船による周遊観光のことだが、ここウブドでは乗務員として乗船することを現す。
アジア、ヨーロッパ、アメリカと幾種類かの航路があり、旅客船会社も多いと聞く。
クルーズに乗船するには、エージェントに大金を支払わなければならない。
「何でも自分で決める子なんです。家でじっとしていることが嫌いな子で、いつも友人の家に出かけて行く」と母親は言う。
今回もエージェント探しから、申込、面接と済ませていた。
父親パチュン君もおおいに思案したようだが、息子のために一肌脱いだ。
クルーズで仕事をすれば、バーテンダーと英語のスキルがアップすることを保証されたようなものだ。
ほとんどの青年が、3度4度とクルーズで仕事をし大金を掴む。
クルーズを降りてから起業し、成功するウブド人も多い。
25年前から、クルーズ乗船はウブドのサクセス・ストリーでもある。
私の20才の時の初海外は、旅行だった。
寂しくなればいつでも帰れた。
そんな気楽な旅だった。
マデ君の場合は、仕事だ。
ジャカルタへは、国内線の飛行機に同期2人と同乗する。
初のジャカルタ、初の飛行機搭乗。
仲間の2人も初搭乗だと聞く。
2日間ジャカルタで講習を受けて、翌日は香港へ。
香港から、いよいよクルーズに乗船だ。
10ヶ月の船上での仕事。
就職、クルーズ乗務、海外、すべてが初になる。
初心者は、エージェントから航路を割りふられる。
比較的、ゆるめの航海を選んでくれるようだ。
始めは、カジノのウエーターだと聞いている。
こちらも徐々にレベルアップされるていくのだろう。
マデ君の顔からは、夢の実現に向けて楽しみいっぱいのようだ。
少々の日本円と米ドルを「何かの時に使いなさい」と手渡した。
翌朝、マデ君は、晴れ晴れとした顔で出発して行った。
心細いだろうと思うのは、私の思い過ごしだろう。
10ヶ月後、私はパチュン家にいない。
次は、いつ会えるかわからない。
私の方が感傷的になっている。
「元気でな!」
2014年08月02日
ホテル&ヴィラの建築ラッシュ(84)
テガランタン村の北端は、ジュンジュンガン村と繋がる。
このあたりは、今も田んぼが広がっている。
夜になるとホタルが乱舞する
地元若者のデート・スポットのようだ。
ジュンジュンガン村に入ってすぐ右手の田んぼの中に「NOT FOR SELE」の野立て看板が立ったのは2013年初頭だった。
外国人やジャカルタの富裕層が、この静かな地にヴィラを建て始めた。
売って欲しいという人が頻繁に訪れるのに業を煮やした村人が、写真のような看板を立てたのだろう。
バリ島が外国人&他の島の人に乗っ取られるのを恐れている、この頃のバリ人。
乗っ取られてしまえば、バリ人の信仰である「ヒンドゥー・ダルマ」の存続も危うくなる。
この頃の風潮として、土地は売らずに長期で貸し出す考え方に変わってきた。
これまでも「土地は子供たちからの預かりもの」という考え方はあった。
手放すわけにはいかない。
素朴な作りの看板に、地元農民の代弁かもと共感した。
共感したミュージシャンがコンサート「NOT FOR SALE」を開催することになった。
2013年7月26日の照明を必要としない午後4時から行われる。
ステージは野立て看板の前。
観客は田んぼの畦道で鑑賞することになる。
バリ出身でインドネシアの人気バンド「S・I・D(Superman Is Dead)」が出演するということで、地元の若者たちが大勢詰めかけた。
S・I・Dは、バリ南部ブノア湾のマングローブ保存などバリ島環境問題に真摯に取り組んでいるロック・グループだ。
このコンサートもそんな一環なのかもしれない。
バリ島は今、ホテル&ヴィラの建築ラッシュ。
様々な問題が起こっている。
水の問題も大きい。
大型ホテルの建設で水が不足がちな地域が出始め、農業に支障をきたすようになってきている。
ゴミ&下水&交通など、早急に解決しなくてはならない問題は山積みだ。
急速な発展に伴い環境が破壊されていく。
これは仕方がないことなのか?
バランスのとれた発展はないものか?
たくさんの?が浮かぶ。
さまざまな条例が必要だろう。
バリ島の将来は、バリ人が何を望むかによって決定される。
しかし「急を要する」と私は思っている。
テガランタン村もご多分にもれずヴィラの建築ラッシュだ。
こちらも取り返しがつかなくなる前に、村作りの青写真を作っておく必要があるだろう。
村人の良識に期待したい。
夜7時30分を廻ったところで、村の役員からコンサート中止の警告があった。
誰かがクレームをつけたのか。
9グループがライブを終えたが、まだまだ出演バンドはスタンバイしている。
7時40分までの延長で、コンサートは再開された。
◇
「NOT FOR SALE」の野立て看板のあった田んぼの隣に、7月17日レストランが開店した。
「ワルン・メゾ=Warung MEZZO」だ。
この店は、土地の持ち主であるバリ人のオーナーだ。
田んぼの景色が美しいロケーションなので、ローカル&ツーリストに人気が出そう。
価格もお値打ちです。
★メニュー:インドネシア中華料理
★食事:チャプチャイRp17,000-/ナシゴレン&ミーゴレンRp20,000-/
★飲物:コピバリRp5,000-/紅茶Rp6,000-/ジュース各種Rp8,000-/ビンタンビール大Rp30,000-小17,000-/
★営業時間:10.00am〜10.00pm/年中無休
★TEL:089-632-36803/
関連ブログ
2013年05月08日:■テガランタン村北部(25)
2013年05月22日:■ジャランジャランの2(31)
2013年07月29日:■Bali Not For Sale(46)
このあたりは、今も田んぼが広がっている。
夜になるとホタルが乱舞する
地元若者のデート・スポットのようだ。
ジュンジュンガン村に入ってすぐ右手の田んぼの中に「NOT FOR SELE」の野立て看板が立ったのは2013年初頭だった。
外国人やジャカルタの富裕層が、この静かな地にヴィラを建て始めた。
売って欲しいという人が頻繁に訪れるのに業を煮やした村人が、写真のような看板を立てたのだろう。
バリ島が外国人&他の島の人に乗っ取られるのを恐れている、この頃のバリ人。
乗っ取られてしまえば、バリ人の信仰である「ヒンドゥー・ダルマ」の存続も危うくなる。
この頃の風潮として、土地は売らずに長期で貸し出す考え方に変わってきた。
これまでも「土地は子供たちからの預かりもの」という考え方はあった。
手放すわけにはいかない。
素朴な作りの看板に、地元農民の代弁かもと共感した。
共感したミュージシャンがコンサート「NOT FOR SALE」を開催することになった。
2013年7月26日の照明を必要としない午後4時から行われる。
ステージは野立て看板の前。
観客は田んぼの畦道で鑑賞することになる。
バリ出身でインドネシアの人気バンド「S・I・D(Superman Is Dead)」が出演するということで、地元の若者たちが大勢詰めかけた。
S・I・Dは、バリ南部ブノア湾のマングローブ保存などバリ島環境問題に真摯に取り組んでいるロック・グループだ。
このコンサートもそんな一環なのかもしれない。
バリ島は今、ホテル&ヴィラの建築ラッシュ。
様々な問題が起こっている。
水の問題も大きい。
大型ホテルの建設で水が不足がちな地域が出始め、農業に支障をきたすようになってきている。
ゴミ&下水&交通など、早急に解決しなくてはならない問題は山積みだ。
急速な発展に伴い環境が破壊されていく。
これは仕方がないことなのか?
バランスのとれた発展はないものか?
たくさんの?が浮かぶ。
さまざまな条例が必要だろう。
バリ島の将来は、バリ人が何を望むかによって決定される。
しかし「急を要する」と私は思っている。
テガランタン村もご多分にもれずヴィラの建築ラッシュだ。
こちらも取り返しがつかなくなる前に、村作りの青写真を作っておく必要があるだろう。
村人の良識に期待したい。
夜7時30分を廻ったところで、村の役員からコンサート中止の警告があった。
誰かがクレームをつけたのか。
9グループがライブを終えたが、まだまだ出演バンドはスタンバイしている。
7時40分までの延長で、コンサートは再開された。
◇
「NOT FOR SALE」の野立て看板のあった田んぼの隣に、7月17日レストランが開店した。
「ワルン・メゾ=Warung MEZZO」だ。
この店は、土地の持ち主であるバリ人のオーナーだ。
田んぼの景色が美しいロケーションなので、ローカル&ツーリストに人気が出そう。
価格もお値打ちです。
★メニュー:インドネシア中華料理
★食事:チャプチャイRp17,000-/ナシゴレン&ミーゴレンRp20,000-/
★飲物:コピバリRp5,000-/紅茶Rp6,000-/ジュース各種Rp8,000-/ビンタンビール大Rp30,000-小17,000-/
★営業時間:10.00am〜10.00pm/年中無休
★TEL:089-632-36803/
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2014年07月29日
7月25日で67才になりました(83)
24日深夜、FacebookにNabiちゃんから一番乗りの「祝・誕生日」のメッセージが届いた。
その後、続々と祝いの言葉が続いただろうと思う。
ネットの都合で、数人しか確認できずに寝床についてしまった。
今年も誕生日がやってきた。
何度も言っているが「67才」になる。
普通の67才なら、地球上で起こっている理不尽な事件や戦争、祖国日本政府の愚行に提言を述べられるのだろう。
関心はあるが、残念ながら、私にはそんな能力はない。
そして、高尚な人生訓も披露できない。
少ない知識で言えることは、言いたいことは「原発はいらない」だ。
そして「戦争はいらない」だ。
節目の誕生日には、できるだけイベントをしようと思っている。
大きくは10年単位で。
20才の時には、ナホトカ航路で一年間の放浪の旅に出た。
30才の時は、名古屋大須の「ライブハウス・コマンド」で盛大な誕生会を開いた。
40才の時は、雑用の忙しさでイベントした記憶がないほど、人生で最悪の時代だった。
42才でバリ島「ウブドに沈没」したのが、遅ればせながら40才のイベントだったのかもしれない。
人生で最悪の時代が40才前後だった。
50才と60才の時には、アグン山に登った。
67才に、これと言った感激はない。
何才で人生を終えるかわからないが、その通過点の67。
嬉しくも、悲しくも、寂しくもない。
あらたまって、何かをするつもりもない。
普段の一日、一年が続くのだろう。
終焉で見られるかもしれない走馬灯に、浮かび出される思い出が少しでもあればいいな。
70才の節目には、何かしたいと思っている。
「昨日、私の誕生日だったよ」とパチュン君に伝えると、「なぜ言わない。わかっていれば供物料理を作ったのに」と残念がっていた。
「西暦の誕生日だし、67才は私にとっては普通だからいいんだよ」言うと、奥さんのマデは「ご免なさい。覚えていたら供物を用意したのに」と恐縮していた。
優しい家族に守られて生活しているという実感がした場面だった。
バリ人の誕生日は、ウク暦によって祝われる。
ウク暦は、7日を単位とする30の週(ウク)によって成り立っている。
7日×30週=210日、これがウク暦の1年。
■7日の単位(かっこ内はインドネシア語)。
月=COMA(senin)/火=ANGGARA(selasa)/水=BUDA(rabu)/木=WRASPATI(kamis)/金=SUKRA(jumat)/土=SANISCARA(sabutu)/日=RADITE(minggu)
■30の週。
1)SINTA 2)LANDEP 3)UKIR 4)KULANTIR 5)TULU 6)GUMBREG 7)WARIGA 8)WARIGADIAN 9)JULUNGWANGI 10)SUNGSANG 11)DUNGGULAN 12)KUNINGAN 13)LANGKIR 14)MEDANGSIA 15)PUJUT 16)PAHANG 17)KRULUT 18)MERAKIH 19)TAMBIR 20)MEDANGKUNGAN 21)METAL 22)UYE 23)MENAIL 24)PRANGBAKAT 25)BALA 26 )UGU 27)WAYANG 28)KELAWU 29)DUKUT 30)WATUGUNUNG
誕生日は、オトン(オトナン)=oton & otonanと呼ばれる。
私のオトンは、KULANTIR(4番目の週)ーSUKRA(金)ーPON。
今年は4月4日と10月31日の2度ある。
このように西暦の月日と違ってくる。
子供は、誕生してから3回目(210日×3回=630日)のオトンまでが重要とされ、その後は、供物を捧げるだけで終わっているようだ。
最近の子供たちは、西暦の誕生日も祝っているようだ。
日本人と同様に、バレンタインデーやクリスマスと同じノリなのだろう。
ウク歴に基づいて生活しているバリ人は、西暦の誕生日を知らない人がほとんどだった。
自分が何才であるかという概念が希薄だ。
インドネシア政府からKTPとよばれる身分証明書を持つように義務付けられ、記憶をたどり生年月日を思い出そうとする。
誕生年は思い出しても、月日までは無理。
頭の中には、オトンしかない。
そこで適当に書き込むことになる。
誕生年が1〜2年曖昧な人。
月日は1月1日だったり12月31日とわかりやすくする。
オトンの組み合わせで、運勢を占う人がいる。
バリヤンと呼ばれる呪術師だ。
性格から適した職種を判断したり、どのオトンの人と相性がいいかもわかる。
ブラックマジックに悪用されると言う話も聞く。
自分のオトンを知りたい人は「アパ?情報センター」にお立ち寄りください。
インドネシア語で書かれたオトンについての冊子が保管されております。
生年月日を提示すれば、ワヤン君が丁寧に教えてくれますよ。
どんな仕事に向いているか。恋人の相性も訊くこともできます。
節目ではないが、来年(2015年)は南米コロンビアに行く予定でいる。
これは、私の人生におけるビックイベントの一つになるだろう。
67才は、どう生きるか模索の一年かもしれない。
その後、続々と祝いの言葉が続いただろうと思う。
ネットの都合で、数人しか確認できずに寝床についてしまった。
今年も誕生日がやってきた。
何度も言っているが「67才」になる。
普通の67才なら、地球上で起こっている理不尽な事件や戦争、祖国日本政府の愚行に提言を述べられるのだろう。
関心はあるが、残念ながら、私にはそんな能力はない。
そして、高尚な人生訓も披露できない。
少ない知識で言えることは、言いたいことは「原発はいらない」だ。
そして「戦争はいらない」だ。
節目の誕生日には、できるだけイベントをしようと思っている。
大きくは10年単位で。
20才の時には、ナホトカ航路で一年間の放浪の旅に出た。
30才の時は、名古屋大須の「ライブハウス・コマンド」で盛大な誕生会を開いた。
40才の時は、雑用の忙しさでイベントした記憶がないほど、人生で最悪の時代だった。
42才でバリ島「ウブドに沈没」したのが、遅ればせながら40才のイベントだったのかもしれない。
人生で最悪の時代が40才前後だった。
50才と60才の時には、アグン山に登った。
67才に、これと言った感激はない。
何才で人生を終えるかわからないが、その通過点の67。
嬉しくも、悲しくも、寂しくもない。
あらたまって、何かをするつもりもない。
普段の一日、一年が続くのだろう。
終焉で見られるかもしれない走馬灯に、浮かび出される思い出が少しでもあればいいな。
70才の節目には、何かしたいと思っている。
「昨日、私の誕生日だったよ」とパチュン君に伝えると、「なぜ言わない。わかっていれば供物料理を作ったのに」と残念がっていた。
「西暦の誕生日だし、67才は私にとっては普通だからいいんだよ」言うと、奥さんのマデは「ご免なさい。覚えていたら供物を用意したのに」と恐縮していた。
優しい家族に守られて生活しているという実感がした場面だった。
バリ人の誕生日は、ウク暦によって祝われる。
ウク暦は、7日を単位とする30の週(ウク)によって成り立っている。
7日×30週=210日、これがウク暦の1年。
■7日の単位(かっこ内はインドネシア語)。
月=COMA(senin)/火=ANGGARA(selasa)/水=BUDA(rabu)/木=WRASPATI(kamis)/金=SUKRA(jumat)/土=SANISCARA(sabutu)/日=RADITE(minggu)
■30の週。
1)SINTA 2)LANDEP 3)UKIR 4)KULANTIR 5)TULU 6)GUMBREG 7)WARIGA 8)WARIGADIAN 9)JULUNGWANGI 10)SUNGSANG 11)DUNGGULAN 12)KUNINGAN 13)LANGKIR 14)MEDANGSIA 15)PUJUT 16)PAHANG 17)KRULUT 18)MERAKIH 19)TAMBIR 20)MEDANGKUNGAN 21)METAL 22)UYE 23)MENAIL 24)PRANGBAKAT 25)BALA 26 )UGU 27)WAYANG 28)KELAWU 29)DUKUT 30)WATUGUNUNG
誕生日は、オトン(オトナン)=oton & otonanと呼ばれる。
私のオトンは、KULANTIR(4番目の週)ーSUKRA(金)ーPON。
今年は4月4日と10月31日の2度ある。
このように西暦の月日と違ってくる。
子供は、誕生してから3回目(210日×3回=630日)のオトンまでが重要とされ、その後は、供物を捧げるだけで終わっているようだ。
最近の子供たちは、西暦の誕生日も祝っているようだ。
日本人と同様に、バレンタインデーやクリスマスと同じノリなのだろう。
ウク歴に基づいて生活しているバリ人は、西暦の誕生日を知らない人がほとんどだった。
自分が何才であるかという概念が希薄だ。
インドネシア政府からKTPとよばれる身分証明書を持つように義務付けられ、記憶をたどり生年月日を思い出そうとする。
誕生年は思い出しても、月日までは無理。
頭の中には、オトンしかない。
そこで適当に書き込むことになる。
誕生年が1〜2年曖昧な人。
月日は1月1日だったり12月31日とわかりやすくする。
オトンの組み合わせで、運勢を占う人がいる。
バリヤンと呼ばれる呪術師だ。
性格から適した職種を判断したり、どのオトンの人と相性がいいかもわかる。
ブラックマジックに悪用されると言う話も聞く。
自分のオトンを知りたい人は「アパ?情報センター」にお立ち寄りください。
インドネシア語で書かれたオトンについての冊子が保管されております。
生年月日を提示すれば、ワヤン君が丁寧に教えてくれますよ。
どんな仕事に向いているか。恋人の相性も訊くこともできます。
節目ではないが、来年(2015年)は南米コロンビアに行く予定でいる。
これは、私の人生におけるビックイベントの一つになるだろう。
67才は、どう生きるか模索の一年かもしれない。
2014年07月11日
パチュン家の新しい住人(82)
私が日本に一時帰国している間に、パチュン家に建築中の建物が完成していた。
一戸建ての借家だ。
工事期間は約6ヶ月。
これは、ウブドにしては早い仕上がりだ。
予算は大幅にオーバーしたが、パチュン君の希望は叶ったようだ。
家族も総動員して仕上げたパチュン家の苦労の賜物。
借り手の心配をしていたが、運よく、私の知人が借りてくれることになった。
私より一日遅れの6月19日に、新居の住人になるヒロさんが名古屋からやってきた。
この日から、ヒロさんのテガランタン長期滞在が始まる。
本名は、藤井洋(ひろし)。
私の周りにひろし君は多い。
年齢は58才
岐阜県土岐市出身。
今年2月に早期退職した、リタイヤ組だ。
年内は失業保険のために職安に通わなければならないので行ったり来たりだが、それが終了すれば来年からは本格的滞在に入る。
男手ひとりで、2人の娘を健やかに育てた話が、彼の自慢のネタ。
私から見れば、子離れできないお父さんだが、これも愛情表現のひとつだろう。
社会人として独立している娘たちにとっても、嬉しいことかも。
長女とは、毎日メール交換をしている。
子供に対する接し方が、私とはかなり違う。
私なんかは、数年のスパンでしか息子と連絡を取っていない。
ヒロさんにしてみれば、娘たちの行く末を考えながらの海外移住計画だろう。
「おとうさん頑張って!」娘たちからのエールが聞こえるようだ。
「おとうさんも頑張っているよ」私が答えておいた。
そうそう、ヒロさんが一緒に住んでくれる女性募集だって。
「娘も巣立ったことだし、再婚も考えている」と言っています。
趣味人のヒロさんは、日本ではスズキのバイク、サベージを乗り回し、天気が良い日にはアルファロメオ・スパイダーのルーフをオープンにして遠出する。
さて、ウブドは何をしようか。
芸能、宗教、慣習に興味を持つのも良い。
バリ人ウオッチングも楽しいよ。
ゆっくり考えてください。
私としては、パチュン家の家族と仲良くやってくれることが嬉しいです。
末永くヒロさんが住んでくれれば、パチュン家の家計も安泰というものだ。
そして、病気や事故のない健康な生活を送ってください。
よろしくヒロさん。
ウブドにリタイヤ組が住みはじめたのは、2000年初頭からかな。
私が滞在し始めた頃(1990年)の長期滞在者は、芸能や宗教・習慣に興味を持っている人が多かったと思う。
バリ人に惚れて結婚する日本が増えたのは、1996年頃からだったかな。
2011年からは、原発避難組の移住者が目立って増えた。
物価が安くて安全だというのが、大きな移住理由になっている。
サクセスストーリの実現に、起業家もやってくるようになった。
ウブドの長期滞在者が多様化してきた。
毎回、同じ言葉になってしまうが「ウブドがウブドらしく発展することを願う」。
一戸建ての借家だ。
工事期間は約6ヶ月。
これは、ウブドにしては早い仕上がりだ。
予算は大幅にオーバーしたが、パチュン君の希望は叶ったようだ。
家族も総動員して仕上げたパチュン家の苦労の賜物。
借り手の心配をしていたが、運よく、私の知人が借りてくれることになった。
私より一日遅れの6月19日に、新居の住人になるヒロさんが名古屋からやってきた。
この日から、ヒロさんのテガランタン長期滞在が始まる。
本名は、藤井洋(ひろし)。
私の周りにひろし君は多い。
年齢は58才
岐阜県土岐市出身。
今年2月に早期退職した、リタイヤ組だ。
年内は失業保険のために職安に通わなければならないので行ったり来たりだが、それが終了すれば来年からは本格的滞在に入る。
男手ひとりで、2人の娘を健やかに育てた話が、彼の自慢のネタ。
私から見れば、子離れできないお父さんだが、これも愛情表現のひとつだろう。
社会人として独立している娘たちにとっても、嬉しいことかも。
長女とは、毎日メール交換をしている。
子供に対する接し方が、私とはかなり違う。
私なんかは、数年のスパンでしか息子と連絡を取っていない。
ヒロさんにしてみれば、娘たちの行く末を考えながらの海外移住計画だろう。
「おとうさん頑張って!」娘たちからのエールが聞こえるようだ。
「おとうさんも頑張っているよ」私が答えておいた。
そうそう、ヒロさんが一緒に住んでくれる女性募集だって。
「娘も巣立ったことだし、再婚も考えている」と言っています。
趣味人のヒロさんは、日本ではスズキのバイク、サベージを乗り回し、天気が良い日にはアルファロメオ・スパイダーのルーフをオープンにして遠出する。
さて、ウブドは何をしようか。
芸能、宗教、慣習に興味を持つのも良い。
バリ人ウオッチングも楽しいよ。
ゆっくり考えてください。
私としては、パチュン家の家族と仲良くやってくれることが嬉しいです。
末永くヒロさんが住んでくれれば、パチュン家の家計も安泰というものだ。
そして、病気や事故のない健康な生活を送ってください。
よろしくヒロさん。
ウブドにリタイヤ組が住みはじめたのは、2000年初頭からかな。
私が滞在し始めた頃(1990年)の長期滞在者は、芸能や宗教・習慣に興味を持っている人が多かったと思う。
バリ人に惚れて結婚する日本が増えたのは、1996年頃からだったかな。
2011年からは、原発避難組の移住者が目立って増えた。
物価が安くて安全だというのが、大きな移住理由になっている。
サクセスストーリの実現に、起業家もやってくるようになった。
ウブドの長期滞在者が多様化してきた。
毎回、同じ言葉になってしまうが「ウブドがウブドらしく発展することを願う」。
2014年05月01日
ウブド・本の交換会@ビンタン・ダイニング(81)
毎月恒例「ウブド・本の交換会」第61回は「ビンタン・ダイニング」で、4月27日に開催された。
「サリナ・ワルン」(第58回まで参加店)のあと、今回から初参加だ。
「サリナ・ワルン」はテガランタン村だったので、私は歩いて5分ほどで行けた。
「ビンタン・ダイニング」は、サクティ橋を渡って渓谷向こう側で、バイクでなら5分とかからない。
実は、パチュン家の渓谷側真裏になる。
「ビンタン・ダイニング」は「ヴィラ・ビンタン」の喫茶室として、近日中に新装開店する。
詳しく場所を説明しよう。
ウブド・サレン王宮からスウェタ通りを北上しウブド第一高校を通り越し、サクティ橋を右手に見てさらに北上。
タマン村から北上した場合は、サクティ橋を渡って、右手に北上。
サクティ橋を過ぎて、しばらく行った左手(渓谷と反対側)に「ビンタン・ダイニング」はある。
今回は「ビンタンダイニング」のお披露目も兼ねた「ウブド・本の交換会」。
これまでの土曜日夕方という時間帯でなく、日曜日の正午から3時までの新しい試みをした。
「ヴィラ・ビンタン」にあるガゼボで本の交換会。
ビラ・ビンタンの蔵書本をご提供いただき、目新しい本が増えたのが嬉しい。
バザーは、 北西に大きく開いた窓からきれいな景色が眺められる「ビンタン・ダイニング」で。
ナシゴレン、ミーゴレン、アヤムゴレン、冷しそば、いわしの南蛮漬けなどが提供された。
もちろん「Blossom Cafe」「warung biah-biah」「Citta Ovest」も参加しています。
会場は2カ所にわかれたが、空間がゆったりと利用できるため、のんびりと楽しむことが出来る。
「日曜日の昼、この時間帯なら参加できる」と言う声をたくさん聞いた。
「ビンタン・ダイニング」の下見を兼ねて訪れた人が多かったのか、大盛況だった。
これで、「カフェ・アンカサ」「ワルン・ソフィア」「ビンタンダイニング」と3店のローテーションとなり実行委員一同も「ほっと!」しています。
「今後とも、皆様の応援に答えていきたいと考えております」との、頼もしい発言をいただきました。
「サリナ・ワルン」(第58回まで参加店)のあと、今回から初参加だ。
「サリナ・ワルン」はテガランタン村だったので、私は歩いて5分ほどで行けた。
「ビンタン・ダイニング」は、サクティ橋を渡って渓谷向こう側で、バイクでなら5分とかからない。
実は、パチュン家の渓谷側真裏になる。
「ビンタン・ダイニング」は「ヴィラ・ビンタン」の喫茶室として、近日中に新装開店する。
詳しく場所を説明しよう。
ウブド・サレン王宮からスウェタ通りを北上しウブド第一高校を通り越し、サクティ橋を右手に見てさらに北上。
タマン村から北上した場合は、サクティ橋を渡って、右手に北上。
サクティ橋を過ぎて、しばらく行った左手(渓谷と反対側)に「ビンタン・ダイニング」はある。
今回は「ビンタンダイニング」のお披露目も兼ねた「ウブド・本の交換会」。
これまでの土曜日夕方という時間帯でなく、日曜日の正午から3時までの新しい試みをした。
「ヴィラ・ビンタン」にあるガゼボで本の交換会。
ビラ・ビンタンの蔵書本をご提供いただき、目新しい本が増えたのが嬉しい。
バザーは、 北西に大きく開いた窓からきれいな景色が眺められる「ビンタン・ダイニング」で。
ナシゴレン、ミーゴレン、アヤムゴレン、冷しそば、いわしの南蛮漬けなどが提供された。
もちろん「Blossom Cafe」「warung biah-biah」「Citta Ovest」も参加しています。
会場は2カ所にわかれたが、空間がゆったりと利用できるため、のんびりと楽しむことが出来る。
「日曜日の昼、この時間帯なら参加できる」と言う声をたくさん聞いた。
「ビンタン・ダイニング」の下見を兼ねて訪れた人が多かったのか、大盛況だった。
これで、「カフェ・アンカサ」「ワルン・ソフィア」「ビンタンダイニング」と3店のローテーションとなり実行委員一同も「ほっと!」しています。
「今後とも、皆様の応援に答えていきたいと考えております」との、頼もしい発言をいただきました。