日本での生活は過酷だ。
2ヶ月間の滞在で、42歳まで過ごした日本の厳しかった現実を思い起こされる。
自分が不適応だった過去がフラッシュバックする。
この歳になって路頭に迷うとは。
お金が無くては、日本では生きて行けない。
若い頃には、お金を掴む方法は無限にあった。
老いてしまうと、アイデアも貧弱になり、就職も難しくなる。
ウブド滞在中は、まったく考えもしなかったことだ。
気楽な旅人と、生活者とは、大きな違いがあることはわかっている。
収入が少なくても、ウブドの生活で、大きく困ったことはなかった。
それなりに楽しく暮らすこともできた。
日本との格差は、あまりにも大きい。
しかし、何とも比較しなければ、それは “無” 。
そう考えれば、なんとかなるもんだ。
ウブドを離れたことが失敗だったか、と考えがよぎる。
戻れないわけではないので、ウブドに関しては保留とすることにしよう。
今回は、南米コロンビア滞在を目標に旅立つ。
コロンビアで、なんとか生活の基盤を作らなくては。
やるしかないって感じ。
明日31日、コロンビアに向けて出発します。
惨めで、悲惨で、寂しい旅になるかもしれない。
「なんで、こんなことしてんだろう」と思うかもしれない。
そんなことも、自分の考え方しだいでどうにでもなるもんだ。
コロンビア・サレントで、生きる手立ては見つかるか。
「とにかく、行って来ます!」
2015年03月31日
2015年03月29日
聖なる鉄琴スロンディンの民族誌(21)
久々にバリ関係の本が出版される。
バリ東部・カランガッサム県のトゥンガナン(Tenganan) 村の話だ。
先住民族=バリ・アガ (Bali Aga)の住む村と呼ばれ、経緯絣織物・グリンシンや水草(アタ)で編んだカゴと「ガムラン・スロンディン」で有名な村。
著者である友人から、出版前に本が届いた。
「聖なる鉄琴スロンディンの民族誌」
バリ島トゥガナン・プグリンシンガン村の生活、信仰、音楽
著者:野澤暁子
発行所:春風社
2015年3月29日初版発行
以下は、内容の概要
第一部 大きな森の小さな要塞
バリ島トゥガナン・プグリンシンガン村
第二部 スロンディン
聖なる鉄の響き
六章 スロンディンの由来と分布
七章 トゥガナン・プグリンシンガン村のスロンディン
第三部 儀礼世界のスロンディン
一月儀礼と五月儀礼
伝統的信仰と慣習、神聖なる鉄琴楽器「ガムラン・スロンディン」の研究書。
興味深い研究課題だ。
トゥガナン村には、プグリンシンガン部落とパンデ部落が存在するのを始めて知った。
村の北側にある丘陵地が広がる水田地帯は、トゥガナン・プグリンシンガン部落が所有していて、プグリンシンガン部落は他村からの小作を従える地主の村だということ。
安定的な経済基盤を持っている村だった。
知っているつもりが、まったく知らなかった、ということを痛感する。
バリ独特の暦である、ウク暦・サコ歴のほかに、この村ではプグリンシンガン暦が使われているという。
そして、集会場の五段の階段は影時計だった(上の写真)。
正午過ぎから太陽が西に傾くまで、屋根の影を時の目安としたのだそうだ。
「そうなんだ」の発見です。
それから「ガムラン・スロンディン」の話。
ちょっと待った。
これ以上、内容を説明してはいけないな。
これまでなかった研究書だが、私のような一般人にも読みやすい。
バリ島伝統村の不思議が解き明かされる。
とにかく、ディープなバリに興味がある方には、お薦めの一冊です。
《バリ関係・推薦本》学術書に追加しました。
◇
※「アパ?情報センター」からツアーのお知らせ
■トゥガナン・プグリンシンガン村ウサバ・サンバ(USABA SAMBAH)儀礼
◆日程:2015年6月8日・9日(例年、5月か6月に行われる儀礼)
◆出発:10.00am
◆料金:US$25/1名様
◆連絡先:08510-8001110 & 081-2395-7134
◆Mail:apainfo@indo.net.id & wayan_apa@yahoo.co.jp
バリ東部・カランガッサム県のトゥンガナン(Tenganan) 村の話だ。
先住民族=バリ・アガ (Bali Aga)の住む村と呼ばれ、経緯絣織物・グリンシンや水草(アタ)で編んだカゴと「ガムラン・スロンディン」で有名な村。
著者である友人から、出版前に本が届いた。
「聖なる鉄琴スロンディンの民族誌」
バリ島トゥガナン・プグリンシンガン村の生活、信仰、音楽
著者:野澤暁子
発行所:春風社
2015年3月29日初版発行
以下は、内容の概要
第一部 大きな森の小さな要塞
バリ島トゥガナン・プグリンシンガン村
第二部 スロンディン
聖なる鉄の響き
六章 スロンディンの由来と分布
七章 トゥガナン・プグリンシンガン村のスロンディン
第三部 儀礼世界のスロンディン
一月儀礼と五月儀礼
伝統的信仰と慣習、神聖なる鉄琴楽器「ガムラン・スロンディン」の研究書。
興味深い研究課題だ。
トゥガナン村には、プグリンシンガン部落とパンデ部落が存在するのを始めて知った。
村の北側にある丘陵地が広がる水田地帯は、トゥガナン・プグリンシンガン部落が所有していて、プグリンシンガン部落は他村からの小作を従える地主の村だということ。
安定的な経済基盤を持っている村だった。
知っているつもりが、まったく知らなかった、ということを痛感する。
バリ独特の暦である、ウク暦・サコ歴のほかに、この村ではプグリンシンガン暦が使われているという。
そして、集会場の五段の階段は影時計だった(上の写真)。
正午過ぎから太陽が西に傾くまで、屋根の影を時の目安としたのだそうだ。
「そうなんだ」の発見です。
それから「ガムラン・スロンディン」の話。
ちょっと待った。
これ以上、内容を説明してはいけないな。
これまでなかった研究書だが、私のような一般人にも読みやすい。
バリ島伝統村の不思議が解き明かされる。
とにかく、ディープなバリに興味がある方には、お薦めの一冊です。
《バリ関係・推薦本》学術書に追加しました。
◇
※「アパ?情報センター」からツアーのお知らせ
■トゥガナン・プグリンシンガン村ウサバ・サンバ(USABA SAMBAH)儀礼
◆日程:2015年6月8日・9日(例年、5月か6月に行われる儀礼)
◆出発:10.00am
◆料金:US$25/1名様
◆連絡先:08510-8001110 & 081-2395-7134
◆Mail:apainfo@indo.net.id & wayan_apa@yahoo.co.jp
2015年03月27日
バリ島シンドロームの幻聴か?(20)
豊田市市役所前の交差点。
どこからか、懐かしい鳴き声が聞こえてくる。
振り返ると信号機があった。
まさか、信号機の中で鳴いているのでは。
ちょっと声が高いけど。
信号機の中だと、こんな声になるのでは。
「トッケー!」と、聴こえるのは私だけか。
ご存知とは思いますが「トッケー」と鳴くのは、インドネシア全域に棲息する「トッケイ・ヤモリ」。
バリでは、一家に一匹。
詳しくは、極楽通信「トッケイの鳴き声(Tokek)」をお読みください。
どこからか、懐かしい鳴き声が聞こえてくる。
振り返ると信号機があった。
まさか、信号機の中で鳴いているのでは。
ちょっと声が高いけど。
信号機の中だと、こんな声になるのでは。
「トッケー!」と、聴こえるのは私だけか。
ご存知とは思いますが「トッケー」と鳴くのは、インドネシア全域に棲息する「トッケイ・ヤモリ」。
バリでは、一家に一匹。
詳しくは、極楽通信「トッケイの鳴き声(Tokek)」をお読みください。
2015年03月26日
田舎住まいの友人に会いに(19)
3月22日:
40年来の友人に会いに、愛知県渥美半島の先にある美浜町に向かう。
Maboが高校生で、私が25歳の頃に知り合っている。
私が23歳で始めた雑貨とリサイクルの店「人畜無害」に、よく顔を出していた。
以前は常滑に住んでいて、バリ島に渡る前に一度、息子と訪ねている。
それより以前には、豊田郊外の小原村で古民家に住み、木工の仕事をしていた。
この頃は頻繁に会っていて、一緒に仕事もしたこともある。
最後の仕事は、1989年のギャラリー喫茶「This is it」だった。
10年前ウブドで会ったのが、最後になっていた。
県道を走っていると、田んぼの向こうにMaboの家はあった。
詳しいことは知らないが、今は、パーカッショニストとして活躍しているようだ。
大工のできるミュージシャンは、訪ねた家も改装・増築していた。
増築されていたのは、録音スタジオと練習スタジオ。
器用なMaboは、中古バイクを修理して走れるようにしていた。
話が弾んで写真を撮るのを忘れている。
思い出が多くて、何から書いてよいのか困惑してしまう。
文章にまとめられない。
今回は取りあえず再会したことを、この場を借りて報告をしておくだけにしよう。
(写真提供:水野真人)
40年来の友人に会いに、愛知県渥美半島の先にある美浜町に向かう。
Maboが高校生で、私が25歳の頃に知り合っている。
私が23歳で始めた雑貨とリサイクルの店「人畜無害」に、よく顔を出していた。
以前は常滑に住んでいて、バリ島に渡る前に一度、息子と訪ねている。
それより以前には、豊田郊外の小原村で古民家に住み、木工の仕事をしていた。
この頃は頻繁に会っていて、一緒に仕事もしたこともある。
最後の仕事は、1989年のギャラリー喫茶「This is it」だった。
10年前ウブドで会ったのが、最後になっていた。
県道を走っていると、田んぼの向こうにMaboの家はあった。
詳しいことは知らないが、今は、パーカッショニストとして活躍しているようだ。
大工のできるミュージシャンは、訪ねた家も改装・増築していた。
増築されていたのは、録音スタジオと練習スタジオ。
器用なMaboは、中古バイクを修理して走れるようにしていた。
話が弾んで写真を撮るのを忘れている。
思い出が多くて、何から書いてよいのか困惑してしまう。
文章にまとめられない。
今回は取りあえず再会したことを、この場を借りて報告をしておくだけにしよう。
(写真提供:水野真人)
2015年03月24日
ジャンケン・ポン@寿がきや(18)
ぜんざいが食べたくなったので、豊田市駅前にある「寿がきや」へ急ぐ。
ソフトクリームとのコラボぜんざい “ホットクリぜん” を注文する。
ラッキーにも、期限限定の白玉サービス。
食べ方がポップに提示されていた。
その1)そのまま別々に食べてもおいしい。
その2)ソフトクリームをスプーンにすくって、ぜんざいにつけて食べる。
その3)ソフトクリームをぜんざいにかけて食べる。
「寿がきや」のホームページはこちら=http://www.sugakico.co.jp。
この日(2月28日)は、東京から訪ねて来てくれた、巨匠・純ちゃんと「寿がきや」に。
突然、ジャンケンをする伊藤です。
「最初は、グー」
「ジャンケン・ポン」
「あいこでしょ」
「パー」「ピー」「グー」「ピー」「パー」「ピー」
何も考えずにすると、同じになってしまう。
よほど気の合うのか、中々、勝負がつかず。
私は「パー」と、ひねってみた。
巨匠・純ちゃんは「グー」。
勝負有り。
“ホットクリぜん” を賭けた勝負ではない。
2人老人会は、その1)の食べ方で、美味しくいただいて帰りました。
「坂田 純」のホームページはこちら=http://jun-sakata.jp。
ソフトクリームとのコラボぜんざい “ホットクリぜん” を注文する。
ラッキーにも、期限限定の白玉サービス。
食べ方がポップに提示されていた。
その1)そのまま別々に食べてもおいしい。
その2)ソフトクリームをスプーンにすくって、ぜんざいにつけて食べる。
その3)ソフトクリームをぜんざいにかけて食べる。
「寿がきや」のホームページはこちら=http://www.sugakico.co.jp。
この日(2月28日)は、東京から訪ねて来てくれた、巨匠・純ちゃんと「寿がきや」に。
突然、ジャンケンをする伊藤です。
「最初は、グー」
「ジャンケン・ポン」
「あいこでしょ」
「パー」「ピー」「グー」「ピー」「パー」「ピー」
何も考えずにすると、同じになってしまう。
よほど気の合うのか、中々、勝負がつかず。
私は「パー」と、ひねってみた。
巨匠・純ちゃんは「グー」。
勝負有り。
“ホットクリぜん” を賭けた勝負ではない。
2人老人会は、その1)の食べ方で、美味しくいただいて帰りました。
「坂田 純」のホームページはこちら=http://jun-sakata.jp。
2015年03月23日
生きる勇気を考えてみる(17)
こんなところへ飛び込んでいく勇気は、私にはない。
自殺した人に何があったのか。
そうまでして、死を選んだ理由はなんだったんだろう。
その勇気を、生きる勇気にかえられなかったのか。
黙祷・・・
(2015年03月21日13時59分、名古屋市営地下鉄塩釜口駅で人身事故)
自殺した人に何があったのか。
そうまでして、死を選んだ理由はなんだったんだろう。
その勇気を、生きる勇気にかえられなかったのか。
黙祷・・・
(2015年03月21日13時59分、名古屋市営地下鉄塩釜口駅で人身事故)
2015年03月21日
「WAMO=わも」オープンのお知らせ(16)
ウブドから東南に、バイクで20分ほど走るとスカワティ村がある。
この村に、高木さんの義母が建てた豪邸がある。
年に何度も訪れる、高木さん。
高木さんとは、2013年末にウブドで会ったのが始まりだが、10年来の友人のように付き合わせていただいている。
(実は、それより以前の2012年《第4回・年越し仮装PARTY in UBUD(最終回でした)》に、阿波踊りを披露して帰っていったのが高木さん家族だったことが判明)
バリ島の草野球チームで一緒に汗を流し、同じ名古屋っ子ということもあるのか、不思議と気が合う。
昨年の「名古屋一時帰国」では、多大なサポートをしてくれた。
プロ野球観戦の招待にも感謝している。
そんな高木さんの奥様・千秋さんが、名古屋の千種にお店を開店した。
KOPI & ZAKKA 時々きもの「WAMO」。
万障繰り合わせで駆けつけなくてはいけないだろう。
3月19日がグランドオープン。
水野さんと「WAMO」で午後3時に待ち合わせ。
午後1時50分、豊田市駅から名鉄豊田線に乗り名古屋に向かう。
電車は20分ほど走って、赤池駅で停車。
停車したまましばらく時間が過ぎたところで「人身事故のため、しばらく発車を見合わせます」のアナウンス。
人身事故のアナウンスに、私は強く反応した。
以前(1969年)、トルコ横断中に遭遇した列車事故の映像が浮かんでいた。
フラッシュバックする悲惨な光景は、たびたび私を不快な気分にさせる。
線路の脇に、下半身の切断された男性の姿が。
栄養失調のため、風に押されて落ちしまった、そうだ。
男は、プラットフォームにいる人々に手を差し伸べて助けを求めている。
誰も助けようとしない。
うつろな眼は、私にも救いを求めているようだ。
線路に降りて、男をプラットフォームに上げなくては。
私はうろたえた。
どうしよう。
車掌はどうした。
警察、救急車は来るのか?
私は近くにいる人物に「病院は?」と訊ねた。
「近くに病院はない」の一言。
ここは無人駅。
列車は、男を残したまま発車した。
1時間が経っても発車しない。
反対線路から車両は来ない。
豊田市駅からの車両は、10分間隔に到着する。
私の乗っている車両は、ドンドン乗客が増えていく。
「人身事故」と聞いても、誰も動揺していない。
そして、2時間が過ぎた。
「現場検証のため、しばらく発車を見合わせます」のアナウンス。
乗客は、動揺しないどころか、関心もないようだ。
人身事故は、赤池から四つ先の駅・塩釜口で13時59分に起きていた。
飛び込み自殺だったようだが、テレビのニュースで見ることはなかった。
「日本では、この程度の事故は毎日のようにあるよ」と言われているようだ。
ゴメンゴメン、話が大きくそれてしまった。
「WAMO=わも」オープンのお知らせをしなくては。
■店名:KOPI & ZAKKA 時々きもの「WAMO」。
◆営業時間:9.00am〜8.00pm/年中無休
◆住所:464-0858 名古屋市千種区千種1-3-13
店主・千秋さんから一言:
「コピバリ&バリ島ローカル雑貨、バティック浴衣やシャツetcを揃えてお待ちしております」
「WAMO」には、5時到着となってしまった。
「高木さん・千秋さん、開店おめでとうございます」
「水野さん、多田ちゃん、お待たせ」
まずは、アンカサ・ブレンドを注文。
コピバリは、バリ人に人気の「SETIA BALI」を使用。
パチュン家で、いつも飲ませていただいていたコーヒーだ。
ワルンスタイルのグラスコップで出てくるところが嬉しい。
バリ雑貨に囲まれて飲むコピバリが、美味しい。
ナシゴレンを食べ。
お土産に「SETIA BALI」を購入。
たくさんのお客さんに恵まれるといいね。
頑張って!
この村に、高木さんの義母が建てた豪邸がある。
年に何度も訪れる、高木さん。
高木さんとは、2013年末にウブドで会ったのが始まりだが、10年来の友人のように付き合わせていただいている。
(実は、それより以前の2012年《第4回・年越し仮装PARTY in UBUD(最終回でした)》に、阿波踊りを披露して帰っていったのが高木さん家族だったことが判明)
バリ島の草野球チームで一緒に汗を流し、同じ名古屋っ子ということもあるのか、不思議と気が合う。
昨年の「名古屋一時帰国」では、多大なサポートをしてくれた。
プロ野球観戦の招待にも感謝している。
そんな高木さんの奥様・千秋さんが、名古屋の千種にお店を開店した。
KOPI & ZAKKA 時々きもの「WAMO」。
万障繰り合わせで駆けつけなくてはいけないだろう。
3月19日がグランドオープン。
水野さんと「WAMO」で午後3時に待ち合わせ。
午後1時50分、豊田市駅から名鉄豊田線に乗り名古屋に向かう。
電車は20分ほど走って、赤池駅で停車。
停車したまましばらく時間が過ぎたところで「人身事故のため、しばらく発車を見合わせます」のアナウンス。
人身事故のアナウンスに、私は強く反応した。
以前(1969年)、トルコ横断中に遭遇した列車事故の映像が浮かんでいた。
フラッシュバックする悲惨な光景は、たびたび私を不快な気分にさせる。
線路の脇に、下半身の切断された男性の姿が。
栄養失調のため、風に押されて落ちしまった、そうだ。
男は、プラットフォームにいる人々に手を差し伸べて助けを求めている。
誰も助けようとしない。
うつろな眼は、私にも救いを求めているようだ。
線路に降りて、男をプラットフォームに上げなくては。
私はうろたえた。
どうしよう。
車掌はどうした。
警察、救急車は来るのか?
私は近くにいる人物に「病院は?」と訊ねた。
「近くに病院はない」の一言。
ここは無人駅。
列車は、男を残したまま発車した。
1時間が経っても発車しない。
反対線路から車両は来ない。
豊田市駅からの車両は、10分間隔に到着する。
私の乗っている車両は、ドンドン乗客が増えていく。
「人身事故」と聞いても、誰も動揺していない。
そして、2時間が過ぎた。
「現場検証のため、しばらく発車を見合わせます」のアナウンス。
乗客は、動揺しないどころか、関心もないようだ。
人身事故は、赤池から四つ先の駅・塩釜口で13時59分に起きていた。
飛び込み自殺だったようだが、テレビのニュースで見ることはなかった。
「日本では、この程度の事故は毎日のようにあるよ」と言われているようだ。
ゴメンゴメン、話が大きくそれてしまった。
「WAMO=わも」オープンのお知らせをしなくては。
■店名:KOPI & ZAKKA 時々きもの「WAMO」。
◆営業時間:9.00am〜8.00pm/年中無休
◆住所:464-0858 名古屋市千種区千種1-3-13
店主・千秋さんから一言:
「コピバリ&バリ島ローカル雑貨、バティック浴衣やシャツetcを揃えてお待ちしております」
「WAMO」には、5時到着となってしまった。
「高木さん・千秋さん、開店おめでとうございます」
「水野さん、多田ちゃん、お待たせ」
まずは、アンカサ・ブレンドを注文。
コピバリは、バリ人に人気の「SETIA BALI」を使用。
パチュン家で、いつも飲ませていただいていたコーヒーだ。
ワルンスタイルのグラスコップで出てくるところが嬉しい。
バリ雑貨に囲まれて飲むコピバリが、美味しい。
ナシゴレンを食べ。
お土産に「SETIA BALI」を購入。
たくさんのお客さんに恵まれるといいね。
頑張って!
2015年03月18日
バリ・ガムラン&舞踊ライブ@名古屋(15)
3月14日:
友人が主催するイベントが名古屋であった。
行ってきました。
イベント名は《 虹ノトビラヒラケ 》。
内容は、バリのガムランと舞踊。
京都(3/8)と名古屋で開催されたが、私は名古屋で鑑賞。
ウブド滞在中は、オダラン(寺院祭礼)での芸能以外、はるばる出掛けることはなかった。
日本で、バリ関係のイベントは少ない。
バリ好きには、貴重な鑑賞のチャンスだ。
会場は、御器所にあるレストラン「COTAN」。
地下鉄の改札口を出て、一番出口の階段を2〜3段上ってすぐ右手にあった。
会場では、たくさんの懐かしい知人に会うことができた。
特に驚いたのが、昨年(2014/10/4)アパ?情報センターのムルカット・ツアーに参加した時に同行した3人組の女性に再会したことだ。
その時に書いたブログ「スバトゥ村のムルカット(70)」も読んでください。
日本で鑑賞するバリ・ガムランと舞踊は、これで二度目。
一度目は、昨年(2014年06月30日)25年ぶりに帰国した時に開催した「Ito-san歓送ガムランライブの夜(16)」で。
今回は、その時のメンバーと応援の舞踊家4名が出演した。
ガムランは、松井君をリーダーとするグループ「スアラ・スクマ」。
踊り手は、京都の大西由希子さん。
応援メンバーの一人に田中千晶さんがいる。
彼女が踊る「テレック」が見られるのが楽しみだ。
その他に、芝先けいさん(大阪)・佐味千珠子さん(兵庫)・村上祐子さん(東京)。
以下は、写真でお楽しみください。
演者も観客も、どちらも負けず劣らずのバリ大好き人間達と思われる。
彼らの思い入れが、会場の空気をバリに変えた。
大好きなバリとの関係をこうやって繋げていたんだ。
彼らの情熱に、私は感動してる。
友人が主催するイベントが名古屋であった。
行ってきました。
イベント名は《 虹ノトビラヒラケ 》。
内容は、バリのガムランと舞踊。
京都(3/8)と名古屋で開催されたが、私は名古屋で鑑賞。
ウブド滞在中は、オダラン(寺院祭礼)での芸能以外、はるばる出掛けることはなかった。
日本で、バリ関係のイベントは少ない。
バリ好きには、貴重な鑑賞のチャンスだ。
会場は、御器所にあるレストラン「COTAN」。
地下鉄の改札口を出て、一番出口の階段を2〜3段上ってすぐ右手にあった。
会場では、たくさんの懐かしい知人に会うことができた。
特に驚いたのが、昨年(2014/10/4)アパ?情報センターのムルカット・ツアーに参加した時に同行した3人組の女性に再会したことだ。
その時に書いたブログ「スバトゥ村のムルカット(70)」も読んでください。
日本で鑑賞するバリ・ガムランと舞踊は、これで二度目。
一度目は、昨年(2014年06月30日)25年ぶりに帰国した時に開催した「Ito-san歓送ガムランライブの夜(16)」で。
今回は、その時のメンバーと応援の舞踊家4名が出演した。
ガムランは、松井君をリーダーとするグループ「スアラ・スクマ」。
踊り手は、京都の大西由希子さん。
応援メンバーの一人に田中千晶さんがいる。
彼女が踊る「テレック」が見られるのが楽しみだ。
その他に、芝先けいさん(大阪)・佐味千珠子さん(兵庫)・村上祐子さん(東京)。
以下は、写真でお楽しみください。
演者も観客も、どちらも負けず劣らずのバリ大好き人間達と思われる。
彼らの思い入れが、会場の空気をバリに変えた。
大好きなバリとの関係をこうやって繋げていたんだ。
彼らの情熱に、私は感動してる。
2015年03月16日
ろじうらのカフェ・バンバン堂(14)
3月7日の続きです。
足助の風情ある町並みを散策した。
川沿いに発展した旧街道は緩やかなSの字の弧を描き、山側に抜ける路地はゆるい坂道になっている。
古い町並みと変化のある道は、期待で心をウキウキさせてくれる。
今回の足助訪問には、知人の友人が経営する店に立ち寄り、足助生活の話を訊くという目的もある。
水野君の情報では、店は何を商っているのか不明だった。
店名が「バンバン堂」だということだけが、唯一の情報だ。
なかなか見つけられない。
水野君は、町の人に尋ねた。
見つけられないはずだ。
「バンバン堂」は、袋小路にひっそりと隠れ家のようにあった。
のれんがなければ気がつかないだろう。
よ〜く見れば、小さな看板が置かれていた。
店名は「ろじうらのカフェ・バンバン堂」。
一般住宅家屋を改装して、カフェにしている。
入口に、昔懐かしいダ玩具のコーナーがある。
内装の什器・備品もレトロ。
写真に、水野君が入っちゃった。
ここでブログによく登場する、水野君について少し説明しておこう。
出会いは、彼が20代前半だったと記憶する。
と言うことは、私が30代前半か?
私がお世話になっていた浅野さんの事務所で、Tシャツのイラストを描いていた。
その後、ディスプレイ会社でデザイナーになった。
私の親戚の会社だったこともあり、私の父親に面接を受けたという縁があった。
私が渡バリしてからは、たびたびウブドを訪れてくれていた。
日本帰国の時には、いつも多大なるお世話になっている。
思い出した!
ファンシー雑貨の「風琴(おるがん)屋」で事務所で会ったのが最初だった。
まだらボケで、記憶が巧く繋がらない。
今度じっくり話会いたいと思っている。
「ろじうらカフェ」に話を戻そう。
スタッフは、着物に割烹着姿だった。
経営者の男性には会えなかったが、奥様に挨拶はできた。
今回は、これで良しとしよう。
足助の風情ある町並みを散策した。
川沿いに発展した旧街道は緩やかなSの字の弧を描き、山側に抜ける路地はゆるい坂道になっている。
古い町並みと変化のある道は、期待で心をウキウキさせてくれる。
今回の足助訪問には、知人の友人が経営する店に立ち寄り、足助生活の話を訊くという目的もある。
水野君の情報では、店は何を商っているのか不明だった。
店名が「バンバン堂」だということだけが、唯一の情報だ。
なかなか見つけられない。
水野君は、町の人に尋ねた。
見つけられないはずだ。
「バンバン堂」は、袋小路にひっそりと隠れ家のようにあった。
のれんがなければ気がつかないだろう。
よ〜く見れば、小さな看板が置かれていた。
店名は「ろじうらのカフェ・バンバン堂」。
一般住宅家屋を改装して、カフェにしている。
入口に、昔懐かしいダ玩具のコーナーがある。
内装の什器・備品もレトロ。
写真に、水野君が入っちゃった。
ここでブログによく登場する、水野君について少し説明しておこう。
出会いは、彼が20代前半だったと記憶する。
と言うことは、私が30代前半か?
私がお世話になっていた浅野さんの事務所で、Tシャツのイラストを描いていた。
その後、ディスプレイ会社でデザイナーになった。
私の親戚の会社だったこともあり、私の父親に面接を受けたという縁があった。
私が渡バリしてからは、たびたびウブドを訪れてくれていた。
日本帰国の時には、いつも多大なるお世話になっている。
思い出した!
ファンシー雑貨の「風琴(おるがん)屋」で事務所で会ったのが最初だった。
まだらボケで、記憶が巧く繋がらない。
今度じっくり話会いたいと思っている。
「ろじうらカフェ」に話を戻そう。
スタッフは、着物に割烹着姿だった。
経営者の男性には会えなかったが、奥様に挨拶はできた。
今回は、これで良しとしよう。
2015年03月13日
三州足助・商家の町並み散策(13)
3月7日:
行ってきました、豊田市の観光地に。
豊田市中心部(豊田市駅)から、車で約一時間ほど山間部に向かう。
目的地は、足助地区の中心地・足助。
足助川と巴川が合流する地点。
足助川沿いには商家の町並みが残り、巴川沿いは「香嵐渓」と呼ばれる紅葉の名勝がある。
足助地区は小原地区と同様に私の滞在候補地のひとつに入っていて、その下調べも兼ねている。
車の運転は、水野君。
私のために、忙しい一日をさいてくれている。
駐車場に車を預け、巴川に沿って歩く。
平日の冬だからか、行楽客の姿が見えない。
赤い欄干の橋を渡った先は、飯盛山(254メートル)の裾野。
飯盛山の頂には足助城城跡公園がある、が今日は登らない。
裾に広がる木立は、紅葉の季節には素晴らしい景色が見られるだろうと想像できる。
香嵐渓の中心に建つ三州足助屋敷を見学しよう。
入場料を払って中に入ると、行楽客の姿がチラホラと見えた。
明治時代の豪農屋敷をモデルに新築したといわれる、三州足助屋敷。
屋敷の囲炉裏に迎え入れられ、寒茶と呼ばれる珍しいお茶をいただいた。
「寒茶は、山で採ってきたお茶を大樽で枝ごと蒸し、葉を10日ほど天日干しさせた、足助の一部地域の農家で昭和の初め頃まで作られていた冬に作るお茶です」と、わらじを編んでいた女性が説明してくれた。
冷えた身体に、暖かい寒茶が沁み込んでいく。
ご馳走さまでした。
敷地内には、わら細工、機織り、桶屋、傘屋、紙漉き、紺屋、炭焼き、鍛冶屋、篭屋の作業場が再現されおり見学することができる。
鍛冶屋の若き後継者の心意気に感動し、篭屋の工匠には竹の話をたくさん伺った。
■休館日:毎週木曜日、年末年始(祝日、及びゴールデンウィーク、11月中は開館)
■入館料:大人300円・高校生以下100円
■お問合せ:(0565)62-1188
■Web:http://www.asuke.aitai.ne.jp/~yashiki/
香嵐渓「もみじのトンネル」を戻り、商家の町並みが残る足助川沿いに向かう。
パンフレットから、ちょっと勉強してみた。
伊那街道(明治以降、飯田街道)の中継地として栄えた商家の家並みが残る足助の町。
中馬と呼ばれる人たちが行き来したことから街道は別名「中馬街道」とも呼ばれている。
中馬と書いて「ちゅうま」と呼び、伊那街道で物資の運搬に従事した全ての人々のことを指している。
この中馬のおかげで、街道の中継地点だった足助は、三河湾から塩、信州から山の産物などが集まる交易の町として栄えた。
塩は矢作川を川舟で上り、ここで荷直しされ、ここからは中馬によって運ばれる。
詰め替えられ塩は「足助塩」「足助直し」と呼ばれた。
明治44年(1911)に国鉄中央線が開通すると、物資の輸送基地としての機能は次第に衰退していった。
大名行列の通らない、物資運搬と庶民通行の街道だと思われる。
江戸時代後期の白漆喰と黒の下見板張りの商家と明治・大正・昭和時代の建物が残っている。
人々は日常の暮らしの中、古い景観を残しながら生活している町。
五平餅・モツ煮の看板が目についたのは、私のお腹がすいていたからだろうか。
遅い昼食は、大正時代から営業を続けている飯屋「小松屋本店」で。
のれんが仕舞われた後に、地元のおばさんのうしろについて入店した。
残すところあと一膳だった「モツ丼」が食べられた。
コーヒー・ブレイクは「ろじうらカフェ」。
「ろじうらカフェ」は、このあとで紹介します。
行ってきました、豊田市の観光地に。
豊田市中心部(豊田市駅)から、車で約一時間ほど山間部に向かう。
目的地は、足助地区の中心地・足助。
足助川と巴川が合流する地点。
足助川沿いには商家の町並みが残り、巴川沿いは「香嵐渓」と呼ばれる紅葉の名勝がある。
足助地区は小原地区と同様に私の滞在候補地のひとつに入っていて、その下調べも兼ねている。
車の運転は、水野君。
私のために、忙しい一日をさいてくれている。
駐車場に車を預け、巴川に沿って歩く。
平日の冬だからか、行楽客の姿が見えない。
赤い欄干の橋を渡った先は、飯盛山(254メートル)の裾野。
飯盛山の頂には足助城城跡公園がある、が今日は登らない。
裾に広がる木立は、紅葉の季節には素晴らしい景色が見られるだろうと想像できる。
香嵐渓の中心に建つ三州足助屋敷を見学しよう。
入場料を払って中に入ると、行楽客の姿がチラホラと見えた。
明治時代の豪農屋敷をモデルに新築したといわれる、三州足助屋敷。
屋敷の囲炉裏に迎え入れられ、寒茶と呼ばれる珍しいお茶をいただいた。
「寒茶は、山で採ってきたお茶を大樽で枝ごと蒸し、葉を10日ほど天日干しさせた、足助の一部地域の農家で昭和の初め頃まで作られていた冬に作るお茶です」と、わらじを編んでいた女性が説明してくれた。
冷えた身体に、暖かい寒茶が沁み込んでいく。
ご馳走さまでした。
敷地内には、わら細工、機織り、桶屋、傘屋、紙漉き、紺屋、炭焼き、鍛冶屋、篭屋の作業場が再現されおり見学することができる。
鍛冶屋の若き後継者の心意気に感動し、篭屋の工匠には竹の話をたくさん伺った。
■休館日:毎週木曜日、年末年始(祝日、及びゴールデンウィーク、11月中は開館)
■入館料:大人300円・高校生以下100円
■お問合せ:(0565)62-1188
■Web:http://www.asuke.aitai.ne.jp/~yashiki/
香嵐渓「もみじのトンネル」を戻り、商家の町並みが残る足助川沿いに向かう。
パンフレットから、ちょっと勉強してみた。
伊那街道(明治以降、飯田街道)の中継地として栄えた商家の家並みが残る足助の町。
中馬と呼ばれる人たちが行き来したことから街道は別名「中馬街道」とも呼ばれている。
中馬と書いて「ちゅうま」と呼び、伊那街道で物資の運搬に従事した全ての人々のことを指している。
この中馬のおかげで、街道の中継地点だった足助は、三河湾から塩、信州から山の産物などが集まる交易の町として栄えた。
塩は矢作川を川舟で上り、ここで荷直しされ、ここからは中馬によって運ばれる。
詰め替えられ塩は「足助塩」「足助直し」と呼ばれた。
明治44年(1911)に国鉄中央線が開通すると、物資の輸送基地としての機能は次第に衰退していった。
大名行列の通らない、物資運搬と庶民通行の街道だと思われる。
江戸時代後期の白漆喰と黒の下見板張りの商家と明治・大正・昭和時代の建物が残っている。
人々は日常の暮らしの中、古い景観を残しながら生活している町。
五平餅・モツ煮の看板が目についたのは、私のお腹がすいていたからだろうか。
遅い昼食は、大正時代から営業を続けている飯屋「小松屋本店」で。
のれんが仕舞われた後に、地元のおばさんのうしろについて入店した。
残すところあと一膳だった「モツ丼」が食べられた。
コーヒー・ブレイクは「ろじうらカフェ」。
「ろじうらカフェ」は、このあとで紹介します。