25年ぶりの日本一時帰国が終了した。
5月10日から6月18日までの40日間、みなさまには本当にお世話になりました。
これでウブド滞在中、一度も日本に帰らなかった記録(24年)に終止符が打たれたことになる。
長寿が記録に残るように、滞在年数も長くなればなるほど記録とされる。
24年の歳月は、何もしなくても重宝がられる人を作り、時には重鎮と呼ばれることもある。
私もそんな一人だったかもしれない。
1990年5月にウブドにたどり着いて、最初に考えたこと。
それは、日本人であることを最大限生かそうということだった。
なんの能力もない平凡な私が持っているものといえば、日本人であるということだけだ。
長期滞在している日本人の姿が少なかった時期。
何かしら役に立つことはあるだろう。
そして、希少価値な存在になること。
それは、唯一の物であり一番最初であること。
滞在年数24年は、そのひとつだ。
サクセスするかどうかは、努力次第。
私は、ほどほどが主義だから、金銭的には成功していない。
しかし、精神的には充分満足している。
「一番最初であれ」という考え方は、社会人になってから芽生えたようだ。
振り返ってみると、他人に先を越されるのが嫌いな性格のようで、思い立つとすぐに着手している。
二番煎じが嫌なのだ。
人より少し早く物事を始めていた。
手がけるのも早いが、手を引くのも早い。
ようするに飽き性なのだ。
足跡を残したことだけで満足してしまう。
商売も下手だから長続きしない。
これが23才から42才までの私だ。
ウブドでも、同じだった。
◎ウブド初の日本料理店「居酒屋・影武者」。
その土地に行ったらその土地の物を食べよ、というのが私の考え方。
腹痛・つわりなどでインドネシア料理が食べられなくなってしまった日本人旅行者がいた。
そう言う私も、滞在3ヶ月目で食傷気味になった。
必要悪かも、と考えながらオープンしたのが1991年の7月10日。
現在は、後継者の女将・由美さんによって老舗に育っている。
◎イラストマップ(作者:伊藤ちづる)の発行。
1990年版「パスフィンダー」と「地球の歩き方・インドネシア」のウブド地図は簡略すぎた。
日本語で描かれたウブド・イラストマップは、旅行者にありがたがられた。
1993年に一枚1000ルピアで販売していた。
◎「極楽通信・ウブド」の発行。
1994年から1999年にかけてバリ島UBUDから発信されていた幻のミニコミ誌。
3ヶ月に1度の発行で、Vol.30まで5年間続いた。
バリで取材した原稿を日本に郵送し、それを元にPageMakerによってDTP作業後LaserWriterでプリントアウトした版下原稿をバリに送付し、UBUDでコピー印刷されて製本され、日本の読者に郵送されていたという、アナログ60%+デジタル40%というシロモノ。
「Club Bali・極楽通信UBUD」からダウンロードできます。
◎日本人専門の情報センター「アパ?」開設。
寺院祭礼(オダラン)見学ツアー&正装のレンタル。
こちらはワヤン・スタモ君が頑張ってくれている。
◎スアールアグン芸術団の「ジェゴグ」、スバリ村の「ジョゲッピンギタン」、ヤンアピ村の「ジャンゲール・ムボルボル」など、マニアックな芸能ツアーを主催した。
この他にもいくつか「ウブド初」はあったと思うが思い出せない。
こうして書き並べると、斬新なことはなにひとつしていない。
しかしこれらは、ウブドに今までなかった新しい出来事なのだ。
それほどウブドは田舎だったということだ。
私のようにお金も能力も度胸もない人間が世界に飛び出すなら、こんな田舎の村を探すとよいだろう。
度胸がないというよりは、英語もできないので、向こう見ずなのかもしれない。
自慢しているわけではありませんが、もちろん英語以外の外国語もできません。
今回の一時帰国は、次の沈没地=田舎を目指す旅立ち前の、故郷帰り。
息子夫婦、そして孫にも会った。
前妻とも和解した。
日本も満喫した。
あとはウブドに戻って、旅の準備をするだけだ。
2014年07月03日
2014年06月30日
Ito-san歓送ガムランライブの夜(16)
6月15日(日)
日本一時帰国の滞在も、残すところ4日となった。
気がつけば日本を離れる日も近い。
18日の早朝には、名古屋を発っている。
最後の日曜日に「Ito-san歓送ガムランライブの夜」を開催することになった。
5月24日の歓迎会は、再会を楽しんで盛り上がるうちに過ぎ、バリの話があまりできなかった。
バリの話をもっと聞きたいという声があり、急遽、歓送イベントの開催が決定した。
今回も水野さんが中心になって動いてくれた。
私は、ガムラングループ「スアラスクマ」と舞踊家「大西由希子」を紹介したかった。
豊田地方に、バリ芸能を広めたいという考えもある。
《スケジュール》
◎一部:トークライブ「伊藤さんを囲んでバリ島を語ろう」
芸能の解説、その背景にある出来事、 24年間のバリ島暮らしで経験した あれとかこれ。
ガイド本には掲載されないディープな バリ島、その文化の魅力をUBUDの 案内人・伊藤さんが語り尽くします。
衣装替えをライブで、そして踊るかも?
◎二部:「バリ芸能を堪能してもらおう」
■出演:演奏・スアラスクマ
舞踊・大西由希子
□「スアラスクマ」
迫り来る躍動感、空気をも変えんばかりの音のうねり。
多くの人々を魅了する、インドネシア・バリ島の民俗音楽<ガムラン> 。
2001年、名古屋で松井氏を中心に結成された実力派ガムラングループ。
時に静かに解きに激しく「スアラスクマ/魂の音」の名のとおり魂に響く音色をお届けします。
http://www.geocities.jp/suara_sukma/
□「大西由希子」
バリ舞踊家。
古典舞踊を女性舞踊から男性舞踊まで踊り分ける一方で、創作や即興、他ジャンルの表現者とのコラボレーション、演劇の舞台への参加なども意欲的に行う。
1993年バリ舞踊に出会い、以後舞踊を学ぶためにバリ島通いを始める。
1996年〜1999年インドネシア国立芸術大学デンパサール校に留学。
舞踊の研鑽を積む一方で「タルナ・ジャヤ(女性による男性振りの舞踊)」の踊り手として寺院での奉納舞踊も数多く行い、バリ島各地のガムラングループと共演する。
2000年より日本での活動を開始。
これまで全国各地の劇場、寺院、ライブハウスなど様々な場所で公演活動を行うほか、ワークショップ、劇団等への指導・振り付け、各種学校での講義などにも取り組んでいる。
バリ舞踊の根っこにつながる新しい表現を志している。
http://www.cilidewi.com/index.html
■会場:豊田市にある料理屋「如庵」のカラオケホール。
(〒471-0034 愛知県豊田市小坂本町1丁目4−14 )
テーブルが片付けられた広さ8坪ほどのカラオケホールの床に、ガムランとメンバー6人がスタンバイしている。
壁際の備え付けベンチと用意されたいくつかスツールには、開演を待つ本日のお客様達がいる。
「スラマット・ダタン!」
「本日は、忙しい中、ようこそお越し下さいました」で始まった。
一部は、私のおしゃべりを中心にして進めることになっている。
見渡すと、腰掛けているお客様のほとんどが友人だった。
それもバリに何度も通っているバリ通たちだ。
バリに詳しいツワモノたちに、私の浅い知識を披露しても意味がないように思えた。
彼らの知らないディープなバリはないものか・・・考えながら話を始める。
スラマット・ダタンはインドネシア語です。
スラマットは感謝、ダタンは来るという意で「いらっしゃったことに感謝します」と訳す。
日本語の「歓迎」、英語の「WELCOME」と同じですね。
朝の挨拶「スラマット・パギ」は「朝の感謝」、夜の挨拶「スラマット・マラム」は「夜に感謝」するという意味になる。
ほかにもスラマットがつく言葉はたくさんある。
私は、このありがたさを感じて謝意を現す「スラマット」というインドネシア語が好きだ。
バリ人同士は、通常バリ語で会話をしている。
出会った挨拶に「オム・スアスティ・アストゥ=幸運を」、お別れのには「オム・サンティ・サンティ・サンティ・オム=平穏を」とバリ語を使う。
インドの影響が強く残るバリには、サンティ(寂静)以外にも、サクティ(宇宙的根源力)、バクティ(信愛)など、サンスクリット語の多くがバリ語に含まれている。
挨拶に「マトゥール・スクスモ=ありがとうございます」を使うこともある。
バリ語で、挨拶すると喜ばれるので使ってみよう。
今日の私の衣装を説明しょう。
古くバリ人の普段着は、男女とも腰巻き一枚に上半身裸だったようです。
現在は、上着を着るようになっている。
このはちまきはウダンと言う。
腰巻きの上にもう一枚サプットと呼ばれる布を巻き、これを正装とする。
結婚儀礼・火葬儀礼・寺院祭礼など各種儀礼や行事に参加する時の男性の衣装です。
伝統衣装とも呼ばれている。
バリでは、腰布はカマンと言う。
カマンはバリ語で布のこと、インドネシア語ではカインです。
サロンと言う人もいますが、サロンは筒状になった腰布のことで、主にイスラム教徒が着用する腰布を指す。
バリ人は、アニミズムと仏教とヒンドゥー教が混在した「よろずの神」を信仰している。
絵画、彫刻、音楽、舞踊など、バリの芸能は、神々への奉納であった。
政治と宗教儀礼が密接に関係していたバリ王国時代、芸能が王様の威厳を庶民に普及させる手段として使われた。
王政を美化した物語が、寺院祭礼の奉納で演じられた。
舞踊劇(アルジョ)、仮面劇(トペン)、影絵芝居(ワヤン・クリッ)がそうだ。
こんな話をしながら1時間が経過した。
続いて踊りの衣装に着替えるところをライブで見てもらいます。
仮面舞踊の衣装です。
仮面は、インドネシア語でタップールと言う。
寺院祭礼などの儀礼に使われるタップールは、トペンと呼ばれる。
トペンをつけて踊られる舞踊をタリ・トペン(トペン舞踊)と呼ぶ。
バリの舞踊は、寺院で神々に奉納するもの。
寺院内には、控え室がないので、衆目の中で着替えることになる。
踊り手は、バリ島内では芸能人。
村人の興味津々の眼が突き刺さる。
女性の踊り子さんも同様。
若い女性の踊り子さんは、穴のあくほど見つめられることになる。
着替えが終わると、ガムランの演奏をお願いした。
15年ぶりに踊る。
道化の仮面「トペン・ゴンブラン」をつけて、踊る。
1分ほど踊っただけで息が切れている。
続いて「トペン・ムニエール」。
すっかり振り付けを忘れているので、即興で踊ることになる。
ガムランともまったく合っていない。
今の私に合わせる技量も意識もない。
二部は、客席に廻り鑑賞。
会場を提供してくれた「料理屋・如庵」女将の友人が大勢押し掛けてくれた。
女将は、私の元妻だということを、ここで発表しておきます。
皆さん、楽しい《ひととき》をありがとう。
日本一時帰国の滞在も、残すところ4日となった。
気がつけば日本を離れる日も近い。
18日の早朝には、名古屋を発っている。
最後の日曜日に「Ito-san歓送ガムランライブの夜」を開催することになった。
5月24日の歓迎会は、再会を楽しんで盛り上がるうちに過ぎ、バリの話があまりできなかった。
バリの話をもっと聞きたいという声があり、急遽、歓送イベントの開催が決定した。
今回も水野さんが中心になって動いてくれた。
私は、ガムラングループ「スアラスクマ」と舞踊家「大西由希子」を紹介したかった。
豊田地方に、バリ芸能を広めたいという考えもある。
《スケジュール》
◎一部:トークライブ「伊藤さんを囲んでバリ島を語ろう」
芸能の解説、その背景にある出来事、 24年間のバリ島暮らしで経験した あれとかこれ。
ガイド本には掲載されないディープな バリ島、その文化の魅力をUBUDの 案内人・伊藤さんが語り尽くします。
衣装替えをライブで、そして踊るかも?
◎二部:「バリ芸能を堪能してもらおう」
■出演:演奏・スアラスクマ
舞踊・大西由希子
□「スアラスクマ」
迫り来る躍動感、空気をも変えんばかりの音のうねり。
多くの人々を魅了する、インドネシア・バリ島の民俗音楽<ガムラン> 。
2001年、名古屋で松井氏を中心に結成された実力派ガムラングループ。
時に静かに解きに激しく「スアラスクマ/魂の音」の名のとおり魂に響く音色をお届けします。
http://www.geocities.jp/suara_sukma/
□「大西由希子」
バリ舞踊家。
古典舞踊を女性舞踊から男性舞踊まで踊り分ける一方で、創作や即興、他ジャンルの表現者とのコラボレーション、演劇の舞台への参加なども意欲的に行う。
1993年バリ舞踊に出会い、以後舞踊を学ぶためにバリ島通いを始める。
1996年〜1999年インドネシア国立芸術大学デンパサール校に留学。
舞踊の研鑽を積む一方で「タルナ・ジャヤ(女性による男性振りの舞踊)」の踊り手として寺院での奉納舞踊も数多く行い、バリ島各地のガムラングループと共演する。
2000年より日本での活動を開始。
これまで全国各地の劇場、寺院、ライブハウスなど様々な場所で公演活動を行うほか、ワークショップ、劇団等への指導・振り付け、各種学校での講義などにも取り組んでいる。
バリ舞踊の根っこにつながる新しい表現を志している。
http://www.cilidewi.com/index.html
■会場:豊田市にある料理屋「如庵」のカラオケホール。
(〒471-0034 愛知県豊田市小坂本町1丁目4−14 )
テーブルが片付けられた広さ8坪ほどのカラオケホールの床に、ガムランとメンバー6人がスタンバイしている。
壁際の備え付けベンチと用意されたいくつかスツールには、開演を待つ本日のお客様達がいる。
「スラマット・ダタン!」
「本日は、忙しい中、ようこそお越し下さいました」で始まった。
一部は、私のおしゃべりを中心にして進めることになっている。
見渡すと、腰掛けているお客様のほとんどが友人だった。
それもバリに何度も通っているバリ通たちだ。
バリに詳しいツワモノたちに、私の浅い知識を披露しても意味がないように思えた。
彼らの知らないディープなバリはないものか・・・考えながら話を始める。
スラマット・ダタンはインドネシア語です。
スラマットは感謝、ダタンは来るという意で「いらっしゃったことに感謝します」と訳す。
日本語の「歓迎」、英語の「WELCOME」と同じですね。
朝の挨拶「スラマット・パギ」は「朝の感謝」、夜の挨拶「スラマット・マラム」は「夜に感謝」するという意味になる。
ほかにもスラマットがつく言葉はたくさんある。
私は、このありがたさを感じて謝意を現す「スラマット」というインドネシア語が好きだ。
バリ人同士は、通常バリ語で会話をしている。
出会った挨拶に「オム・スアスティ・アストゥ=幸運を」、お別れのには「オム・サンティ・サンティ・サンティ・オム=平穏を」とバリ語を使う。
インドの影響が強く残るバリには、サンティ(寂静)以外にも、サクティ(宇宙的根源力)、バクティ(信愛)など、サンスクリット語の多くがバリ語に含まれている。
挨拶に「マトゥール・スクスモ=ありがとうございます」を使うこともある。
バリ語で、挨拶すると喜ばれるので使ってみよう。
今日の私の衣装を説明しょう。
古くバリ人の普段着は、男女とも腰巻き一枚に上半身裸だったようです。
現在は、上着を着るようになっている。
このはちまきはウダンと言う。
腰巻きの上にもう一枚サプットと呼ばれる布を巻き、これを正装とする。
結婚儀礼・火葬儀礼・寺院祭礼など各種儀礼や行事に参加する時の男性の衣装です。
伝統衣装とも呼ばれている。
バリでは、腰布はカマンと言う。
カマンはバリ語で布のこと、インドネシア語ではカインです。
サロンと言う人もいますが、サロンは筒状になった腰布のことで、主にイスラム教徒が着用する腰布を指す。
バリ人は、アニミズムと仏教とヒンドゥー教が混在した「よろずの神」を信仰している。
絵画、彫刻、音楽、舞踊など、バリの芸能は、神々への奉納であった。
政治と宗教儀礼が密接に関係していたバリ王国時代、芸能が王様の威厳を庶民に普及させる手段として使われた。
王政を美化した物語が、寺院祭礼の奉納で演じられた。
舞踊劇(アルジョ)、仮面劇(トペン)、影絵芝居(ワヤン・クリッ)がそうだ。
こんな話をしながら1時間が経過した。
続いて踊りの衣装に着替えるところをライブで見てもらいます。
仮面舞踊の衣装です。
仮面は、インドネシア語でタップールと言う。
寺院祭礼などの儀礼に使われるタップールは、トペンと呼ばれる。
トペンをつけて踊られる舞踊をタリ・トペン(トペン舞踊)と呼ぶ。
バリの舞踊は、寺院で神々に奉納するもの。
寺院内には、控え室がないので、衆目の中で着替えることになる。
踊り手は、バリ島内では芸能人。
村人の興味津々の眼が突き刺さる。
女性の踊り子さんも同様。
若い女性の踊り子さんは、穴のあくほど見つめられることになる。
着替えが終わると、ガムランの演奏をお願いした。
15年ぶりに踊る。
道化の仮面「トペン・ゴンブラン」をつけて、踊る。
1分ほど踊っただけで息が切れている。
続いて「トペン・ムニエール」。
すっかり振り付けを忘れているので、即興で踊ることになる。
ガムランともまったく合っていない。
今の私に合わせる技量も意識もない。
二部は、客席に廻り鑑賞。
会場を提供してくれた「料理屋・如庵」女将の友人が大勢押し掛けてくれた。
女将は、私の元妻だということを、ここで発表しておきます。
皆さん、楽しい《ひととき》をありがとう。
2014年06月25日
日本一時帰国総括・食事編(15)総括
食べることにこだわらない私は、食い道楽じゃない。
もちろんグルメじゃない。
どちらかといえば、味音痴である。
ほとんどの物は美味しく食べられるが、それが、どう旨いのかまでは、まったくわからない。
私には、自分の口に合うところの、好きか嫌いかしか判断できない。
凝ったものよりあっさりした料理が好みだし、野菜や果物も苦みが残った自然のままの方が好きだ。
高級料理を食べ慣れていなせいか、庶民的料理の方が自分に合っているようである。
日本に着いて、すぐ聞かれたのは「何が食べたい?」だった。
24年間の海外生活で、日本食に飢えていると思われるのかもしれない。
ウブドでだって日本食は食べられる。
日本料理店・影武者には、毎晩のように通っている。
寿司、天ぷら、しゃぶしゃぶ、すき焼き、ステーキ、焼き肉、何でもリクエストできそうだが、むしょうに食べたいものではない。
私には、これと言って食べたい物がないのだ。
食に対して、感動が薄い。
「奢りがいがない」と、よく友人に言われる。
今回の旅でも、食べた物は、ほとんど庶民的な料理ばかりだ。
例えば「吉野家」の牛丼。
そして「ココ一番」のカレー。
覚王山「英國屋」と岐阜県恵那市の山村にある友人の店「がらん」でもカレーを食べた。
「がらん」は、イヅツヤ珈琲の経営でコーヒーもお薦め。
回転寿司と焼き肉屋には、2度行った。
焼きそばは、栗原さんがやっている仲田の「栗八」が最高だ。
鉄板皿で出て来るナポリタンは「ハッピーエンド」で食べた。
《ハッピーエンドのナポリタン》と《ゴヤのカルボナーラ》
コンビニ弁当の種類の豊富さにビックリ。
「スターバックス」はインターネットをしに、ほとんど毎日通った。
「コメダ珈琲」が新展開している「甘味喫茶おかげ庵」で、みたらし団子&大福&ぜんざい。
「ブラン・バリ=Bulan Bali」でナシ・チャンプールを満喫。
《吉野家の牛丼@豊田市》
「食べたい物は」と聞かれて、まず頭に浮かぶのが「吉野家の牛丼」。
通の間では「吉牛」と呼ぶようだ。
豊田市にある「吉野家」に飛び込んだ。
残念! 味が薄かった。
思い出す牛丼は、肉とご飯によ〜く沁み込んだ汁の味。
何日間も煮込まれ続けていると言われている、濃いめの汁だ。
思い出の牛丼を求めて「松屋」と「すき家」にも入った。
軍配は松屋に上がった。
あくまでも、味音痴な私の好き嫌いの判定ですが。
《餃子の王将@名古屋今池》
ここの庶民的な餃子&炒飯も昔ながらの味で、満足した。
《寿がきやラーメン@豊田市GAYA》
これが名古屋名物「SUGAKIYA」のラーメンだ!
隣の「近畿ツーリスト」でパンフレットをもらって。
30年ぶりに懐かしい味に対面。
友人の宮地君がCMに出演していた。
《コメダ珈琲@豊田市挙母店》
コメダ珈琲には、毎日通った。
「スカイホール豊田」の正面にある。
噂のシロノワール、食べてきました。
ドーナッツ型のふわふわクロワッサンの上に、ソフトクリームが。
他店より異常に大きいと言われるソフトクリーム。
大は、一人では食べきれない。
そして、名古屋名物小倉トースト。
アンコが甘〜い!
モーニングセットもお得です。
愛息の店です。
せいぜいご利用ください。
ウブドに戻ると「日本で美味しい物、食べてきましたか?」と、みんなに聞かれる。
「むむ・・」と口ごもってしまう、私の日本滞在中のメニューでした。
もちろんグルメじゃない。
どちらかといえば、味音痴である。
ほとんどの物は美味しく食べられるが、それが、どう旨いのかまでは、まったくわからない。
私には、自分の口に合うところの、好きか嫌いかしか判断できない。
凝ったものよりあっさりした料理が好みだし、野菜や果物も苦みが残った自然のままの方が好きだ。
高級料理を食べ慣れていなせいか、庶民的料理の方が自分に合っているようである。
日本に着いて、すぐ聞かれたのは「何が食べたい?」だった。
24年間の海外生活で、日本食に飢えていると思われるのかもしれない。
ウブドでだって日本食は食べられる。
日本料理店・影武者には、毎晩のように通っている。
寿司、天ぷら、しゃぶしゃぶ、すき焼き、ステーキ、焼き肉、何でもリクエストできそうだが、むしょうに食べたいものではない。
私には、これと言って食べたい物がないのだ。
食に対して、感動が薄い。
「奢りがいがない」と、よく友人に言われる。
今回の旅でも、食べた物は、ほとんど庶民的な料理ばかりだ。
例えば「吉野家」の牛丼。
そして「ココ一番」のカレー。
覚王山「英國屋」と岐阜県恵那市の山村にある友人の店「がらん」でもカレーを食べた。
「がらん」は、イヅツヤ珈琲の経営でコーヒーもお薦め。
回転寿司と焼き肉屋には、2度行った。
焼きそばは、栗原さんがやっている仲田の「栗八」が最高だ。
鉄板皿で出て来るナポリタンは「ハッピーエンド」で食べた。
《ハッピーエンドのナポリタン》と《ゴヤのカルボナーラ》
コンビニ弁当の種類の豊富さにビックリ。
「スターバックス」はインターネットをしに、ほとんど毎日通った。
「コメダ珈琲」が新展開している「甘味喫茶おかげ庵」で、みたらし団子&大福&ぜんざい。
「ブラン・バリ=Bulan Bali」でナシ・チャンプールを満喫。
《吉野家の牛丼@豊田市》
「食べたい物は」と聞かれて、まず頭に浮かぶのが「吉野家の牛丼」。
通の間では「吉牛」と呼ぶようだ。
豊田市にある「吉野家」に飛び込んだ。
残念! 味が薄かった。
思い出す牛丼は、肉とご飯によ〜く沁み込んだ汁の味。
何日間も煮込まれ続けていると言われている、濃いめの汁だ。
思い出の牛丼を求めて「松屋」と「すき家」にも入った。
軍配は松屋に上がった。
あくまでも、味音痴な私の好き嫌いの判定ですが。
《餃子の王将@名古屋今池》
ここの庶民的な餃子&炒飯も昔ながらの味で、満足した。
《寿がきやラーメン@豊田市GAYA》
これが名古屋名物「SUGAKIYA」のラーメンだ!
隣の「近畿ツーリスト」でパンフレットをもらって。
30年ぶりに懐かしい味に対面。
友人の宮地君がCMに出演していた。
《コメダ珈琲@豊田市挙母店》
コメダ珈琲には、毎日通った。
「スカイホール豊田」の正面にある。
噂のシロノワール、食べてきました。
ドーナッツ型のふわふわクロワッサンの上に、ソフトクリームが。
他店より異常に大きいと言われるソフトクリーム。
大は、一人では食べきれない。
そして、名古屋名物小倉トースト。
アンコが甘〜い!
モーニングセットもお得です。
愛息の店です。
せいぜいご利用ください。
ウブドに戻ると「日本で美味しい物、食べてきましたか?」と、みんなに聞かれる。
「むむ・・」と口ごもってしまう、私の日本滞在中のメニューでした。
2014年06月23日
日本一時帰国総括・文化的衝撃編(14)
25年ぶりの日本・名古屋。
浦島太郎状態で、カルチャーショックを受けるだろうと思っていたが、以外とアッサリしたものだ。
ハイブリッド車には感心したが、発展は考えられる範囲であった。
慌てはしたが、驚くほどではなかった。
もう少し戸惑うと思っていたが、自分でも拍子抜けしている。
メイン道路の幅が広がり、区画整理がいたるところで行われていた。
むしろ、自然が少なくなっていることに悲しんでいる。
公衆電話は面倒そうなので、携帯電話を用意してもらった。
日本では、携帯電話を持っていないと連絡は困難だ。
近頃のウブドも、携帯電話は必需品となってきている。
スマポも普及している。
電話ボックスのグレーの電話機が珍しくてパチリ。
《manacoカード》
市営地下鉄&名鉄電車に使えるプリペードカード。
最初の一歩は、先客のカード使いを観察してから乗った。
その後、何度も乗車したがスムーズな行動がとれた。
「財布から出さなくてもいいんだよ」と教えられたのは、もうカードを使わなくなってからだった。
《地下鉄で見た優先席のシール》
通常は「お子様連れ・妊婦さん・老人・ケガ人」の4種だ。
この日見た優先席のシールには、もうひとつ加えられていた。
始めて見た、オレンジ色の「おゆずりください」の右端にあるイラスト。
いったい何者。
まさか「恋の病の人に席をお譲りください」ではないでしょう。
ペースメーカー使用の心臓病患者だろうか。
右下に「身体内部に障がいを持つ人」と表示されていた。
調べてみました・・・・
これは「ハート・プラス」マーク。
身体内部を意味する「ハート」マークに思いやりの心を「プラス」。
すべての人が「思いやりの心を増やす」マークが、「ハート・プラス」マークです。
身体内部に障がいをお持ちの方は、生まれつきの人もいれば、後天的に障がいを持った人もいます。
外から見るだけでは元気なのか、病気を持っているのかわかりにくいことがある。
・・・・・とあった。
そんなことから席を空けているようだ。
日本人は、こんな掲示がなければ弱者やハンディチャップの人に席を譲れないのかな。
「指定された場所だけでいいのだ」という考え方になりはしないか。
これでは、自分で考えるということをしなくなってしまうのでは。
《痴漢に注意!(地下鉄吊りポスター)》
ここまで親切丁寧に説明しないといけないのか。
過保護の子供のようだね。
《女性専用乗車口》
これは「差別」と言わないのか?
「お子様連れ・妊婦さん・老人・ケガ人・身体内部に障がいを持つ人」の優先乗車口はないのか。
《ナナちゃん人形@メルサ前》
ナナちゃんが着ている服は、名鉄百貨店の昔々の包装紙。
今年は60周年記念ということで、懐かしい路線図柄の洋服を着ていた。
スカートの下から覗いている写真を撮るのを忘れた。
《@豊田献血センター》
窓口に顔を出す。
悲しいかな、64才以上(私は66 才)の老人は献血できなかった。
今回の滞在中に2度ほど献血するつもりだったのに残念だ。
この事実が一番ショックだったかな。
老人だと認識させられる出来事でした。
と言うことで、期待された方には申し訳ないが、今回の日本一時帰国ではカルチャーショックはありませんでした。
浦島太郎状態で、カルチャーショックを受けるだろうと思っていたが、以外とアッサリしたものだ。
ハイブリッド車には感心したが、発展は考えられる範囲であった。
慌てはしたが、驚くほどではなかった。
もう少し戸惑うと思っていたが、自分でも拍子抜けしている。
メイン道路の幅が広がり、区画整理がいたるところで行われていた。
むしろ、自然が少なくなっていることに悲しんでいる。
公衆電話は面倒そうなので、携帯電話を用意してもらった。
日本では、携帯電話を持っていないと連絡は困難だ。
近頃のウブドも、携帯電話は必需品となってきている。
スマポも普及している。
電話ボックスのグレーの電話機が珍しくてパチリ。
《manacoカード》
市営地下鉄&名鉄電車に使えるプリペードカード。
最初の一歩は、先客のカード使いを観察してから乗った。
その後、何度も乗車したがスムーズな行動がとれた。
「財布から出さなくてもいいんだよ」と教えられたのは、もうカードを使わなくなってからだった。
《地下鉄で見た優先席のシール》
通常は「お子様連れ・妊婦さん・老人・ケガ人」の4種だ。
この日見た優先席のシールには、もうひとつ加えられていた。
始めて見た、オレンジ色の「おゆずりください」の右端にあるイラスト。
いったい何者。
まさか「恋の病の人に席をお譲りください」ではないでしょう。
ペースメーカー使用の心臓病患者だろうか。
右下に「身体内部に障がいを持つ人」と表示されていた。
調べてみました・・・・
これは「ハート・プラス」マーク。
身体内部を意味する「ハート」マークに思いやりの心を「プラス」。
すべての人が「思いやりの心を増やす」マークが、「ハート・プラス」マークです。
身体内部に障がいをお持ちの方は、生まれつきの人もいれば、後天的に障がいを持った人もいます。
外から見るだけでは元気なのか、病気を持っているのかわかりにくいことがある。
・・・・・とあった。
そんなことから席を空けているようだ。
日本人は、こんな掲示がなければ弱者やハンディチャップの人に席を譲れないのかな。
「指定された場所だけでいいのだ」という考え方になりはしないか。
これでは、自分で考えるということをしなくなってしまうのでは。
《痴漢に注意!(地下鉄吊りポスター)》
ここまで親切丁寧に説明しないといけないのか。
過保護の子供のようだね。
《女性専用乗車口》
これは「差別」と言わないのか?
「お子様連れ・妊婦さん・老人・ケガ人・身体内部に障がいを持つ人」の優先乗車口はないのか。
《ナナちゃん人形@メルサ前》
ナナちゃんが着ている服は、名鉄百貨店の昔々の包装紙。
今年は60周年記念ということで、懐かしい路線図柄の洋服を着ていた。
スカートの下から覗いている写真を撮るのを忘れた。
《@豊田献血センター》
窓口に顔を出す。
悲しいかな、64才以上(私は66 才)の老人は献血できなかった。
今回の滞在中に2度ほど献血するつもりだったのに残念だ。
この事実が一番ショックだったかな。
老人だと認識させられる出来事でした。
と言うことで、期待された方には申し訳ないが、今回の日本一時帰国ではカルチャーショックはありませんでした。
2014年06月20日
行ってきました西大須へ(13)
6月12日(木)
友人との待ち合わせには、もうしばらく時間がある。
私は地下鉄を途中下車して、懐かしい土地に向かった。
名古屋市中区西大須だ。
西大須には、名古屋で有名な大須観音がある。
「大須ういろ」「寿がきや」の発祥地でもある。
私は、ここで20代の後半を過ごした。
思い出深い街だ。
きっかけは、ちょっとしたことだった。
「西大須商店街」のイベントが、大学教授を中心にして催されようとしていた。
衰退気味の商店街を活性化しようという企画のようだ。
私は冷やかし半分で、数人の仲間を連れてイベント事務所を覗いた。
企画はズサンなものだった。
意見を述べているうちに、いつの間にか主催者側の人間となって動いていた。
ライブコンサート、フリーマーケット、大須大道芸人祭りetc。
「大須大道芸人祭り」は、今も続いているようだ。
西大須ビルの持ち主で、ロウソクの芯を作っている会社の社長が「イベント成功の功労に地階を自由に使ってくれ」と提案してきた。
この頃、私の周りには時間を持て余した若者がたくさんいた。
私は喜んで使わせてもらうことにした。
西大須ビルは、昭和初期のアンティックな建物。
地階は、戦後40年以上も使われていない廃墟だった。
30センチも積もった残骸と泥を搔き出していくと、小口タイルの腰壁と床が姿を現してきた。
戦前は、カフェとして営業していたのだろう。
さっそく、仲間たちとで手作り。
タイムスリップしたような穴蔵の店は「コマンド」と名付けられた。
当初は、クリエイティブな連中を集めたバーだった。
ある時、ロック・グループの出演するハウスが欲しいと言う要望が聴こえた。
どうせ好意で借りている小屋のこと、有効利用したほうがいいだろうと、まったく経験のないライブ・ハウスを営業することになった。
こうして「ライブハウス・コマンド」が誕生した。
音楽以外には、前衛舞踏グループの公演もあった。
「西大須商店街」のイベントでは、鐘楼の上でMCをした。
準備に追われたまま、ビリビリに破れたジーパンで立った。
なぜか「山本寛斎さんが来ておられます」と紹介させられたな。
大須観音の前に立つと、マンションの壁面に描かれた大きなイラストが目に入った。
矢印の先には、大須仁王門通りのアーケードが。
仁王門通りアーケード入口にある派出所には、ライブの住民苦情に温情を加えてもらうために、よく鶏の唐揚げを差し入れした。
ヤクザの組事務所が数件ある地域でもあるので、付け届けしていたのだと思う。
コマンドの並びにも侠客の事務所があった。
大親分だということで、この並びは安全だったと言える。
時々、ヤクザっぽい兄さんが階段を下りて来るが、雰囲気が違うと察すると帰っていく。
そんな作りの店だった。
「七ツ寺共同スタジオ」が無くなると聞いた。
この小屋で、劇作家・北村想も活躍していた。
「ライブハウス・コマンド」閉店のあとは、友人の茂ちゃんが跡を継ぎ「E.L.L」を開店した。
「E.L.L」も、今は移転している。
西大須ビルは、アンティックな造形を残して、オシャレにリニューアルされていた。
友人との待ち合わせには、もうしばらく時間がある。
私は地下鉄を途中下車して、懐かしい土地に向かった。
名古屋市中区西大須だ。
西大須には、名古屋で有名な大須観音がある。
「大須ういろ」「寿がきや」の発祥地でもある。
私は、ここで20代の後半を過ごした。
思い出深い街だ。
きっかけは、ちょっとしたことだった。
「西大須商店街」のイベントが、大学教授を中心にして催されようとしていた。
衰退気味の商店街を活性化しようという企画のようだ。
私は冷やかし半分で、数人の仲間を連れてイベント事務所を覗いた。
企画はズサンなものだった。
意見を述べているうちに、いつの間にか主催者側の人間となって動いていた。
ライブコンサート、フリーマーケット、大須大道芸人祭りetc。
「大須大道芸人祭り」は、今も続いているようだ。
西大須ビルの持ち主で、ロウソクの芯を作っている会社の社長が「イベント成功の功労に地階を自由に使ってくれ」と提案してきた。
この頃、私の周りには時間を持て余した若者がたくさんいた。
私は喜んで使わせてもらうことにした。
西大須ビルは、昭和初期のアンティックな建物。
地階は、戦後40年以上も使われていない廃墟だった。
30センチも積もった残骸と泥を搔き出していくと、小口タイルの腰壁と床が姿を現してきた。
戦前は、カフェとして営業していたのだろう。
さっそく、仲間たちとで手作り。
タイムスリップしたような穴蔵の店は「コマンド」と名付けられた。
当初は、クリエイティブな連中を集めたバーだった。
ある時、ロック・グループの出演するハウスが欲しいと言う要望が聴こえた。
どうせ好意で借りている小屋のこと、有効利用したほうがいいだろうと、まったく経験のないライブ・ハウスを営業することになった。
こうして「ライブハウス・コマンド」が誕生した。
音楽以外には、前衛舞踏グループの公演もあった。
「西大須商店街」のイベントでは、鐘楼の上でMCをした。
準備に追われたまま、ビリビリに破れたジーパンで立った。
なぜか「山本寛斎さんが来ておられます」と紹介させられたな。
大須観音の前に立つと、マンションの壁面に描かれた大きなイラストが目に入った。
矢印の先には、大須仁王門通りのアーケードが。
仁王門通りアーケード入口にある派出所には、ライブの住民苦情に温情を加えてもらうために、よく鶏の唐揚げを差し入れした。
ヤクザの組事務所が数件ある地域でもあるので、付け届けしていたのだと思う。
コマンドの並びにも侠客の事務所があった。
大親分だということで、この並びは安全だったと言える。
時々、ヤクザっぽい兄さんが階段を下りて来るが、雰囲気が違うと察すると帰っていく。
そんな作りの店だった。
「七ツ寺共同スタジオ」が無くなると聞いた。
この小屋で、劇作家・北村想も活躍していた。
「ライブハウス・コマンド」閉店のあとは、友人の茂ちゃんが跡を継ぎ「E.L.L」を開店した。
「E.L.L」も、今は移転している。
西大須ビルは、アンティックな造形を残して、オシャレにリニューアルされていた。
2014年06月17日
懐かしい店ミッケ!「只今、営業中」(12)
豊田の街を歩いていて、見〜つけた。
昔々、私がデザインした店。
「ゴヤ(Cafe de GOYA)」です。
■場所:愛知県豊田市西町1-145 ザ・ウェストワンビル/名鉄豊田市駅東口ー豊田参合館北
■TEL:0565-34-4568
まだ営業してたんですね。
まったく改装されていない。
嬉しいデス!
平成元年のオープンだから、26年になるのかな。
しっかり老舗になっている。
「お母さんに連れて行ってもらったことがある」と息子の嫁。
「よく通ってますよ」と友人の声。
「スパゲティが美味しい店ですよね」と豊田市に出張で来る知人。
こんな声をあとで聴いた。
すっかり人気店になって生き残っていた。
西町商店街「都市計画」のお手伝いしていたことを思い出した。
実は私、名古屋で20年ほど店舗デザイナーしてたんですよ。
本郷の「西海岸」、藤が丘の「サンライズ」、長久手の「西安」、鶴舞の「This is it」は、なくなっていた。
残念ながら、他の店も見に行く時間はなかった。
20年間で100軒ほどの店舗を手がけたが、現在、何軒残っているだろう。
バリ島ウブドでも数件の店をデザインした。
コンセプトは、ウブドらしさだった。
「居酒屋・旧影武者」「ブティック・ブラン・マドゥー」「ブティック・プスピタ」「和食処・旧漁師」etc。
すべて移転して、今はデザインが変わっている。
ウブドに、私の足跡はなくなった。
チョッピリ寂しい思いもするが、店舗のデザインに興味がなくなっているのでOKだ。
年老いたからかな。
それとも、自分の能力が減退しているのに気付いたのかな。
ウブドが都会化に完全侵蝕されることなく、ウブドらしい癒しの町として変貌して欲しい。
力不足でお手伝いできない、私からのお願いです。
「ゴヤ」を見つけて、ウブドの都市化を思い出してしまったito-sanでした。
昔々、私がデザインした店。
「ゴヤ(Cafe de GOYA)」です。
■場所:愛知県豊田市西町1-145 ザ・ウェストワンビル/名鉄豊田市駅東口ー豊田参合館北
■TEL:0565-34-4568
まだ営業してたんですね。
まったく改装されていない。
嬉しいデス!
平成元年のオープンだから、26年になるのかな。
しっかり老舗になっている。
「お母さんに連れて行ってもらったことがある」と息子の嫁。
「よく通ってますよ」と友人の声。
「スパゲティが美味しい店ですよね」と豊田市に出張で来る知人。
こんな声をあとで聴いた。
すっかり人気店になって生き残っていた。
西町商店街「都市計画」のお手伝いしていたことを思い出した。
実は私、名古屋で20年ほど店舗デザイナーしてたんですよ。
本郷の「西海岸」、藤が丘の「サンライズ」、長久手の「西安」、鶴舞の「This is it」は、なくなっていた。
残念ながら、他の店も見に行く時間はなかった。
20年間で100軒ほどの店舗を手がけたが、現在、何軒残っているだろう。
バリ島ウブドでも数件の店をデザインした。
コンセプトは、ウブドらしさだった。
「居酒屋・旧影武者」「ブティック・ブラン・マドゥー」「ブティック・プスピタ」「和食処・旧漁師」etc。
すべて移転して、今はデザインが変わっている。
ウブドに、私の足跡はなくなった。
チョッピリ寂しい思いもするが、店舗のデザインに興味がなくなっているのでOKだ。
年老いたからかな。
それとも、自分の能力が減退しているのに気付いたのかな。
ウブドが都会化に完全侵蝕されることなく、ウブドらしい癒しの町として変貌して欲しい。
力不足でお手伝いできない、私からのお願いです。
「ゴヤ」を見つけて、ウブドの都市化を思い出してしまったito-sanでした。
2014年06月16日
伊藤家の墓参りに行ってきました(11)
今回の日本一時帰国の目的は、息子夫妻と孫に会うこと。
両親のお墓参りをすることの2つだった。
どちらも家族の協力で、滞りなく果たすことができた。
そして、水野君の計らいで友人・知人たちと再会することも可能になった。
孫との触れ合いができたし、息子ともたくさん対話をした。
孫は、ピカピカの小学一年生。
運動会を参観できたのはラッキーだったな。
高木さんから招待をいただいて、親子三代で名古屋ドームへ野球観戦に行くことができた。
私も息子も孫も、名古屋ドームに入るのは初めて。
孫は野球を見るのも初めてだ。
良い思い出となった興奮の3時間。
私も息子もドラゴンズ・ファン。
きっと孫も、この日の楽しい経験からドラゴンズ・ファンになることだろう。
息子家族と、蛍を見に岡崎の山中をドライブもした。
寒い寒いと言いながら、五平餅を頬ばっていた家族が微笑ましかった。
6月14日(土)
日本は梅雨に入っているが、今週は晴天が続いている。
この日も青天に恵まれた。
長兄、長姉、次姉に連れられて、伊藤家のお墓参りが実現できた。
お墓の草取りをする指先に、親密な力が入る。
一本一本の雑草に、両親の魂が宿っているように感じた。
伊藤家の墓標には、親父とお袋の戒名が刻まれている。
手を合わせ、長い間のご無沙汰を親父とお袋に詫びた。
お袋は、今の私と同じ年(66才)で亡くなっていた。
「健康に過ごしているから安心するように」と告げた。
葬式に参列できなかった、享年70才の次男兄貴の墓参りもすませることができた。
不義理が果たせて肩の荷が下りた。
兄弟姉妹の会話の折々に家族思いが垣間見られ、伊藤家の家族でよかったと今更のように思う。
長兄は、私の一回り年上だったから78才のはずだ。
とんでもなく迷惑をかけたが、兄貴には一度も叱られたことがなかった。
心の中でおさめてくれたんだな。
「ありがとうよ、兄貴」
兄貴と一緒に店舗デザインの仕事をするのが、私の高校生時代からの夢だった。
人生がやり直せるものなら、夢を果たしたい。
長姉は76才で、次姉は70才だったかな。
どちらにも可愛がってもらった。
やっぱり「ありがとう」だ。
三男の兄貴には会えなかったが、高齢になった兄弟姉妹がみんな元気でいてくれることを願うだけだ。
大勢の仲間にも会えた。
はるばる九州から来てくれたナオキ君、東京からはチャコさん&アユちゃん、彩子さん&沙織さん、大阪からは恭子ちゃん&玲子さん。
そして長久手、岡崎、刈谷、岐阜、大垣、四日市など名古屋近郊の都市から訪ねて来てくれた友人たち。
みんな「ありがとう」。
多くの人々に支えられて生きてきたかを実感する一時帰国の旅だった。
お会いしたすべての人に、心から感謝している。
素直にお礼が言えただろうか?
こんな無骨な私ですが、今しばらくお付き合いしてください。
両親のお墓参りをすることの2つだった。
どちらも家族の協力で、滞りなく果たすことができた。
そして、水野君の計らいで友人・知人たちと再会することも可能になった。
孫との触れ合いができたし、息子ともたくさん対話をした。
孫は、ピカピカの小学一年生。
運動会を参観できたのはラッキーだったな。
高木さんから招待をいただいて、親子三代で名古屋ドームへ野球観戦に行くことができた。
私も息子も孫も、名古屋ドームに入るのは初めて。
孫は野球を見るのも初めてだ。
良い思い出となった興奮の3時間。
私も息子もドラゴンズ・ファン。
きっと孫も、この日の楽しい経験からドラゴンズ・ファンになることだろう。
息子家族と、蛍を見に岡崎の山中をドライブもした。
寒い寒いと言いながら、五平餅を頬ばっていた家族が微笑ましかった。
6月14日(土)
日本は梅雨に入っているが、今週は晴天が続いている。
この日も青天に恵まれた。
長兄、長姉、次姉に連れられて、伊藤家のお墓参りが実現できた。
お墓の草取りをする指先に、親密な力が入る。
一本一本の雑草に、両親の魂が宿っているように感じた。
伊藤家の墓標には、親父とお袋の戒名が刻まれている。
手を合わせ、長い間のご無沙汰を親父とお袋に詫びた。
お袋は、今の私と同じ年(66才)で亡くなっていた。
「健康に過ごしているから安心するように」と告げた。
葬式に参列できなかった、享年70才の次男兄貴の墓参りもすませることができた。
不義理が果たせて肩の荷が下りた。
兄弟姉妹の会話の折々に家族思いが垣間見られ、伊藤家の家族でよかったと今更のように思う。
長兄は、私の一回り年上だったから78才のはずだ。
とんでもなく迷惑をかけたが、兄貴には一度も叱られたことがなかった。
心の中でおさめてくれたんだな。
「ありがとうよ、兄貴」
兄貴と一緒に店舗デザインの仕事をするのが、私の高校生時代からの夢だった。
人生がやり直せるものなら、夢を果たしたい。
長姉は76才で、次姉は70才だったかな。
どちらにも可愛がってもらった。
やっぱり「ありがとう」だ。
三男の兄貴には会えなかったが、高齢になった兄弟姉妹がみんな元気でいてくれることを願うだけだ。
大勢の仲間にも会えた。
はるばる九州から来てくれたナオキ君、東京からはチャコさん&アユちゃん、彩子さん&沙織さん、大阪からは恭子ちゃん&玲子さん。
そして長久手、岡崎、刈谷、岐阜、大垣、四日市など名古屋近郊の都市から訪ねて来てくれた友人たち。
みんな「ありがとう」。
多くの人々に支えられて生きてきたかを実感する一時帰国の旅だった。
お会いしたすべての人に、心から感謝している。
素直にお礼が言えただろうか?
こんな無骨な私ですが、今しばらくお付き合いしてください。
2014年06月13日
原発はいらない・No Nukes!(10)
様々な問題を抱える日本。
それは日本という国が出来て以来、ズ〜っと続いている事実だろう。
地球上の国は、どこも問題は抱えている。
問題は、問題が国民に不安を与える場合だ。
時代の背景とととも、事実が善となったり悪になったりすることもある。
それぞれ、その時、その時期、その時代にそって、ひとつひとつの解決策を考えるしかない。
一時帰国して日本のテレビ放送を見る機会ができた。
テレビでは、毎日一度はどこかの局で、福島の放射能問題を取り上げているようだ。
解決が長引いている放射能問題。
放射能の問題は、国民に大きな不安を与える問題だ。
もう少し危機感を持って生活しているかと思っていたが、故郷名古屋市では、表面的にはまったく感じることができなかった。
すでに過去となってしまっているのか。
忘れたわけではないが、感心が薄くなっているのか。
心の中では危機感を持っていても、日々それを表に出して生活するわけにはいかないのだろう。
現実は、日々の生活に追われている。
私が接した人々は、話題を避ける方向にあった。
意見はあるが、どうしていいのか行動が伴わない人も多いだろう。
何かできることはないか? と考えるがアイデアが浮かばない。
行動してくれている人々には、感謝し応援している。
他人事にしてはいけない。
できることなら、できる範囲で参加したい。
私もそのひとりだ。
ひとり一人の動きは異なるが、思いは同じと信じている。
今、私が言えることは、ただ一つ。
それは「原発はいらない」ということ。
これは地球規模での問題として深刻化している。
科学を過信していないか。
私が知る少ない情報の中からの発言です。
だったら、どうすればいいのだと問われても、私に対策はない。
「闇雲に反対するなよ」と言われそうだが、否なものは否だ。
私には今、それしかできない。
それで良いと思っている。
一時帰国中に「No Nukes!」関係のイベントがあれば参加しようと思っていた。
5月25日(日)に「原発0を永遠に! NAGOYA ACTION」のデモが名古屋久屋大通公園スタートで行われたが、「帰国歓迎会」が24日に決まっていたため、諦めざるをえなかった。
http://blog.livedoor.jp/genpatuiranganena/
6月1日(日)は「日本をとりもどす マツリゴトday」。
http://www.matsurigoto-day.net/
決めるのは私たち!〜原発・平和・くらし すべてのいのちと未来のために〜
会場は、名古屋伏見にある白川公園。
柚木ミサトが出店していると聞いていたので、覗いて見ることにした。
この日は天候がよく、暑いくらいだった。
ステージ上で催されているライブが盛り上がっている。
時々、砂塵が舞う中で、観衆は熱心に耳を傾けていた。
フライヤーにマツリゴトdayの説明がある。
それには「今の日本の政治について疑問を投げかけ、社会の一員として市民ひとりひとりが、今後の日本のあり方について考え政治参加することを目的とした野外イベントです」とあった。
16時30分:パレードが始まった。
若者やヤングファミリーが多い。
割れるような大きな声がスピーカーから流れてきた。
右翼の街宣車だ。
パレードの妨害だろう。
警察官が出動していた。
パレードは整然と進んで行く。
緊張したのは私だけだったようだ。
不安のない生活ができるために、頑張ってくれている。
地道な行動だが、活動をしているボランティアの人々には頭が下がる。
「私にできることはないか」と考えさせられる「日本をとりもどす マツリゴトday」のイベントでした。
それは日本という国が出来て以来、ズ〜っと続いている事実だろう。
地球上の国は、どこも問題は抱えている。
問題は、問題が国民に不安を与える場合だ。
時代の背景とととも、事実が善となったり悪になったりすることもある。
それぞれ、その時、その時期、その時代にそって、ひとつひとつの解決策を考えるしかない。
一時帰国して日本のテレビ放送を見る機会ができた。
テレビでは、毎日一度はどこかの局で、福島の放射能問題を取り上げているようだ。
解決が長引いている放射能問題。
放射能の問題は、国民に大きな不安を与える問題だ。
もう少し危機感を持って生活しているかと思っていたが、故郷名古屋市では、表面的にはまったく感じることができなかった。
すでに過去となってしまっているのか。
忘れたわけではないが、感心が薄くなっているのか。
心の中では危機感を持っていても、日々それを表に出して生活するわけにはいかないのだろう。
現実は、日々の生活に追われている。
私が接した人々は、話題を避ける方向にあった。
意見はあるが、どうしていいのか行動が伴わない人も多いだろう。
何かできることはないか? と考えるがアイデアが浮かばない。
行動してくれている人々には、感謝し応援している。
他人事にしてはいけない。
できることなら、できる範囲で参加したい。
私もそのひとりだ。
ひとり一人の動きは異なるが、思いは同じと信じている。
今、私が言えることは、ただ一つ。
それは「原発はいらない」ということ。
これは地球規模での問題として深刻化している。
科学を過信していないか。
私が知る少ない情報の中からの発言です。
だったら、どうすればいいのだと問われても、私に対策はない。
「闇雲に反対するなよ」と言われそうだが、否なものは否だ。
私には今、それしかできない。
それで良いと思っている。
一時帰国中に「No Nukes!」関係のイベントがあれば参加しようと思っていた。
5月25日(日)に「原発0を永遠に! NAGOYA ACTION」のデモが名古屋久屋大通公園スタートで行われたが、「帰国歓迎会」が24日に決まっていたため、諦めざるをえなかった。
http://blog.livedoor.jp/genpatuiranganena/
6月1日(日)は「日本をとりもどす マツリゴトday」。
http://www.matsurigoto-day.net/
決めるのは私たち!〜原発・平和・くらし すべてのいのちと未来のために〜
会場は、名古屋伏見にある白川公園。
柚木ミサトが出店していると聞いていたので、覗いて見ることにした。
この日は天候がよく、暑いくらいだった。
ステージ上で催されているライブが盛り上がっている。
時々、砂塵が舞う中で、観衆は熱心に耳を傾けていた。
フライヤーにマツリゴトdayの説明がある。
それには「今の日本の政治について疑問を投げかけ、社会の一員として市民ひとりひとりが、今後の日本のあり方について考え政治参加することを目的とした野外イベントです」とあった。
16時30分:パレードが始まった。
若者やヤングファミリーが多い。
割れるような大きな声がスピーカーから流れてきた。
右翼の街宣車だ。
パレードの妨害だろう。
警察官が出動していた。
パレードは整然と進んで行く。
緊張したのは私だけだったようだ。
不安のない生活ができるために、頑張ってくれている。
地道な行動だが、活動をしているボランティアの人々には頭が下がる。
「私にできることはないか」と考えさせられる「日本をとりもどす マツリゴトday」のイベントでした。
2014年06月11日
伊藤さん帰国歓迎会(9)
「Welcome Back! Ito-San!!」
水野(真人)君の声かけで、旧知の友人との再会の機会を作ってもらった。
多田(雅美)ちゃんの影の手助けも大きい。
会場探しは、(柚木)ミサトさんにお願いしたようだ。
決まった場所は、名古屋市円頓寺商店街にあるスペイン食堂「バル・ドゥフィ=BAR DUFI」。
円頓寺商店街は、名古屋駅と名古屋城、どちらも歩いて30分で行ける中間地点にある。
名古屋城に物資を船で運んだと言われる「堀川」。
その堀川沿いに残る土蔵作りの家並みと古い下町民家がある町。
商店街の西入り口十字路には、名古屋三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)と水戸黄門の像が四つ角に立っていた。
5月24日午後6時。
日本での友人、バリ島繋がりの仲間たちが集まってくる。
懐かしい顔ばかりだ。
2度とないと思われる、今日の組み合わせ。
「本日は、忙しい中、私のために集まっていただきありがとうございます」
私の挨拶のあとは、みんな、思い思いに友達を見つけて話に盛り上がっている。
社会人に生り立ての頃(23才)、リサイクル&アメリカン衣料&手作りアクセサリーを扱う「人畜無害」を開店した。
その時に知り合った「参百六拾六日の店」の宮地(佑紀生)君は、一度、ウブドを訪ね来てくれている。
40年ほど前に、西大須の「町人祭り」を立ち上げた時の仲間だった店舗設計の黒野(茂)さん。
彼も、ウブドを訪ね来てくれた。
会えばいつも「伊藤さんは、責任感の薄い人だ思う」と言われる。
「はい、私も自覚しています」
クリエイティブ・ハウス「コマンド」がライブハウスに変わる時、大工仕事を手伝ってくれた鬼頭(則夫)さん。
鬼頭さんは3年前を最後にウブドを訪れていないが、それまでは5年ほど毎年正月に訪ねてくれていた。
はるばる九州から駆けつけてくれたナオキ(米倉尚希)も「コマンド」時代からの仲間で、私の渡バリの際に世話になった。
日本を離れる間際に「This is it」で催された斉藤哲生ライブで知り合った伊藤ちづるちゃんは、ウブドに滞在初めたばかりの私を4人の女友人と訪れている。
ウブドのイラストマップを最初に描いてくれたのが彼女だ。
その後はリピーターとして、イラストレーター仲間と幾度もウブドを訪問している。
高藤(有示・暁子)夫妻、藤原(まゆみ)さん、名和(ミハル)さん、馬(馬谷純一)さんがその仲間たちだ。
イラストレーター仲間だけに留まらず、「スナック・スリー」のオーナー吉次(勉)さん、社長専用車ドライバーのひろ(藤井洋)さんなどもリピーターに取り込んでいった。
ウブドで知り合って意気投合した数々の友人たち。
テガランタン村とプンゴセカンに長期滞在していた加藤(繁幸)ちゃん。
加藤ちゃんには、私と共通するバリ人の友人がたくさんいる。
ウブドに戻ったら、何人かに加藤ちゃんの近況報告をしなくてはならない。
日本食料理店「影武者」でお会いした、松井久美子さんに須原彩利さんも駆けつけてくれた。
久美子さんは、パチュン君(私が滞在するテガランタン村の大家さん)の古くからの知り合いだ。
彩利さんにも、私と共通する知人がたくさんいた。
鈴(友美子)は、影武者の女将・由美さんの古くからの知り合いで、渡インドネシア歴も長い。
インドネシアのバティック(更紗)を扱うビジネスをしながら、バリ舞踊を習得するために何度もバリを訪れている。
バリガムラン・グンデル奏者の松井克弘君は、グループ「スアラ・スクマ」のリーダー。
6月15日には、豊田市で《 Ito-san歓迎ガムランライブ 》に出演してもらう予定だ。
「スアラ・スクマ」メンバーのみんみんさんとは、初対面でした。
若手美人友達の(諏訪村)彩子さんと(三浦)沙織さんは、東京から会いに来てくれた。
昨年末にウブドで知り合い、急接近した高木(茂雄・千秋)夫妻には、受付を手伝ってもらった。
ポリスのジャケットを着たバリ人似のオジさんが高木茂雄さんです。
高木千秋さんのお母様(増田洋子)も出席してくれた。
彼ら親子は今、ウブド近隣のスカワティ村に住宅を所有し滞在している。
そして、私の家族たち。
息子の深田(洋祐・友美奈)夫妻と孫の曽良(そら)君。
洋祐は、18才の初訪問から何度もウブドを訪れている。
今夜来てくれた長谷川(宣之)君と一緒の時もあった。
お母さんの深田圭子さんと友人の篠澤佐代子さんの顔も見える。
集まってくれたほとんどがウブドを訪ねて来てくれた人々だ。
それぞれの思いを抱いて、会いに来てくれた友人たち。
自分の知らない事実が知らされたり、思い出させてくれたり。
昔話に花が咲く。
一瞬のうちに、気心知れた知人に気をつかうこともない、昔に戻る。
話していくうちに、どこかで繋がっているのに驚く仲間たち。
優しい仲間たちに囲まれて幸せ者の伊藤です。
みんな、いい奴だ。
また会う日まで、会える時まで、健康でいてくれよ。
ありがとう。
水野(真人)君の声かけで、旧知の友人との再会の機会を作ってもらった。
多田(雅美)ちゃんの影の手助けも大きい。
会場探しは、(柚木)ミサトさんにお願いしたようだ。
決まった場所は、名古屋市円頓寺商店街にあるスペイン食堂「バル・ドゥフィ=BAR DUFI」。
円頓寺商店街は、名古屋駅と名古屋城、どちらも歩いて30分で行ける中間地点にある。
名古屋城に物資を船で運んだと言われる「堀川」。
その堀川沿いに残る土蔵作りの家並みと古い下町民家がある町。
商店街の西入り口十字路には、名古屋三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)と水戸黄門の像が四つ角に立っていた。
5月24日午後6時。
日本での友人、バリ島繋がりの仲間たちが集まってくる。
懐かしい顔ばかりだ。
2度とないと思われる、今日の組み合わせ。
「本日は、忙しい中、私のために集まっていただきありがとうございます」
私の挨拶のあとは、みんな、思い思いに友達を見つけて話に盛り上がっている。
社会人に生り立ての頃(23才)、リサイクル&アメリカン衣料&手作りアクセサリーを扱う「人畜無害」を開店した。
その時に知り合った「参百六拾六日の店」の宮地(佑紀生)君は、一度、ウブドを訪ね来てくれている。
40年ほど前に、西大須の「町人祭り」を立ち上げた時の仲間だった店舗設計の黒野(茂)さん。
彼も、ウブドを訪ね来てくれた。
会えばいつも「伊藤さんは、責任感の薄い人だ思う」と言われる。
「はい、私も自覚しています」
クリエイティブ・ハウス「コマンド」がライブハウスに変わる時、大工仕事を手伝ってくれた鬼頭(則夫)さん。
鬼頭さんは3年前を最後にウブドを訪れていないが、それまでは5年ほど毎年正月に訪ねてくれていた。
はるばる九州から駆けつけてくれたナオキ(米倉尚希)も「コマンド」時代からの仲間で、私の渡バリの際に世話になった。
日本を離れる間際に「This is it」で催された斉藤哲生ライブで知り合った伊藤ちづるちゃんは、ウブドに滞在初めたばかりの私を4人の女友人と訪れている。
ウブドのイラストマップを最初に描いてくれたのが彼女だ。
その後はリピーターとして、イラストレーター仲間と幾度もウブドを訪問している。
高藤(有示・暁子)夫妻、藤原(まゆみ)さん、名和(ミハル)さん、馬(馬谷純一)さんがその仲間たちだ。
イラストレーター仲間だけに留まらず、「スナック・スリー」のオーナー吉次(勉)さん、社長専用車ドライバーのひろ(藤井洋)さんなどもリピーターに取り込んでいった。
ウブドで知り合って意気投合した数々の友人たち。
テガランタン村とプンゴセカンに長期滞在していた加藤(繁幸)ちゃん。
加藤ちゃんには、私と共通するバリ人の友人がたくさんいる。
ウブドに戻ったら、何人かに加藤ちゃんの近況報告をしなくてはならない。
日本食料理店「影武者」でお会いした、松井久美子さんに須原彩利さんも駆けつけてくれた。
久美子さんは、パチュン君(私が滞在するテガランタン村の大家さん)の古くからの知り合いだ。
彩利さんにも、私と共通する知人がたくさんいた。
鈴(友美子)は、影武者の女将・由美さんの古くからの知り合いで、渡インドネシア歴も長い。
インドネシアのバティック(更紗)を扱うビジネスをしながら、バリ舞踊を習得するために何度もバリを訪れている。
バリガムラン・グンデル奏者の松井克弘君は、グループ「スアラ・スクマ」のリーダー。
6月15日には、豊田市で《 Ito-san歓迎ガムランライブ 》に出演してもらう予定だ。
「スアラ・スクマ」メンバーのみんみんさんとは、初対面でした。
若手美人友達の(諏訪村)彩子さんと(三浦)沙織さんは、東京から会いに来てくれた。
昨年末にウブドで知り合い、急接近した高木(茂雄・千秋)夫妻には、受付を手伝ってもらった。
ポリスのジャケットを着たバリ人似のオジさんが高木茂雄さんです。
高木千秋さんのお母様(増田洋子)も出席してくれた。
彼ら親子は今、ウブド近隣のスカワティ村に住宅を所有し滞在している。
そして、私の家族たち。
息子の深田(洋祐・友美奈)夫妻と孫の曽良(そら)君。
洋祐は、18才の初訪問から何度もウブドを訪れている。
今夜来てくれた長谷川(宣之)君と一緒の時もあった。
お母さんの深田圭子さんと友人の篠澤佐代子さんの顔も見える。
集まってくれたほとんどがウブドを訪ねて来てくれた人々だ。
それぞれの思いを抱いて、会いに来てくれた友人たち。
自分の知らない事実が知らされたり、思い出させてくれたり。
昔話に花が咲く。
一瞬のうちに、気心知れた知人に気をつかうこともない、昔に戻る。
話していくうちに、どこかで繋がっているのに驚く仲間たち。
優しい仲間たちに囲まれて幸せ者の伊藤です。
みんな、いい奴だ。
また会う日まで、会える時まで、健康でいてくれよ。
ありがとう。
2014年06月04日
スローライフは忙しい@小原村(8)
「橋の下世界音楽祭」で、竹ちゃんと再会を果たした。
竹ちゃんは、10年ほど前から豊田市の北部にある小原村で暮らしていた。
小原村は、和紙の里として国内で名が知れている。
「スローライフは忙しい」と、竹ちゃんは言う。
日々、草取りや竹の間引きなどで忙しいようだ。
今回の一時帰国は、息子夫妻と孫に会う目的以外に、もうひとつの理由がある。
それは、将来的に日本復帰ができるかの下調べである。
問題点は、金銭面と環境面だ。
金銭面については、この年齢では就職が難しいだろう。
国民の義務を怠ったので、当然、年金の支給は無い。
この問題は追々に考えるとして、まずは生活環境だ。
日本の生活に適応できるかを確かめることだ。
田舎暮らしも(寒くなければ)憧れる。
再会をした日に、小原村の竹ちゃん家を訪れる約束した。
小原村に向けて出発したのは、5月21日。
車は、鬼頭さんが出してくれた。
鬼頭さんは、以前、センチメンタル・シティ・ロマンスのスタッフ。
現在は「鬼頭印刷」の社長。
私にパソコンを寄付してくれている、大変世話になっている友人だ。
毎年、年始に2泊3日で、私を訪ねてウブドに来てくれる。
今回の小原行きメンバーは、鬼頭さんと水野君と高木さんと私の男組4名。
国道419を岐阜方面に向けて北上する。
岡崎と豊田を結ぶ国道248は、豊田中心部から419号線と名称が変わる。
通過地点の猿投地区と藤岡地区は新興住宅地に変貌していた。
山あいの道をさらに進むと小原地区に入る。
小原地区は岐阜県との県境。
車がメイン道路を避け左折した。
なだらかな坂道を登ると、点在する家々が山裾に見え隠れする。
小山を切り開いた山道は、左に右に幾度もカーブする。
目的地に近づくにつれ、緑の深い景色になっていく。
鬼頭さんは、古民家の前で車を止めた。
崖の上から「いらっしゃい!」と竹ちゃんの声が聞こえた。
ここは、豊田の中心部から車で45分ほどの乙ヶ林(おかばやし)町。
竹ちゃんは、古民家を修復して生活していた。
この地区は過疎の村。
畑付きの一軒家が、ベラボーに安い価格で借りられる。
竹ちゃんは、この村の若者が帰ってきて生計が立てられることのお手伝いしようとしているようにお見受けした。
そして、田舎住まいに憧れて住み着く「 I ターン」の人々にアドバイス。
そんな活躍の中に、里山アートプロジェクトによる「ヤィヤァー祭」や「里行くあんどん」軽トラギャラリーパレード、フリーペーパー「おばらのじかん」などがある。
私は思う、企業誘致は自然環境が破壊されるから控えよう。
無策な人口増加もいただけない。
人口の流入も少なく収益が望めるのは、観光地としての発展だろう。
私が滞在している、世界的観光地・バリ島ウブド村と似ているところがある。
ついついバリ島ウブド村と比較してしまう私です。
小原は、和紙工芸作家、漆工芸作家、陶芸作家、家具職人などが住む芸術の村として有名なところだ。
和紙展示館、和紙工芸館、作家の工房なども見学できる。
他にも神社に奉納する地芝居の小原歌舞伎や数々の神社仏閣、春は桜、秋は紅葉の名所としてうたわれている。
空気の奇麗な環境。
しかし、これだけでは若者は戻ってこないだろう。
若者が訪れたくなる村。
そうすれば小原っ子もUターンし、商売を請け負うこともできる。
若者のニーズは何か?
カーニバルやライブミュージックのイベントは、竹ちゃんに任せるとして。
癒しに、四季折々の草花や鳥のさえずり、蛍の乱舞、夜空の星、満月は利用できないか。
グルメに、小原特有のものを開発できないか。
この村特有の素材で、ファッション雑貨・小物はできないか。
冬は寒いが、その寒さを逆手にとったビジネスは考えられないか。
年間を通じて観光客が訪れる村。
いったいそれはなんだろう。
それが問題だ。
ウブドで感じることは「村人との触れ合い」だ。
リピーターが多いのは、宗教、文化、習慣を身近で触れられるからだ。
個人的な話では、私にはウブドでバナナの幹から紙を作っていた時期があった。
流木、小枝、竹ヒゴを使いランプを作って販売した店が「ブンブン・カフェ」だ。
昔取った杵柄を使えば、金銭的な点も補えるかもしれない(かなり楽観的ですが)。
環境的には(寒いことを除けば)好きなタイプの田舎だ。
竹ちゃんからの豊富な情報で、田舎暮らしの可能性が出て来た。
こうして小原地区は、私の終の住まいの一つに選ばれることになった。
大収穫。
竹ちゃん、ありがとうございました。
竹ちゃんは、10年ほど前から豊田市の北部にある小原村で暮らしていた。
小原村は、和紙の里として国内で名が知れている。
「スローライフは忙しい」と、竹ちゃんは言う。
日々、草取りや竹の間引きなどで忙しいようだ。
今回の一時帰国は、息子夫妻と孫に会う目的以外に、もうひとつの理由がある。
それは、将来的に日本復帰ができるかの下調べである。
問題点は、金銭面と環境面だ。
金銭面については、この年齢では就職が難しいだろう。
国民の義務を怠ったので、当然、年金の支給は無い。
この問題は追々に考えるとして、まずは生活環境だ。
日本の生活に適応できるかを確かめることだ。
田舎暮らしも(寒くなければ)憧れる。
再会をした日に、小原村の竹ちゃん家を訪れる約束した。
小原村に向けて出発したのは、5月21日。
車は、鬼頭さんが出してくれた。
鬼頭さんは、以前、センチメンタル・シティ・ロマンスのスタッフ。
現在は「鬼頭印刷」の社長。
私にパソコンを寄付してくれている、大変世話になっている友人だ。
毎年、年始に2泊3日で、私を訪ねてウブドに来てくれる。
今回の小原行きメンバーは、鬼頭さんと水野君と高木さんと私の男組4名。
国道419を岐阜方面に向けて北上する。
岡崎と豊田を結ぶ国道248は、豊田中心部から419号線と名称が変わる。
通過地点の猿投地区と藤岡地区は新興住宅地に変貌していた。
山あいの道をさらに進むと小原地区に入る。
小原地区は岐阜県との県境。
車がメイン道路を避け左折した。
なだらかな坂道を登ると、点在する家々が山裾に見え隠れする。
小山を切り開いた山道は、左に右に幾度もカーブする。
目的地に近づくにつれ、緑の深い景色になっていく。
鬼頭さんは、古民家の前で車を止めた。
崖の上から「いらっしゃい!」と竹ちゃんの声が聞こえた。
ここは、豊田の中心部から車で45分ほどの乙ヶ林(おかばやし)町。
竹ちゃんは、古民家を修復して生活していた。
この地区は過疎の村。
畑付きの一軒家が、ベラボーに安い価格で借りられる。
竹ちゃんは、この村の若者が帰ってきて生計が立てられることのお手伝いしようとしているようにお見受けした。
そして、田舎住まいに憧れて住み着く「 I ターン」の人々にアドバイス。
そんな活躍の中に、里山アートプロジェクトによる「ヤィヤァー祭」や「里行くあんどん」軽トラギャラリーパレード、フリーペーパー「おばらのじかん」などがある。
私は思う、企業誘致は自然環境が破壊されるから控えよう。
無策な人口増加もいただけない。
人口の流入も少なく収益が望めるのは、観光地としての発展だろう。
私が滞在している、世界的観光地・バリ島ウブド村と似ているところがある。
ついついバリ島ウブド村と比較してしまう私です。
小原は、和紙工芸作家、漆工芸作家、陶芸作家、家具職人などが住む芸術の村として有名なところだ。
和紙展示館、和紙工芸館、作家の工房なども見学できる。
他にも神社に奉納する地芝居の小原歌舞伎や数々の神社仏閣、春は桜、秋は紅葉の名所としてうたわれている。
空気の奇麗な環境。
しかし、これだけでは若者は戻ってこないだろう。
若者が訪れたくなる村。
そうすれば小原っ子もUターンし、商売を請け負うこともできる。
若者のニーズは何か?
カーニバルやライブミュージックのイベントは、竹ちゃんに任せるとして。
癒しに、四季折々の草花や鳥のさえずり、蛍の乱舞、夜空の星、満月は利用できないか。
グルメに、小原特有のものを開発できないか。
この村特有の素材で、ファッション雑貨・小物はできないか。
冬は寒いが、その寒さを逆手にとったビジネスは考えられないか。
年間を通じて観光客が訪れる村。
いったいそれはなんだろう。
それが問題だ。
ウブドで感じることは「村人との触れ合い」だ。
リピーターが多いのは、宗教、文化、習慣を身近で触れられるからだ。
個人的な話では、私にはウブドでバナナの幹から紙を作っていた時期があった。
流木、小枝、竹ヒゴを使いランプを作って販売した店が「ブンブン・カフェ」だ。
昔取った杵柄を使えば、金銭的な点も補えるかもしれない(かなり楽観的ですが)。
環境的には(寒いことを除けば)好きなタイプの田舎だ。
竹ちゃんからの豊富な情報で、田舎暮らしの可能性が出て来た。
こうして小原地区は、私の終の住まいの一つに選ばれることになった。
大収穫。
竹ちゃん、ありがとうございました。