2024年04月15日

私は親権を妻側に委ねた男!(532)

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この頃、 X(=ツイッター)に「共同親権」という言葉が頻繁に上がってくる。

親権については、離婚経験者なので理解しているが「共同親権」は耳新しい。

それが今、国会で、共同親権制度を強行裁決しようとしていた。

わずか10日のスピード審議だそうだ。

どこから浮上して、なぜそんなに急いでいるのかわからない。

私のような政治オンチには、どんな思惑があるのか、まったく理解できない。


親権は、親の権利ではなく子供に対する責務。

共同親権制度が導入された場合、どんな問題が危惧されるのか?

離婚の原因が児童虐待だった場合、被害の継続や拡大がありうる。

それは、子供にとって不幸なことだ。

もちろん夫婦間の暴力もある。

離婚が成立したら、二度と連絡を取りたくない人もいるだろう。

私でさえ、これぐらいは思いつく。

共同親権が採決されて浮上してくる問題点は、私の頭脳では思いつかないほどあるだろう。

それはこれから勉強していくとして、今は「共同親権に反対!」の声を上げておく。 



今回は「親権」に関連した、プライベートな話を書いてみた。

私は親権を妻側に委ねた男。

海外旅行を計画していた私は、住民票の申請に市役所を訪れた。

受け取った住民票は、養子だったはずの私の名前が、元の姓に戻っていた。

カウンターの女性に、その事を聞くと「奥様がご両親と見えて、離婚の申請をしていきました」との答え。

息子は、妻の両親の養子になっていた。

私は離婚した覚えはないし、息子を養子に出した覚えもはない。

「こんなことが相談もなく、勝手にできるんだ!」と唖然とした。

しかたなく、旧姓にもどった住民票を受け取った。

同じ屋根の下で暮らしながら、何の話し合いもなかった。

離婚の理由はわからないが、私の生活力のなさだとは想像できる。

妻の両親と姉妹が望んんでいるのなら、修復は無理だろう。

息子には、可哀想だが、従うしかない。


家庭裁判所からの呼び出しがあった。

調停委員は、離婚の理由は伝えず、健全な両親の援助がある妻側に息子を引き取らせることを提案した。

日本の親権は、妻側が有利な単独親権。

それが私の常識だった。

子供のことを考えれば、それで良かったと思っている。


私のケースは、息子が成人して、本人が父親に会いたいと考えるまで、会うことは許されない。

どうせ会えないのならと、私は息子とは同じ土地に住むことを拒み、行き先も告げず日本を離れることにした。

息子に、別れの言葉もなく姿を消した

二度と日本には戻らないことを覚悟した、終の住処を探す旅となった。

そして、バリ島ウブド村に長期滞在して34年。

8歳で別れた息子は、20歳になって会いに来てくれた。

空港の歓迎ロビーに、子供から大人に変化した息子が立っている。

「おう、久しぶり!」

涙の対面にはならず、ミョウチクリンな声をかけていた。

会う前には、あれも言おう、これも聞こうと思っていたのに、照れていたのか言葉にならない。

しかし私の心は、12年間の空白を一瞬に埋めていた。

最後の荷物を取りに行った日、息子は私の車を、泣きながら追っかけた、と話してくれた。


親の離婚の被害者は、子供達だ。

離婚の理由には、様々なケースがあると考えられる。

親権についても、様々なケースに対応できる解決策が必要になるだろう。

「共同親権」については、今後も注視していきたいと思っている。

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2024年04月09日

内緒にしておきたい情報「インディゴ染めの店2軒」!(531)

インドネシアの国土は東西に広く、アメリカ合衆国の幅と同等の長さに17,000を超える島々を抱える群島国家。

その横長の国を東西に二分して、バティック&イカットの布の文化が分布する。

バリ島を含む西の島々にはイカットが、ジャワ島を含む東の島々にはバティックの伝統が残っている。

イカットに興味を持ちロンボク島、スンバワ島、スンバ島、フローレス島と巡ったことがある。

それぞれの土地に特徴があって、興味深い旅だった。

バリ島のイカットは、日本の絣模様に似ている。

インドネシアのバティックは、2009年10月、ユネスコの世界無形文化遺産に認定されて脚光を浴びている。

バティック&イカットの詳細は、ここでは説明しないので各自で学習してください。


バリはイカット文化が根付いている地域だが、近年はバティックも生産している。

今回は、バリのバティックについて取り上げてみた。

文化遺産に認定された伝統模様のバティックでなく、モダンな図柄に出会った。

染料もインディゴ、私の大好きな藍染だ。

伝統柄の良さは理解できるが、それよりも好きな色と柄が見つかったのです。

日本の伝統模様を大柄にアレンジして、キャンパス布に藍染されている。

力強い仕上がりには存在感があり、時を経て色あせたとしても、温もりを残してくれることを約束してくれているようだ。


ウブドにあるバティックの店を二軒紹介したい。

@『 IKATBATIK=イカットバティック 』

ウブドで有名な藍染の店。

モンキーフォレスト通りの南端にある。

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ファサードは狭いけど、店内に入ると中庭を挟んで素敵な展示スペースが点在している。

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ファブリックはもちろんだが、インディゴカラーの陶器、アクセサリー、雑貨小物がセンス良く展示されている。

品揃いも豊富で、購買意欲をそそられる。

なぜか、シンギングボールもあった。

オーナーは以前、「Gaya Ceramic And Design」でマーケティング担当として実績を積んでいる。

「なるほど!」と納得できる経歴だった。




A『 Indigo Batik Pejeng 』

こちらは、ペジェンの王族が経営する工房。

王家の後継は、村人思いの芸術家で、村人の雇用のために始めたビジネスだと聞いている

バティック制作風景も見られます。

もちろん販売もしています。



ペジェン村の王族が経営する藍染の工房「Indigo Batik Pejeng」を見学!


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2024年04月04日

あの坂本龍一氏も訪れたマンディ場 @グヌン・カウィ寺院 スバトゥ村(530)

友人からのメッセンジャーに、家族の近況報告とユーチューブ動画が送られてきた。


動画は「1985年 音楽の旅はるか 坂本龍一YAS-KAZU バリ島」だった。


神々と電子音楽の饗宴




友人は、坂本龍一の超々崇拝者。


坂本龍一33歳の姿とバリの風景に感動する。


動画の中でマンディ(水浴び)する場面がある。


どこだろうと、場所が気になって、何度も見返した。


テロップには「プジョン」とある。


スバトゥ村で、録音したという話は有名だ。


もしかするとプジョンは、プジュン=Pujungのことだろうか。


プジュンなら私も知っている。


グヌン・カウィ寺院(Pr.Gunung Kawi)スバトゥが位置する集落がプジュンだ。


村人は、この辺りをプジュンと呼ぶのが通例。


余談だが、テガラランのライステラスは、村人にはチキン(Ceking)テラスと呼ばれている。


坂本龍一とヤスカズが入ったマンディ場は、スバトゥのグヌン・カウィ寺院だと確信を持った。


あとは、確認するのみ。




そして、愛バイク・スクーピーを転がして行ってきました。


ウブドから北上すること約10キロ、テガラランのライステラスを過ぎた、小さな村。


パサールのある十字路を右折。


メイン道路を外れるので、少し不安になるほどの田舎道をしばらく走って左折すると、左手に見下ろす形で寺院が見えてくる。


グヌン・カウィ寺院 スバトゥは、見下ろしたことはあるが参拝したことはない。



バイクを止め、ローカル価格Rp20,000-を払って入場

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門を入ると、右手に鯉が泳ぐ池が見える。

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May Peace Prevail On Earth(世界人類の平和でありますように!)の表示板

ウブドにもあったのを思い出す

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奥の寺院にいる村人が、お供えの花とお香を用意してくれる

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故・坂本龍一氏 とヤスカズ氏が入ったマンディ場



正式には、ムルカット(聖なる沐浴)場です。


1985年の映像では門柱に、右側が男子(pria)で左側が女子(wanita) の表示になっていますが、現在表示はありません。


マンディとして使用されていた頃は、男女別のマンディ場だった。


いつの頃からか、左右どちらも使うムルカット場になったということでしょう。


正装はしてきたが、濡れても良い準備をしてこなかったので、ムルカットは次回に持ち越すことにした。





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2024年03月24日

34年目にして、マディ・クルトネゴロ氏と初対面!(529)

ウブド東端の十字路を北に向かうアンドン通り。

銀行の支店が10軒ほど出店している地域。

ガソリンスタンドにスーパー・マーケットが2軒とレストランが並んでいる。

私が滞在始めた1990年5月頃には、何もない通りだった。

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そんな場所に、ユニークなアート・ギャラリーがあることは聞いていた。

マディ・クルトネゴロ(Madi Kertonegoro)氏のアトリエ「Future Peace Art Gallelry」だ。

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1994年、ダヤ・ヌラニ・デワ・カトン(「直観力による知覚の光」の意味)という名のヨーガ学校を開設。

2冊の日本語版の本に出会って、マディ氏を知る。

マディ氏著・日本語訳は、武内邦愛(愛称クニ氏)。

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(スピリット・ジャーニー/1990年7月15日・発行)

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(ウブッド十字路の番人・バリ島今昔譚/1997年4月15日・発行)


90年代初頭は、徒歩で行動していて、アンドン交差点から北へ行くことがなかった。

クニ氏とフェイスブックで繋がる機会に恵まれ、マディ氏の経営するジャムウ・カフェの情報を得た。

バイクを乗る生活になっていたので、機会を見つけて出かけた。

2024年3月、何度目かの訪問。

常席である、道路側のカウンター席に先客がいたので、奥のテーブル席に腰をおろした。

ターメリックのジャムウを注文して、展示テーブルの本に手を伸ばした。

手にした本は、英語版「ウブッド十字路の番人・the guardof ubud corner」だった。

英語版には、挿し絵が多くあった。

作家の思うところの説明がありそうな抽象画。

原画はカラフルだと想像できるが、残念なことに、コピー用紙で製本したような本の挿絵は白黒だった。

蔵書に興味を持ったことを、スタッフが知らせたのか、クマディ氏の奥様を伴っていた。

初対面である。

訳者のクニ氏の友人だと伝えると、クニ氏を思い出したのか、懐かしそうに喜んでくれた。

「これらの絵は観られますか?」と聞くと、ギャラリーがあると言う返事。

購入した本代の支払いを済ませ、ジャムウを飲み干し、奥様に案内してもらいことにした。

カフェエリアと屋敷を隔てる門をくぐる。

1990年以前に建てられたであろう、写真で見た2階屋の階段を上る。

ギャラリーには、気になった絵は飾られていなかった。




ギャラリーを出て、さらに奥に進むとムルカット場になっていた。

屋敷寺もある。

現在マディ氏は、高僧の位を取得して宗教活動をしているという。

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写真を撮っていると、母屋からマディ氏が登場した。

33年目にしての初対面である。

若い頃の写真で存じ上げているだけの人物だが、初対面とは思えない親近感だった。

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「クニによろしく伝えてください!」

ご夫妻の言葉をいただいて、帰路に着いた。





ジャムウ・カフェ『Jamu Ubud Sehat』@アンドン通り・ウブド


■ジャムウ・カフェ『Jamu Ubud Sehat』@アンドン通り・ウブド(524)
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/502423765.html

■マディ・クルトネゴロ氏のアトリエ発見!@UBUD(415)
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/486244064.html

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2024年03月22日

「ALAS HARUM」のナイスビューが Rp50,000-で鑑賞できるって、ホント!(528)

ウブド近郊に、ルアック・コーヒーの店が出店し始めたのは、いつ頃のことだろう。

どの店も、渓谷沿いの広い土地を所有している。

ルアック・コーヒーの説明、選別、焙煎などのプロセスを見学できる。

インドネシアのコーヒー各種をデミタスカップで無料で提供し、ルアック・コーヒーも試飲できた。

帰路は、土産コーナーの前を通らなければならない導線になっていて、買い物を誘導する。


スゥイング(ぶらんこ)が人気になったのは、いつの頃だろう。

インスタグラムが普及し「インスタ映え」という言葉が流行した時代か。

日本では、2017年の流行語大賞になっている。

ルアック・コーヒーとスゥイングがセットとなった店が増えた。

テガラランのライステラスにもたくさんのスゥイングができている。



今回、私が訪れたのはルアックコーヒーの店「ALAS HARUM」。

ルアック・コーヒーもスゥイングにもまったく興味がない私が、なぜ、訪れる気になったのか?

それは、友人のフェイスブックに写っていたプールが、元店舗デザイナーの創造心を刺激したから。

印象に残っていて、是非一度訪れてみたいと思っていた店が「ALAS HARUM」だった。


テガラランのライステラスがある地域にあり、駐車場にルアックの大きなモニュメントがある。

前を通り過ぎる時があるが、いつも観光客で溢れている。

ルアック・コーヒーとスゥイングの施設で、なぜ、こんなに繁盛しているのか疑問だった。

渓谷を見下ろす、ライステラスを模したようなプールがある。

人気の理由は、これだ。

もちろん、スゥイングも根強い人気だ。

写真を見た時は、高級レストランだと思って敬遠していたが、リピーターの友人の説明を受けると、入場料Rp50,000-だとのこと。

諸々の施設を使わなければ、その金額で見学できる。


入り口には、ルアックの大きなモニュメントがある。
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ライステラスをイメージたかのようなプールは、おしゃれで美しい。
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従来のテガラランのライステラス・ビューは、隣接するレストランが共有しているが、「ALAS HARUM」は、その場所と少し離れた位置に、対岸までのライステラス・ビューを独占していた。

ルアック・コーヒー&スイング&プール&レストラン&カフェ&散歩コースと施設が充実。

入場料金:Rp50,000-(何も利用しなければ、この金額で景色を楽しめる)

駐車料金:無料





『付録・読み物』

私がウブドに滞在を始めた頃のテガラランのライステラスは、こんなところだった。

1990年6月、日本で東南アジアの雑貨を扱っている友人に頼まれて、木彫のバリ土産を受け取りにテガララン村に行く途中、右手に見えた風景が、

人生42年で初めて見る美しいライステラスだった。

ガイドのワヤン・カルタ君に「車を止めて!」と叫んだ。

カルタ君は「普通です!」と、ひとこと言って通り過ぎてしまった。

こういう景色が私は見たいのです、と伝えると、帰路は立ち寄ってくれた。

今のように道沿いに店はなく、道路から眼下に、そして対岸に田んぼの風景が続いていた。

箱庭のような景色に感動した。

ここは、土産物を求めるバイヤーしか利用しなかった道。

キンタマーニ高原に行く観光客は、ゴアガジャを見学してタンパクシタンを経由するルートがメイン。

観光客が増えると同時に、ライステラスは急速に観光地化していく。

友人を伴って何度か行ったが、レストランが増え、スゥイングが人気になったころから、私はほとんど行かなくなった。

posted by ito-san at 18:42| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月15日

将来、どんな職業につきたいですか?(527)

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あなたは、何歳の頃から将来の職業を考えていましたか?

今回は、私の話を聞いてください。
私は中学生の頃、百貨店の宣伝部に在籍していた長兄の蔵書の影響だろうか、おぼろげにデザイナーになりたいと考えていた。

デザイナーといっても様々あるようだが、具体性はなく、ただただおぼろげにだった。

高校では美術部で商業デザインを学んだが、将来の仕事につながる技術が身につくはずはない。

怠惰な高校生活を送り、卒業後の生活設計はない。

親父は学校の成績が悪い私に「どこかに丁稚に行け!」と就職を進める。

学校から大学進学を推薦されるほど優秀だった長兄、次兄の進学を諦めさせるのが、よほど辛かったようで「お前と変わっていたらよかった」と辛辣な言葉を吐く。

私は高卒で社会人になることが怖くて、大学進学を希望した。

長兄と次兄は、自分が進学できずに苦労した経験から、私の大学進学を応援してくれた。

具体的に将来を描けない私は、美術大学を諦め、商学部のある大学に入学した。

どんな職業につくか、いまだに想像できなかった。

大学でも、美術部に在籍したが就職に役に立つレベルではない。

石膏デッサンは得意だが、オリジナルのイラストやファッション画はまったく創造できない。

大学生活も三年が終わろうとしていた。

此の期に及んでも、希望する職業が想像できない。

そして、未だに社会に出るのが怖い。

留年して海外へ一年の放浪の旅に出ることにした。


この旅が私の大きな転機となったようだ。

金がない、度胸もない、英語もできないの、無い無い尽くしで旅に出た。

「自分探しの旅」と言う、言葉もない時代。

1969年から1970年、20〜21歳でした。

無事放浪から戻り復学し、卒業。

就職先は、長兄の縁故で新設の空間設計会社に就職できた。

どれだけ長兄に世話になるのだ。

ほんと自分では何にもできない不甲斐ない男です(今でも変わらない)。

この会社に入って初めて、自分は店舗デザインがしたかったのだと気づいた。

デザイン画、設計図面は、独学。

新規会社なので顧客はなく、営業する必要があった。

私は地元での就職なので、友人からウインドーディスプレイ、看板などの仕事がもらえた。

同僚は、東京の美術学校卒業生。

就職と同時に「人畜無害」と銘打った雑貨屋を開店。

この店で培った人脈から、店舗設計の仕事が入るようになる。

設計の仕事は会社で受けていたが、二足のわらじを嫌う会社から、二択を迫られた。

私は3年(23〜26歳)で退職。

その後は、フリーランスの店舗デザイナー。

喫茶店、ブティック、レストランなどを手掛ける。

これが天職だろうと認識するが、他にもやりたいことが見つかると、手を出していた。


今回のブログで何が言いたいかというと、誰にでもこんな転機が訪れるだろういうこと。

人それぞれ、転機の書類は違うだろう。

どれが転機か気がつかないかもしれない。

私の場合は、「放浪の旅」がキーポイントだと思われる。

放浪の旅が、人格を豊かにしたとは思えない。

逆に、不甲斐なさを認識した旅だ。

大学生活が終わった時点で、何も変わっていなかった私が、社会人になって流れが変わった気がした。

外見も中身も一向に向上したわけではないが、私を取り巻く状況に厚みが帯びてきた。

何かに向き合って向上しようとする人々との交流が広がっていったのです。

自分独りでは何もできないということを実感した年月(23〜42歳)でした。


2度目の転機は、ウブド滞在(42歳〜)となった。

立ち位置を変えることが転機に繋がっていると、今は思える。

そして今、人生最後となるであろう3度目の転機が訪れるのを待っている!

posted by ito-san at 18:01| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月11日

ニュークニン村に移店した「和食・影武者」を紹介していなかった!(526)

影武者は、2014年5月24日に現在のニュークニン村に移店して、すでに10年を経っているのにブログで紹介していなかった。

動画で紹介。


オープンは1991年7月25日に、プンゴセカン村にて。

10年後に、裏に移転。

ニュークニン村は、3度目の移転でした。

各店舗で、10年ほど営業しています。

あなたは、どの時代の「影武者」をご存知ですか。


なにげに飾られている私の作品は、私の一存で置いてもらっているのです。

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「影武者」創設期の話はこちらで!

極楽通信・UBUD :17「お疲れさまでした、居酒屋・影武者」
https://informationcenter-apa.com/gt_kagemusha.html


和食・影武者(Kagemusha)写真集・1990年〜1991年 @ Ubud・Bali



posted by ito-san at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月01日

バリ伝統絵画から脱却し、ユニーク画風で有名になった天才画家・Mokoh!(525)

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グスティ•サナ・ギャラリー蔵


天才デワ・プトィ・モコ(Dewa Putu Mokoh)は、 1936年プンゴセカン村で生まれ、2010年にこの世を去った。

プンゴセカン村と言えば、ご存知のように、花鳥風月モチーフにしたプンゴセカン・スタイルで有名な地域だ。


まずは、彼の生い立ちを調べてみよう。

父親デワ・ライ・バトゥアンは、ウンダギ(バリの伝統的建築家)であり有名なガムラン音楽家、母親グスティ・ニアン・ライは、ラマック(お供え物の装飾)作りの専門家。

そんな両親から、6人兄弟の長男として性を授かる。

小学校に相当する人民学校(SR)で、わずか3年間の教育を受けただけ。

幼い頃から画家になりたいという夢を持ち、15歳頃から絵の勉強を始めた。

しかし父親は、画家になりたいという彼の願望に反対した。

父親にとって、絵を描くことは単なる時間の無駄であり、収入にはならないと考えていたのだ。

アヒルや牛を飼って野良仕事を手伝うことを強く望んでいた。

モコ氏は、水田で働くのに忙しかったが、時間を見つけては叔父のグスティ・クトゥッ・コボックとグスティ・マデ・バレットの家で遊ぶことが多かった。

叔父たちが絵を描いているのを見るのが好きだった。

そして手ほどきも受けた。

スケッチ、カラーブロッキング、シェーデイング、ハイライト、グラデーションなど、多くの伝統的なテクニックを学んだ。


その後、1929年からウブドに住んでいたオランダ人画家ルドルフ・ボネット(1895〜1978) と出会う。

ボネット氏は、ピタマハ・グループ(1936)とウブド画家グループ(1951)の創設者の一人。

モコ氏は、叔父たちから学んだ絵をボネット氏見せたがった。

その絵は、バリの伝統絵画でした。

ボネット氏は、モコ氏の伝統的なテーマに焦点を当てたコボックやバレットの足跡をたどるのではなく、自分自身の創造性を模索することを提案していた。

ボネット氏はモコ氏に現代絵画の原則を教えます。

これには色の認識、色の混合、構成、自分自身の創造性の発見テクニック、そして絵画における自由の原則が含まれていた。

ボネット氏との接触の結果、モコ氏は悟りを経験します。

優れた絵画とは、画像領域を満たす複雑な構成を持つラーマーヤナやマハーバラタのテーマを持っている必要はないことに気づいたのです。

モコ氏にとって優れた絵画とは、身の回りの物体をモチーフにしたり、単純な着色技術や画像処理を使用して空想や想像力に基づいて作成したりすることだ。

画家は、あえて異なるスタイルや対象を使って絵を描き、新たな可能性を探求しなければならない。

時間が経つにつれて、モコ氏の絵画のテーマは非常に多様になっていった。

日常生活、動植物、民間伝承、子供の世界、ファンタジー、エリティカ、または興味を引いた単純なものを穏やかな筆致で、ユーモラスで無邪気、そしてしばしば驚くべき物語を描いていた。

モコ氏の絵は、国内の展覧会に加えて、アメリカ、オーストラリア、デンマーク、フィンランド、オランダ、ドイツ、イタリアを含む海外の多くの共同展覧会に出品されている。

1995年に、日本の深赤美術館で個展が催された。


(BASAbali WiKi:参照)




「Mokoh House & Art Gallery」の管理人は、チップさんです。

作品を見たい方は、チップさんに連絡してください。

グーグルマップ検索すると、多数の画像が見られます。

posted by ito-san at 19:56| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年02月20日

老舗ジャムウ屋『Jamu Ubud Sehat』@アンドン通り・ウブド(524)

体調が100%でないので、アンドン通りにある老舗ジャムウ屋『Jamu Ubud Sehat』に立ち寄った。

ウブドにジャムウ・カフェはここしかないのかな。

他にもあれば教えてください。

2022年3月30日以来だから、約2年ぶりの訪問。
 
その時は、ジンジャーのジャムウを飲んでいた。

ジャムウ・カフェは2013年に開店。

奥にはアトリエと瞑想場がある。

オーナーのマディ・クルトネゴロ氏は、画家&ヒーラーです。


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今から20年以上前のアンドン通り。

右手に見えるツノのある建物が、マディ・クルトネゴロ氏のアトリエ。

ブログ「マディ・クルトネゴロ氏のアトリエ発見!@UBUD(415)」を合わせてお読みください。
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/486244064.html

氏は、日本語に訳された本を二冊出版している。

「スピリット・ジャーニー」著者:マディ・クルトネゴロ/訳者:竹内邦愛(1990年7月15日・発行)

バリ・アガの村トゥガナンの起源を、伝説をもとにして語っている。

トゥガナン村は、カンベン・グリンシン(たてよこがすり)とアタ・バッグで名高い。

「ウブッド十字路の番人」著者:マディ・クルトネゴロ/訳者:竹内邦愛(1997年4月15日・発行)

ウブド好きには、たまらない一冊。

ウブドの十字路とは、サレン王宮とパサール・ウブドの交差する変則十字路のことだ。

白鷺の村・プトゥルの話も興味深い。


ジャムウの話をしないといけないですよね。

当店の根っこ(根茎)のジャムウは、三種類でした。

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●Jamu Kunyit Asem(ターメリック)

身体の炎症を鎮める作用がある。

●Jamu Temulawak (クルクマ)

肝臓、肝炎、喘息、脾臓、リュウマチ、アレルギー、便秘の治療にも良いようです。

●Jamu Jahe Merah(レッド・ジンジャー)

熱を冷まし、食欲を促し消化を高め、風邪、咳、車酔い、リュウマチの痛みにも効くと考えられている。

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この日は、クニット・アッサムを注文した。

古くは、ワルン・ビアビアで、健康に良いからとスタッフが作ってくれたクニットを毎日のように飲んでいたのを思い出す。

その時に苦く感じていたので、苦いものだと思い込んでいたが、ここでは甘かった。

ヤシ砂糖を混ぜていると教えてくれた。

これなら飲み安い。

蜂蜜を入れて飲むつもりで、パウダーのクニットを買って帰った。

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あとは動画でお楽しみください!



ジャムウの説明をしなくちゃいけないと思うのですが、料理オンチ同様、ジャムウオンチでもあるので、詳しく知りたい人は、友人のブログを読んでください。

「バリ島ウブド便り」バリ島の漢方薬ジャムウ
https://balitravel.hatenablog.com/entry/2017/04/10/090000

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夜市などに出店する、カキリマのジャムウ屋。

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道端で店開き。担いで行商するジャムウ屋。

写真も友人から拝借。

他人に丸投げの私です。

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2024年02月12日

クムヌ村の蝶々(Kupu kupu)博物館 @ Kumenuh Batterfly Park(523)

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蝶というのか、蝶々というのが正しいのか?

一頭(蝶の数え方)が蝶で、二頭以上が蝶々と言うわけではないようだ。

どちらも正しいので、雰囲気に合わせて使い分けよ、ということらしい。

蝶々は、ちょうちょう、ちょうちょのどちらも正しいようです。

童謡の蝶々は、ちょうちょうと歌っている。


めっきり、ウブド内で蝶々を見る機会が減った気がする。

通りに面した花々が減ったのだろうか。

それとも、単に気のせい?

かつては、通りを歩いていれば、ハビスカスやブーゲンビリアの周りを二頭の蝶が戯れていたり、鮮やかな色の翅(はね)をキラキラさせて翔んでいた。

散歩の途中、黄色の蝶が、いつまでも私から離れなかったのは何だったのだろう。

人は死ぬと蝶になると聞いたことがある。

ウブドでは、そんな言い伝えも信じられるから不思議だ。


蝶を苦手とする友人がいる反面、蝶々が大好きは友人もいる。

私は取り立てて好きだというわけではないのですが、久しぶりに蝶々に癒やされて見ようかななんて思い、蝶々博物館を訪れることにした。

タバナン県に古くから「バリ・バタフライ・パーク」があるのを知っているが、遠いので今回は近場にした。

ギャニアールのサバ海岸にも「バリトピア・バタフライパーク」があったが、閉館(2024年2月12日訪問)していた。

今回は、ウブドの中心部からバイクで20分ほどのところにあるクムヌ村の「蝶々・Kupu kupu @ Kumenuh Batterfly Park」を訪れた。

さらに数百メートル南下すると観光地トゥヌンガンの滝があり、さらに少し進むと、オススメしないガラスの橋がある。

     
駐車場から受付、エントランスとスマホで動画を撮ったつもりが、残念ながら今回も始まりの3分間が撮影できていなかった。


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一番目のゲートを入ると、そこは盆栽などが配置されて小さな公園になっていた。

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ここまでの動画が撮れていないのであった。



公園から、蝶が放し飼いになっている二番目のゲートをくぐる。

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BUTTERFLY PARK ENTRANCE

身体にまとわりつくほど飛んどいるのかと思っていたが、そうでもなくてチョピリがっかり。

蝶の命は3週間ほど、管理は大変だと想像する。

クプクプバロンは5日間の生命だと教えてくれた。


あとは、ユーチューブに投稿した動画をご覧ください。

プール、レストラン、土産コーナーを紹介しています。


posted by ito-san at 20:11| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする