私の日本脱出は、過多の生活に疲れたことも一因だった。
幸いウブドでは、日本の新聞・テレビなどのメディアに接することもなく暮らすことができた。
情報を追っかけることのない日々は、目の前の現実を楽しむことに専念できる。
ウブドには、歴史や伝統に守られた、村人の営みがある。
自然と調和して生活している人々を見て、こんな生き方ができたらいいなと思った。
私は、不便を楽しむタイプかもしれない。
ワープロを入手すると、興味深いウブド生活を発信するために、小冊子「極楽通信UBUD」を1994年2月から1999年6月までの間、隔月で発行した。https://www.potomak.com/bali/ubud/ubud.html
1995年8月20日:「情報センター・アパ?」設立。
情報から逃れたはずなのに、いつの間にか発信する側に回っていた。
大きな災害の情報は、旅行者から耳に入った。
1995年1月17日:阪神・淡路大震災は、短波放送ラジオで刻々と拡大していく被害を聴いた。
ウブドでのんびり過ごしている間に、世界ではさまざまな事件が起こっている。
ウブドにインターネットが普及始めると、名古屋の友人が「ワープロがわりに使って!」とノートパソコンを置いていった。
パソコン環境は不得手と、手を染めないと誓っていたが、ミクシーで情報を発信するようになっていた。
一発目のミクシーがこれ。
2006年04月06日■マンガ・マドゥ
午前中の晴天が嘘のように、昼から雨が降り続いている。
マンガ・マドゥで昼食をしていると、2人の日本人女性ツーリストが入ってきた。
ゴアガジャ、考古学博物館、プナタランサシ寺院を貸し自転車で巡って来たと教えてくれた。
ペジェン・サラ村からウブドに入る急な坂を上って来たようで、2人とも息を切らしていた。
ウブドのイラスト・マップと「情報センター・アパ?」のディスカウント・カードを渡して別れた。
このあと私は「アパ?」に、DVDと本を返し、カフェ・ブンブンの作業場に向かった。
日本に帰って、ユーチューブを見ていると、知らないことばかり。
1990年5月から2024年10月までのウブド滞在34年間の日本の情報は、まったく浦島太郎状態。
この間の日本の政治・経済・芸術、etcの情報を得ようとしなかった。
流行した言葉や事象も知らない。
私の記憶は35年より前の日本で、亡くなった人の記事を見て「えっ、こんなに年をとったんだ!」と驚く。
空白の34年間をあえて埋めようとせずに、今は懐かしい曲を聴くのが楽しみの一つになっている。
2026年03月05日
2026年02月09日
水浴びのウブドから、土岐市に移住してユニットバスで入浴できる幸せ!(68)
私のウブド滞在は、ロジャーズ・ホームステイから始まり、何か所を転々とした。
家賃は、電気代、水道代が含まれていて1万円ほど。
ガスは、プロパンガスで自分持ち。
一戸建ての時でも、電気代、水道代が含まれて家賃は2万円ほどだった。
バスタブ付き住居の時もあった。
今回はバスタブの話です。
私は、お風呂が大好物だ。
名古屋に住んでいる時には、家風呂があっても銭湯に行くほど。
ウブド人は、マンディ(水浴び)はするが入浴の習慣がない。
ロジャズ・ホームステイに、バスタブはない。
もちろん、ホットシャワーもない。
こんなもんだと諦めていたが、ビザの書き換えでシンガポールに行くと、宿のホットシャワーに身体が生き返る。
ウブドでも、旅行者がバスタブを望んでいることを知ると、ホームステイにもバスタブを設置するようになった。
外国映画で、泡まみれのバスタブのシーンを見ることがある。
どうやら、浴槽内で身体や髪を洗っているようだ。
仕上げは、浴槽内に設置されたシャワーで流す。
バスタブ使用者は、汚れを落とすだけが目的かもしれない。
間違っていたら訂正してください。
湯に浸かろうとすると、横たわることになるほど浅い浴槽。
私は外で洗ってから、腰を下ろして肩まで湯に浸かりたい。
滞在が長くなると、和風(深め)タイプの湯船が恋しくなってくる。
土岐市に移住して探した宿には、ユニットバスがついていた。
腰を下ろして肩まで湯に浸かる希望が叶った。
だが不安がある。
名古屋の生活では、追い炊きのできる湯船だった。
翌日に追い炊きできないのは、水の無駄遣いじゃないかと気になって、ず〜っと悩んでいる。
全自動洗濯機にも、使えないし。
これは不満じゃなくて、疑問です。
みんなはどうしてるか教えてください。
バスタブで思い出した旅の恥。
20歳、初の海外旅行はナホトカ航路〜シベリア鉄道。
この時、モスクワのホテルに泊まった。
バスタブも初体験。
広々とした浴室には、バスタブと便器が二台。
座り難かった便器は、水が止まらなくなった。
慌てて、飛び出したと記憶している。
ビデとは知らず使ってしまったようです。
パリ東駅構内の銭湯では、バスタブの蛇口が止められず溢れ出し、床は水浸し。
当時の私は、蛇口が湯と水の二つあることを知らなかった。
冷静に考えれば止められたと思うのだが、あの時は、言葉ができなかったので、焦って逃亡した。
一年間の放浪の旅は少しの写真と日記を残していたが、'90年の日本脱出の際にどこに預けたか思い出せず、旅の記憶が確認できないでいる。
詳細が説明できないのが悔しい!
家賃は、電気代、水道代が含まれていて1万円ほど。
ガスは、プロパンガスで自分持ち。
一戸建ての時でも、電気代、水道代が含まれて家賃は2万円ほどだった。
バスタブ付き住居の時もあった。
今回はバスタブの話です。
私は、お風呂が大好物だ。
名古屋に住んでいる時には、家風呂があっても銭湯に行くほど。
ウブド人は、マンディ(水浴び)はするが入浴の習慣がない。
ロジャズ・ホームステイに、バスタブはない。
もちろん、ホットシャワーもない。
こんなもんだと諦めていたが、ビザの書き換えでシンガポールに行くと、宿のホットシャワーに身体が生き返る。
ウブドでも、旅行者がバスタブを望んでいることを知ると、ホームステイにもバスタブを設置するようになった。
外国映画で、泡まみれのバスタブのシーンを見ることがある。
どうやら、浴槽内で身体や髪を洗っているようだ。
仕上げは、浴槽内に設置されたシャワーで流す。
バスタブ使用者は、汚れを落とすだけが目的かもしれない。
間違っていたら訂正してください。
湯に浸かろうとすると、横たわることになるほど浅い浴槽。
私は外で洗ってから、腰を下ろして肩まで湯に浸かりたい。
滞在が長くなると、和風(深め)タイプの湯船が恋しくなってくる。
土岐市に移住して探した宿には、ユニットバスがついていた。
腰を下ろして肩まで湯に浸かる希望が叶った。
だが不安がある。
名古屋の生活では、追い炊きのできる湯船だった。
翌日に追い炊きできないのは、水の無駄遣いじゃないかと気になって、ず〜っと悩んでいる。
全自動洗濯機にも、使えないし。
これは不満じゃなくて、疑問です。
みんなはどうしてるか教えてください。
バスタブで思い出した旅の恥。
20歳、初の海外旅行はナホトカ航路〜シベリア鉄道。
この時、モスクワのホテルに泊まった。
バスタブも初体験。
広々とした浴室には、バスタブと便器が二台。
座り難かった便器は、水が止まらなくなった。
慌てて、飛び出したと記憶している。
ビデとは知らず使ってしまったようです。
パリ東駅構内の銭湯では、バスタブの蛇口が止められず溢れ出し、床は水浸し。
当時の私は、蛇口が湯と水の二つあることを知らなかった。
冷静に考えれば止められたと思うのだが、あの時は、言葉ができなかったので、焦って逃亡した。
一年間の放浪の旅は少しの写真と日記を残していたが、'90年の日本脱出の際にどこに預けたか思い出せず、旅の記憶が確認できないでいる。
詳細が説明できないのが悔しい!
2026年02月01日
クラシックカーマニアには堪らないラインナップ!(67)
『旧車館』@岐阜県土岐市駄知町
原則月1回(第一日曜日)の不定期で、一月は休館だったので、今回やっと入館を果たした。
入場無料。
受付で、サインをして無料パンフレットをいただく。
「写真撮影は自由ですが車には触れないようにしてください」の説明を受ける。
正面ガラス扉から中を覗いた時には、この程度かと侮っていたが入館してびっくり。
覗いたのは、ほんの一部だった。
大きな倉庫が三つはあっただろうか。
そこにギッシリ、クラシックカーマニアには堪らないラインナップ。
大勢の車好きさんが熱心に鑑賞している。
車好きには堪らない場所だと思うけど、残念なことに私はマニアではない。
二つある地元の作家の作品が集められた部屋から、オーナーの地元愛が感じられた。
居心地よくて、のんびり二周した。
喫茶コーナーの前で「お茶でも飲んでいきなしゃすか?」と声をかけられる。
ミニコーヒーがサービスされた。
私は女性スタッフ二名(同年代)と、地元の話で花が咲く。
奥の椅子に腰を下ろしている恰幅のいい男性が、当館のオーナーだろう。
入館者と雑談をしている。
車談義で盛り上がっていた。
次の訪問では、オーナーから話が聞けたらいいなと思った。
準備万端、アクションカメラを胸につけて動画撮影したつもりが、まったく写っていなかった。
スマホの写真は残っている。
こんなもんですよ私のすることは。
駄知旧車館のホームページ:https://kyushakan.com/















原則月1回(第一日曜日)の不定期で、一月は休館だったので、今回やっと入館を果たした。
入場無料。
受付で、サインをして無料パンフレットをいただく。
「写真撮影は自由ですが車には触れないようにしてください」の説明を受ける。
正面ガラス扉から中を覗いた時には、この程度かと侮っていたが入館してびっくり。
覗いたのは、ほんの一部だった。
大きな倉庫が三つはあっただろうか。
そこにギッシリ、クラシックカーマニアには堪らないラインナップ。
大勢の車好きさんが熱心に鑑賞している。
車好きには堪らない場所だと思うけど、残念なことに私はマニアではない。
二つある地元の作家の作品が集められた部屋から、オーナーの地元愛が感じられた。
居心地よくて、のんびり二周した。
喫茶コーナーの前で「お茶でも飲んでいきなしゃすか?」と声をかけられる。
ミニコーヒーがサービスされた。
私は女性スタッフ二名(同年代)と、地元の話で花が咲く。
奥の椅子に腰を下ろしている恰幅のいい男性が、当館のオーナーだろう。
入館者と雑談をしている。
車談義で盛り上がっていた。
次の訪問では、オーナーから話が聞けたらいいなと思った。
準備万端、アクションカメラを胸につけて動画撮影したつもりが、まったく写っていなかった。
スマホの写真は残っている。
こんなもんですよ私のすることは。
駄知旧車館のホームページ:https://kyushakan.com/
2026年01月23日
バロン・ランドゥン、ジェロ・ルーの正体は!(66)
キンタマーニ高原について自分の資料を漁っていたら見つけた「ウルン・ダヌ・バトゥール寺院(Pura Ulun Danu Batur)」の話。
折角なので、投稿しました。
11世紀、バトゥール山北側の外輪山の森に、ジャヤ・バングス(Jaya pangus)王国があった。
現在のダラム寺院バリンカン(Balingkang)のある地域と考えられる。
王として君臨していたのは、テットヤ・ジャヤ・バンクス。
テットヤ王は、妻のデウイ・ダヌ(Dewi Danu)と息子マヤ•テナワと一緒に暮らしていた。
そこへ中国から渡バリしてきた、高僧リムとその女弟子カン・チン・ウィー(Kang Ching Wie)の二人が王のもとを訪れた。
王と意気投合した二人は、長年バリに住みことになる。
年月が過ぎ、老いを感じてきた王は、息子マヤ•テナワに王座を譲った。
しかし、この息子は仏教の悪い教えばかりを説いたブッタ・ヒナヤナを支持したため、社会が乱れることを懸念した王は息子を自分の領地から追放した。
追放された息子はジャヤ・バングス王国を離れてバトゥール山南側に移り住み、ブッタ・ヒナヤマを信仰した。
バトゥール山南側は、現在のキンタマーニ地域と考えられる。
息子の勢力は年を増すごとに拡大し、とうとう父親の領土まで奪い取ってしまう。
母親は、この時の心労のため病死。
この後、マヤ•テナワ王は密かに恋心を抱いていた、カン・テン・ウィを嫁にすることを望み妻とした。
マヤ•テナワ王亡き後、カン・テン・ウィは、この地に寺院を建立し、ブッタの祠も一緒に建てた。
それが現在、景勝地として有名なキンタマーニ高原にあるウルン・ダヌ・バトゥール寺院である。
(ソンガン村のウルン・ダヌ・バトゥール寺院がバトゥール山の噴火で、キンタマーニ村に移動したという説あり)
なんてメモなんですが、どうも話の辻褄がクリアじゃないので、誰か補足してください!
マヤ•テナワ王が亡くなった時、民衆はバロン・ランドゥンを作った。
バロン・ランドゥンは、ジェロ・グデ(JERO GDE)と呼ばれる男性と、ジェロ・ルー(JERO LUH)と呼ばれる女性のペアーで、
結婚とその後の運命の物語が演じられている。
バリ語が理解できない私には、こちらも検証できない。
ジェロ・ルーが、カン・テン・ウィではないかとの説がある。
折角なので、投稿しました。
11世紀、バトゥール山北側の外輪山の森に、ジャヤ・バングス(Jaya pangus)王国があった。
現在のダラム寺院バリンカン(Balingkang)のある地域と考えられる。
王として君臨していたのは、テットヤ・ジャヤ・バンクス。
テットヤ王は、妻のデウイ・ダヌ(Dewi Danu)と息子マヤ•テナワと一緒に暮らしていた。
そこへ中国から渡バリしてきた、高僧リムとその女弟子カン・チン・ウィー(Kang Ching Wie)の二人が王のもとを訪れた。
王と意気投合した二人は、長年バリに住みことになる。
年月が過ぎ、老いを感じてきた王は、息子マヤ•テナワに王座を譲った。
しかし、この息子は仏教の悪い教えばかりを説いたブッタ・ヒナヤナを支持したため、社会が乱れることを懸念した王は息子を自分の領地から追放した。
追放された息子はジャヤ・バングス王国を離れてバトゥール山南側に移り住み、ブッタ・ヒナヤマを信仰した。
バトゥール山南側は、現在のキンタマーニ地域と考えられる。
息子の勢力は年を増すごとに拡大し、とうとう父親の領土まで奪い取ってしまう。
母親は、この時の心労のため病死。
この後、マヤ•テナワ王は密かに恋心を抱いていた、カン・テン・ウィを嫁にすることを望み妻とした。
マヤ•テナワ王亡き後、カン・テン・ウィは、この地に寺院を建立し、ブッタの祠も一緒に建てた。
それが現在、景勝地として有名なキンタマーニ高原にあるウルン・ダヌ・バトゥール寺院である。
(ソンガン村のウルン・ダヌ・バトゥール寺院がバトゥール山の噴火で、キンタマーニ村に移動したという説あり)
なんてメモなんですが、どうも話の辻褄がクリアじゃないので、誰か補足してください!
マヤ•テナワ王が亡くなった時、民衆はバロン・ランドゥンを作った。
バロン・ランドゥンは、ジェロ・グデ(JERO GDE)と呼ばれる男性と、ジェロ・ルー(JERO LUH)と呼ばれる女性のペアーで、
結婚とその後の運命の物語が演じられている。
バリ語が理解できない私には、こちらも検証できない。
ジェロ・ルーが、カン・テン・ウィではないかとの説がある。
2026年01月18日
ウブドでは、野放しの犬に遭遇する!(65)
いまさらですが、日本滞在が一年を過ぎて、気づいたことがある。
それは、町で犬を見かけることがないということ。
時々、小型犬にリードをつけて散歩している人を見つける程度。
こんな環境で育った日本人が、ウブドの町を散策していて野放しの犬に遭遇する経験は、さぞかし恐怖だったことだろう。
私もウブドに降り立った時(1990年5月)には、大いに戸惑ったはずだ。
ウブドには、我が物顔で道をウロウロする犬がたくさんいた。
センゴール(夜市)があった頃は、毛が全部抜けた皮膚病の犬や喧嘩で頭部がパッかり開いた犬がテーブルの下にいた。
首輪をつけていないが、一応に飼い犬なので、野良犬ではないんですよ。
一匹二匹の時もあれば、十数匹が集まっていることもある。
一匹が吠えると、門前に次から次へと犬が現れて吠える。
犬は、テリトリーがあるかのように飼い家の前で吠えて、道行く人を威嚇する。
通り過ぎれば、吠えるのを止める。
といっても、なかには吠えながらついてくる犬もいる。
知らないふりをするっと言っても、近づいて吠えられると怖いでよ。
数匹に同時に吠えられて、ビビったことを思い出す。
狭い道で出会ったり、数匹に道を塞がれたら焦りますよね。
私が注意していた時間帯があります。
夜10時頃から深夜2時頃までは、犬たちが徘徊する時間帯。
深夜0時前後はミーティングタイムで、道が交わる地点で十数匹が集まる。
石を投げたり棒を持って威嚇するのは、危険です。
その場は回避されたとしても、犬は威嚇した人物を思えていて次回の遭遇では、さらに激しく吠えてきますよ。
友人は、常日頃菓子パンを持っていて、近づいてきた犬に小さくちぎったパンを与えて手なずけいた。

フェイスブックに犬に道を塞がれた時の対処法を問いたら、次のような答えがありました。
F.Yさん:犬に吠えられても、犬たちのほうに一切目線はやらずに、スーッと通り抜けるようにしています。
そうすると、犬たちもおとなしく、通してくれるように思います
Y.Aさん:とにかく目を合わさず知らぬ振りして通りすぎるのが精一杯でした。
T.Mさん:向かってきたらショーチしないよという気合い?でいたせいか囲まれたことはないです。
F.Kさん:吠えてきたら、ただ黙って立ち止まり、ゆっくり一歩ずつ歩きます。
Y.Aさん:影武者でしたたか酔い、野犬に囲まれるのが怖くて何度かカポにバイクで送ってもらいました
K.Tさん:教えてもらったマントラを口ずさみながら通ると、犬は避けてくれるだけで吠えもしません。
バリって本当に不思議よね、ってつくづく感じました。
古い記事ですが、バリ犬と遭遇した時の対応策は「極楽通信・UBUD」34「バリの犬(Anjing)」を参考に。
https://informationcenter-apa.com/gt_anjing.html
それは、町で犬を見かけることがないということ。
時々、小型犬にリードをつけて散歩している人を見つける程度。
こんな環境で育った日本人が、ウブドの町を散策していて野放しの犬に遭遇する経験は、さぞかし恐怖だったことだろう。
私もウブドに降り立った時(1990年5月)には、大いに戸惑ったはずだ。
ウブドには、我が物顔で道をウロウロする犬がたくさんいた。
センゴール(夜市)があった頃は、毛が全部抜けた皮膚病の犬や喧嘩で頭部がパッかり開いた犬がテーブルの下にいた。
首輪をつけていないが、一応に飼い犬なので、野良犬ではないんですよ。
一匹二匹の時もあれば、十数匹が集まっていることもある。
一匹が吠えると、門前に次から次へと犬が現れて吠える。
犬は、テリトリーがあるかのように飼い家の前で吠えて、道行く人を威嚇する。
通り過ぎれば、吠えるのを止める。
といっても、なかには吠えながらついてくる犬もいる。
知らないふりをするっと言っても、近づいて吠えられると怖いでよ。
数匹に同時に吠えられて、ビビったことを思い出す。
狭い道で出会ったり、数匹に道を塞がれたら焦りますよね。
私が注意していた時間帯があります。
夜10時頃から深夜2時頃までは、犬たちが徘徊する時間帯。
深夜0時前後はミーティングタイムで、道が交わる地点で十数匹が集まる。
石を投げたり棒を持って威嚇するのは、危険です。
その場は回避されたとしても、犬は威嚇した人物を思えていて次回の遭遇では、さらに激しく吠えてきますよ。
友人は、常日頃菓子パンを持っていて、近づいてきた犬に小さくちぎったパンを与えて手なずけいた。
フェイスブックに犬に道を塞がれた時の対処法を問いたら、次のような答えがありました。
F.Yさん:犬に吠えられても、犬たちのほうに一切目線はやらずに、スーッと通り抜けるようにしています。
そうすると、犬たちもおとなしく、通してくれるように思います
Y.Aさん:とにかく目を合わさず知らぬ振りして通りすぎるのが精一杯でした。
T.Mさん:向かってきたらショーチしないよという気合い?でいたせいか囲まれたことはないです。
F.Kさん:吠えてきたら、ただ黙って立ち止まり、ゆっくり一歩ずつ歩きます。
Y.Aさん:影武者でしたたか酔い、野犬に囲まれるのが怖くて何度かカポにバイクで送ってもらいました
K.Tさん:教えてもらったマントラを口ずさみながら通ると、犬は避けてくれるだけで吠えもしません。
バリって本当に不思議よね、ってつくづく感じました。
古い記事ですが、バリ犬と遭遇した時の対応策は「極楽通信・UBUD」34「バリの犬(Anjing)」を参考に。
https://informationcenter-apa.com/gt_anjing.html
2026年01月11日
マスッ・アンギン(Masuk Angin)は風邪をひいたの意味だった!(64)
バリのオートマチックスクーターの幕開けは、ヤマハ・ミオ(Mio)の発売からだ。
スクーター商戦がバリで始まったのは、いつ頃だったか?
まず、600万ルピアの台湾製の安価なスクーターが出た。
100ccクラスで、消臭剤(キムコ)に似た名前だった。
すぐに壊れ、修理が不可能だったので、半年もすると市場から消えていた。
2005年に、ヤマハがオートマチックのスクーター「ヌーフォ=NEUVO」と「ミオ=Mio」を発売。
ホンダは同年、オートマチック・スクーター「ファリオ=VARIO」を発売。
私のバイク遍歴は、アストレア800→アストレア・スター(ASTREA STAR)→アストレア・プリマ(ASTREA PRIMA)→スープラ(SEPRA)→スープ
ラX(SEPRA X)。
そして、オートマチックになって、ファリオ→スクーピーとホンダ一辺倒できている。
タイヤの空気が少なくなっているのに気づき、プンゴセカン村にあるバイク修理屋に立ち寄った。
若奥様が店先に出て来た。
いつものようにニコニコと微笑んで「アパ・カバール?」と声を掛けてくれる。
この店でガソリンを入れているが、今日は、タイヤに空気を補充してもらいに来た。
私のインドネシア語のボキャブラリーは極小で、どう頼んだものか悩んだ。
タイヤに空気を入れる。
それなら、空気(アンギン)と入れる(マスッ)でよいだろう。
私は臆せず「マスッ・アンギン」と元気に答えた。
その言葉に、若奥様の美しい微笑みが消えた。
「だからどうしたの」とでもいうような、困り顔になっている。
私が世間話をしに寄ったのではないことはわかっている。
若奥様は、すみやかに悟ってくれて、主人に空気を入れるように頼んでくれた。

後で知ったが、マスッ・アンギン(Masuk Angin)は風邪(をひいた)の意味だった。
若奥様は「ここはベンケル(修理屋)よ。風邪をひいたのなら、ルマ・サキット(病院)かアポティック(薬局)へ行くべきよ」とでも言いたかったのだろう。
外国人がベンケルに立ち寄って「マスッ・アンギン!」と堂々と言われた時の若奥様は、さぞかし面食らったことだろう。
空気を入れてもらうには、マウ・アンギン(空気が欲しい)、ミンタ・アンギン(空気を下さい)を使いらしい。その他、「ブリ・アンギン
(Beri Angin=空気を買う)と言うのだと知った。
発音が悪くて通じないときは、最後の手段として、タイヤを指さし「アンギン・アンギン」と叫べばいいと友人が教えてくれた。
スクーター商戦がバリで始まったのは、いつ頃だったか?
まず、600万ルピアの台湾製の安価なスクーターが出た。
100ccクラスで、消臭剤(キムコ)に似た名前だった。
すぐに壊れ、修理が不可能だったので、半年もすると市場から消えていた。
2005年に、ヤマハがオートマチックのスクーター「ヌーフォ=NEUVO」と「ミオ=Mio」を発売。
ホンダは同年、オートマチック・スクーター「ファリオ=VARIO」を発売。
私のバイク遍歴は、アストレア800→アストレア・スター(ASTREA STAR)→アストレア・プリマ(ASTREA PRIMA)→スープラ(SEPRA)→スープ
ラX(SEPRA X)。
そして、オートマチックになって、ファリオ→スクーピーとホンダ一辺倒できている。
タイヤの空気が少なくなっているのに気づき、プンゴセカン村にあるバイク修理屋に立ち寄った。
若奥様が店先に出て来た。
いつものようにニコニコと微笑んで「アパ・カバール?」と声を掛けてくれる。
この店でガソリンを入れているが、今日は、タイヤに空気を補充してもらいに来た。
私のインドネシア語のボキャブラリーは極小で、どう頼んだものか悩んだ。
タイヤに空気を入れる。
それなら、空気(アンギン)と入れる(マスッ)でよいだろう。
私は臆せず「マスッ・アンギン」と元気に答えた。
その言葉に、若奥様の美しい微笑みが消えた。
「だからどうしたの」とでもいうような、困り顔になっている。
私が世間話をしに寄ったのではないことはわかっている。
若奥様は、すみやかに悟ってくれて、主人に空気を入れるように頼んでくれた。
後で知ったが、マスッ・アンギン(Masuk Angin)は風邪(をひいた)の意味だった。
若奥様は「ここはベンケル(修理屋)よ。風邪をひいたのなら、ルマ・サキット(病院)かアポティック(薬局)へ行くべきよ」とでも言いたかったのだろう。
外国人がベンケルに立ち寄って「マスッ・アンギン!」と堂々と言われた時の若奥様は、さぞかし面食らったことだろう。
空気を入れてもらうには、マウ・アンギン(空気が欲しい)、ミンタ・アンギン(空気を下さい)を使いらしい。その他、「ブリ・アンギン
(Beri Angin=空気を買う)と言うのだと知った。
発音が悪くて通じないときは、最後の手段として、タイヤを指さし「アンギン・アンギン」と叫べばいいと友人が教えてくれた。
2026年01月06日
人生の終わりに近づいて、この諺は違うと確信した!(63)
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
今年初の投稿です。
納得できない、諺や格言がある。
「時は金なり」は、もっとも嫌いな言葉だ。
この頃、「終わり良ければすべて良し」という言葉に疑問を持つようになった。
シェイクスピアの戯曲「All's Well That Ends Well」のタイトルに由来する諺らしく、物事の最初や途中はどうであれ、最後(結末)さえ良ければ、全体として良い評価や結果になるという意味として使われている。
私も都合の良い時に、「結果オーライ!」と発言していた気がする。
今、人生の終わりに近づいて、この諺は違うと確信した。
私は結果を重要視しない。
過程が大事だと思っている。
目標達成だけが全てではない。
結果は終着点ではあるが、私はプロセスを目一杯楽しみたい。
残念な結果に終わっても、過程がよければそれで満足できる。
そんな人生でもあった。
「勝った負けたと騒ぐじゃないぜ!」
水前寺清子の「いっぽんどっこの唄」の歌詞だね。
私は成功とか勝つことに興味がなく、今を明日を楽しみたいタイプ。
私の人生は、百パーセントとは言わないまでも、充実した楽しい時を過ごしてきた。
商売下手な私に、友人は「日本では、人がいいのはバカだと言うことだよ」と言われたこともある。
”人がいい”は、褒め言葉だと受け止めている。
バリでは「それは、騙されているんだよ」とアドバイスされたこともあったが、私は騙されたと思っていない。
意思疎通のすれ違いは、よくあること。
その結果が今、穏やかな老後を迎えられていると思っている。
「終わり良ければすべて良し」は、ビジネス用語で、人生に使う言葉ではないかもしれないね。
冬ごもりしながら、人生を振り返る日々を送っています。
本年もよろしくお願いいたします。
今年初の投稿です。
納得できない、諺や格言がある。
「時は金なり」は、もっとも嫌いな言葉だ。
この頃、「終わり良ければすべて良し」という言葉に疑問を持つようになった。
シェイクスピアの戯曲「All's Well That Ends Well」のタイトルに由来する諺らしく、物事の最初や途中はどうであれ、最後(結末)さえ良ければ、全体として良い評価や結果になるという意味として使われている。
私も都合の良い時に、「結果オーライ!」と発言していた気がする。
今、人生の終わりに近づいて、この諺は違うと確信した。
私は結果を重要視しない。
過程が大事だと思っている。
目標達成だけが全てではない。
結果は終着点ではあるが、私はプロセスを目一杯楽しみたい。
残念な結果に終わっても、過程がよければそれで満足できる。
そんな人生でもあった。
「勝った負けたと騒ぐじゃないぜ!」
水前寺清子の「いっぽんどっこの唄」の歌詞だね。
私は成功とか勝つことに興味がなく、今を明日を楽しみたいタイプ。
私の人生は、百パーセントとは言わないまでも、充実した楽しい時を過ごしてきた。
商売下手な私に、友人は「日本では、人がいいのはバカだと言うことだよ」と言われたこともある。
”人がいい”は、褒め言葉だと受け止めている。
バリでは「それは、騙されているんだよ」とアドバイスされたこともあったが、私は騙されたと思っていない。
意思疎通のすれ違いは、よくあること。
その結果が今、穏やかな老後を迎えられていると思っている。
「終わり良ければすべて良し」は、ビジネス用語で、人生に使う言葉ではないかもしれないね。
冬ごもりしながら、人生を振り返る日々を送っています。
2025年12月30日
苦手だった日本の文明機器にも慣れてきた!(62)
ジワジワと寒さが増してくるのを感じる、日々。
日本各地に雪が降り始め、積もっている地域もあるようだ。
あなたの住む街は、いかがですか。
我が土岐市は、気温が低くなり、雪が降る日も近いかなと感じさせるこの頃です。
35年ぶりに迎えた先の冬は、寒さの対処方法がわからず、身体に負担をかけた。
今冬は、自分なりの寒さの避け方を学び、不安は少なくなっている。
暖房機器の効率的な使い方も、外出時の衣服の選択もうまくなったと思う。
こうやって、越冬の知識を足していくんだね。
滞在一年が過ぎて、苦手だったことが少しづつだができるようになってきている。
ウブドで苦労していたATMだが、今では難なく使いこなせるようになった。
ATM恐怖症は、ブログに何度も投稿している。
「一年ぶりの銀行で、ATM恐怖症がやらかした失態!(540)」
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/503702443.html
セルフレジの扱い方も、100円ショップで習得した。

先日は、縮小を何度もやり直したが、ローソンでフォトコピーができた。
土岐市で唯一のローソンは、我が家から歩いて5分のところにある。
今日は、ネット購入の支払いをコンビニでするつもりだ。
昨晩、ユーチューブで研究した。
ローソンに、動画で見た支払機が設置されていなかった。
少し行ったところにファミリーマートがあるのを知っている。
アパートの戻り、電動アシスト自転車にまたがってファミマに向かう。
ここにもコンビニ支払い機は、設置されていなかった。
支払期限の時間が迫っているので、あせった。
土岐市駅の近くに大きなファミマがある。
あそこなら支払機はあるだろう。
風は冷たいが、通い慣れた道なので自転車走行はスムーズ。
支払機は見当たらなかった。
このまま支払わなければ、購入契約は破棄される。
それも縁がなかったと諦めるか。
しかし、このタイミングで欲しい商品なので悔いが残りそう。
勇気を出して、スタッフに尋ねることにした。
私のたどたどしい説明に付き合ってくれたスタッフは、コピー機のタッチパネルでできると教えてくれた。
ユーチューブの動画にあった機器ではなかったのだ。
登録番号と電話番号を入力するだけで完了した。
プリンチアウトした紙をレジに出すと、バーコードをスキャンして終了。
日本語の説明をゆっくり読めば、理解できるということだ。
苦手意識が強くて、理解しようと考えていなかったかもしれない。
こうやって、文明の知識を足していくんだね。
もしかすると近くのファミレスもコピー機で支払えたのかもしれない。
近々、偵察に行くことにしよう。
( ⭕️ローソンの名誉にために訂正します。
コンビニ支払機「Loppi」は開店当初から設置されていたようで、私が見つけられなかっただけでした)
【メモ】
ウブドのコンビニは、50メートルに一軒ある勢いだった。
2003年:ウブド初のコンビニは「スーパー・デルタ・デワタ」のミニ・マート(モンキーフォレスト通り)
2007年:「サークルK」モンキーフォレスト通りに1号店
「アルファ・マート」「インド・マレット」の出店は、2010年(?未確認)
日本各地に雪が降り始め、積もっている地域もあるようだ。
あなたの住む街は、いかがですか。
我が土岐市は、気温が低くなり、雪が降る日も近いかなと感じさせるこの頃です。
35年ぶりに迎えた先の冬は、寒さの対処方法がわからず、身体に負担をかけた。
今冬は、自分なりの寒さの避け方を学び、不安は少なくなっている。
暖房機器の効率的な使い方も、外出時の衣服の選択もうまくなったと思う。
こうやって、越冬の知識を足していくんだね。
滞在一年が過ぎて、苦手だったことが少しづつだができるようになってきている。
ウブドで苦労していたATMだが、今では難なく使いこなせるようになった。
ATM恐怖症は、ブログに何度も投稿している。
「一年ぶりの銀行で、ATM恐怖症がやらかした失態!(540)」
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/503702443.html
セルフレジの扱い方も、100円ショップで習得した。
先日は、縮小を何度もやり直したが、ローソンでフォトコピーができた。
土岐市で唯一のローソンは、我が家から歩いて5分のところにある。
今日は、ネット購入の支払いをコンビニでするつもりだ。
昨晩、ユーチューブで研究した。
ローソンに、動画で見た支払機が設置されていなかった。
少し行ったところにファミリーマートがあるのを知っている。
アパートの戻り、電動アシスト自転車にまたがってファミマに向かう。
ここにもコンビニ支払い機は、設置されていなかった。
支払期限の時間が迫っているので、あせった。
土岐市駅の近くに大きなファミマがある。
あそこなら支払機はあるだろう。
風は冷たいが、通い慣れた道なので自転車走行はスムーズ。
支払機は見当たらなかった。
このまま支払わなければ、購入契約は破棄される。
それも縁がなかったと諦めるか。
しかし、このタイミングで欲しい商品なので悔いが残りそう。
勇気を出して、スタッフに尋ねることにした。
私のたどたどしい説明に付き合ってくれたスタッフは、コピー機のタッチパネルでできると教えてくれた。
ユーチューブの動画にあった機器ではなかったのだ。
登録番号と電話番号を入力するだけで完了した。
プリンチアウトした紙をレジに出すと、バーコードをスキャンして終了。
日本語の説明をゆっくり読めば、理解できるということだ。
苦手意識が強くて、理解しようと考えていなかったかもしれない。
こうやって、文明の知識を足していくんだね。
もしかすると近くのファミレスもコピー機で支払えたのかもしれない。
近々、偵察に行くことにしよう。
( ⭕️ローソンの名誉にために訂正します。
コンビニ支払機「Loppi」は開店当初から設置されていたようで、私が見つけられなかっただけでした)
【メモ】
ウブドのコンビニは、50メートルに一軒ある勢いだった。
2003年:ウブド初のコンビニは「スーパー・デルタ・デワタ」のミニ・マート(モンキーフォレスト通り)
2007年:「サークルK」モンキーフォレスト通りに1号店
「アルファ・マート」「インド・マレット」の出店は、2010年(?未確認)
2025年12月11日
昔は良かったという話ではない(61)
ウブド・リピーターの貴方に質問です。
トイレの後始末は、紙派ですか、それとも指派ですか?
質問の意味がわかりませんよね。
私は、日本を離れるまでの42年間は、トイレットペーパーを使っていた。
そんな私が、指派に変わった瞬間の話をします。
それは、ウブド初のカルチャーショックでもありました。
ホームステイのトイレでのことです。
拭くだけの段階になって、紙が見当たらないのに気がついた。
見える範囲内にもポケットの中にも代用品はない。
野原なら葉っぱがあるのになと、しゃがんだスタイルで考える。
もしかすると、これ?
片隅にあるタイル張りの水槽と手桶。
はは〜ん、これだな。
シルクロード旅(57年前トルコ〜インド)経験者のバックパッカーには、このくらいの機転はきく。
右手に手桶を持って水をすくい、ぶっかける。
この時、左手の指先を使うことになる。
もちろん躊躇しましたよ。
踏み込んではいけない禁断の領域に、踏み込んでしまう思いだった。
こうして私の左手指は、初体験したのでした。
水浸しにはなったが、なんとか後始末は終わった。
この方式の心地良さに、感動さえ覚えた。
その後のウブド滞在35年間は、ペーパーレスの指派として過ごした。
この体験をとおして、ヒンドゥー・バリで左手が不浄なものとして取り扱われのが理解できた。
左手の握手や、左手から物を渡すことはタブーだ。
外国人に対しては、それほど厳格ではないが、失礼にあたるので気をつけたい。
ホームステイのトイレに、ペーパーは設置されていないのが普通。
トイレットペーパーを売っている店も、私の生活環境では見当たらなかった。
トイレは水浴び場も兼ねているため、ペーパーが置いてあったとしても濡れていて使えないことが多い。
オーナーやスタッフに、ペーパーを使う習慣がなかった頃の話です。
当時のガイドブック「地球の歩き方・インドネシア」にも、トイレの使い方のアドバイスはなかったはず。
その後、インドネシア国内の旅(ジャワ、ロンボク、スンバワ、スンバ、フローレス)では、指派だったので困ることはなかった。
日本に戻ってからは、トイレットペーパー派に戻っています。
下じもの話、食事時でしたらでゴメンなさい。

グルーグル検索した写真:画像は著作権で保護されている場合があります
・・・からの日本での話。
2024年、移住した土岐市のアパートのトイレは、普通の洋式水洗トイレでした。
ウオッシュレットだったとしても、ペーパーを使わないと落ち着きませんがね。
清潔感のある水洗トイレだったので、ウオッシュレットが欲しいなんて贅沢は言いません。
35年間の習慣は、簡単には直せませんでした。
バケツを置いて手桶にしようかなと考えたが、きっと床が水浸しになるだろう。
思いついた時が冬だったのもあり、氷点下での手桶の水洗はあきらめた。
見た目通り、神経質な私は、ペーパーをたくさん使ってしまう。
ひとロールを使い切ったこともある。
やっとこの頃、トイレットペーパーの使い方が上手くできるようになった。
一年かかかったな。
便座が冷たく感じる冬が近づいたので、電気ストーブを押入れから引っ張り出した。
アパートのトイレがウオッシュレッに変身してくれると嬉しいなと、夢想する今日この頃です。
トイレの後始末は、紙派ですか、それとも指派ですか?
質問の意味がわかりませんよね。
私は、日本を離れるまでの42年間は、トイレットペーパーを使っていた。
そんな私が、指派に変わった瞬間の話をします。
それは、ウブド初のカルチャーショックでもありました。
ホームステイのトイレでのことです。
拭くだけの段階になって、紙が見当たらないのに気がついた。
見える範囲内にもポケットの中にも代用品はない。
野原なら葉っぱがあるのになと、しゃがんだスタイルで考える。
もしかすると、これ?
片隅にあるタイル張りの水槽と手桶。
はは〜ん、これだな。
シルクロード旅(57年前トルコ〜インド)経験者のバックパッカーには、このくらいの機転はきく。
右手に手桶を持って水をすくい、ぶっかける。
この時、左手の指先を使うことになる。
もちろん躊躇しましたよ。
踏み込んではいけない禁断の領域に、踏み込んでしまう思いだった。
こうして私の左手指は、初体験したのでした。
水浸しにはなったが、なんとか後始末は終わった。
この方式の心地良さに、感動さえ覚えた。
その後のウブド滞在35年間は、ペーパーレスの指派として過ごした。
この体験をとおして、ヒンドゥー・バリで左手が不浄なものとして取り扱われのが理解できた。
左手の握手や、左手から物を渡すことはタブーだ。
外国人に対しては、それほど厳格ではないが、失礼にあたるので気をつけたい。
ホームステイのトイレに、ペーパーは設置されていないのが普通。
トイレットペーパーを売っている店も、私の生活環境では見当たらなかった。
トイレは水浴び場も兼ねているため、ペーパーが置いてあったとしても濡れていて使えないことが多い。
オーナーやスタッフに、ペーパーを使う習慣がなかった頃の話です。
当時のガイドブック「地球の歩き方・インドネシア」にも、トイレの使い方のアドバイスはなかったはず。
その後、インドネシア国内の旅(ジャワ、ロンボク、スンバワ、スンバ、フローレス)では、指派だったので困ることはなかった。
日本に戻ってからは、トイレットペーパー派に戻っています。
下じもの話、食事時でしたらでゴメンなさい。
グルーグル検索した写真:画像は著作権で保護されている場合があります
・・・からの日本での話。
2024年、移住した土岐市のアパートのトイレは、普通の洋式水洗トイレでした。
ウオッシュレットだったとしても、ペーパーを使わないと落ち着きませんがね。
清潔感のある水洗トイレだったので、ウオッシュレットが欲しいなんて贅沢は言いません。
35年間の習慣は、簡単には直せませんでした。
バケツを置いて手桶にしようかなと考えたが、きっと床が水浸しになるだろう。
思いついた時が冬だったのもあり、氷点下での手桶の水洗はあきらめた。
見た目通り、神経質な私は、ペーパーをたくさん使ってしまう。
ひとロールを使い切ったこともある。
やっとこの頃、トイレットペーパーの使い方が上手くできるようになった。
一年かかかったな。
便座が冷たく感じる冬が近づいたので、電気ストーブを押入れから引っ張り出した。
アパートのトイレがウオッシュレッに変身してくれると嬉しいなと、夢想する今日この頃です。
2025年11月24日
インドネシア語で「お休みなさい」は、「Minpi Manis」でいいかな!(60)
Selamat pagi・お早ようございます。
Selamat siang・(午前の)こんにちは。
Selamat sore・(午後の)こんにちは。
Selamat malam・今晩は&お休みなさい。
これ以外に、ウブド人が挨拶に使っている言葉があるんですよ。
道端でおじさんやおばさんに「どこへ行くの?=ke mana?」と声をかけられる。
初めは、「市場に行きます」「ご飯を食べに」とか、丁寧に行き先を答えていた。
帰りには、「どこに行ってきた?=dari mana?」と聞くので、あそこに行って、ここへ寄ってと詳しく説明していた。
会うたびに聞かれるので、面倒になってくる。
先住の友人に聞くと「あれは挨拶だから、カジョ=北・クロッド=南(あっち・こっち)と答えておけばいいんだよ」と教えてくれた。
確かに、答えはどちらも「あっそ!=Oh ya!」でした。
まったくインドネシア語ができなかった頃のことで、その後すぐにジャラン・ジャランと答えるようになっています。
今では、おじさん、おばさんの姿も道端から消えて、こんな風景もなくなったようです。
ウブド人の屋敷を訪ねると、「もう食事は済んだ?=sudah makan?」と聞かれることがある。
日本語の "済んだ"とインドネシア語の "sudah"の発音が似ていて、にっこり。
遠慮するのも失礼だと考えていた私は、「まだです=belum!」と答えて、ご馳走になっていた。
たいていの家は、食事が作り置きなので、何かしらのナシ・チャンプルーが出てくる。
この時の答えは "sudah" が正しいようです。
それにしても、「belum=ブルム」と答えられて、家人も困っただろうな。
ひもじかった時代の名残りで、困ったらお互い様の気遣いが、挨拶の言葉になったのかもしれないね。

(ブルムと言って、出てきた食事@パチュン家)
とっておきの挨拶を伝授しよう。
たいてい、お休みなさいは "Selamat malam" か "Selamat tidur(寝る)" を使います。
しかし、ウブドの男性は違ってたね。
なんと「Minpi Manis=甘い夢をみて!」だった。
ちなみは私は、ミンピ・マニス派でした。
友人からのメッセージです。
スラバヤ出身のインドネシア語の先生は、最近はSelamat tidul は使わなくなりました、と言っていました。
ちょっとロマンティックな響きがあるみたい。
使うのは恋人同士、あるいは同居している家族だけ。
スラバヤルール、かも知れませんが。
Selamat siang・(午前の)こんにちは。
Selamat sore・(午後の)こんにちは。
Selamat malam・今晩は&お休みなさい。
これ以外に、ウブド人が挨拶に使っている言葉があるんですよ。
道端でおじさんやおばさんに「どこへ行くの?=ke mana?」と声をかけられる。
初めは、「市場に行きます」「ご飯を食べに」とか、丁寧に行き先を答えていた。
帰りには、「どこに行ってきた?=dari mana?」と聞くので、あそこに行って、ここへ寄ってと詳しく説明していた。
会うたびに聞かれるので、面倒になってくる。
先住の友人に聞くと「あれは挨拶だから、カジョ=北・クロッド=南(あっち・こっち)と答えておけばいいんだよ」と教えてくれた。
確かに、答えはどちらも「あっそ!=Oh ya!」でした。
まったくインドネシア語ができなかった頃のことで、その後すぐにジャラン・ジャランと答えるようになっています。
今では、おじさん、おばさんの姿も道端から消えて、こんな風景もなくなったようです。
ウブド人の屋敷を訪ねると、「もう食事は済んだ?=sudah makan?」と聞かれることがある。
日本語の "済んだ"とインドネシア語の "sudah"の発音が似ていて、にっこり。
遠慮するのも失礼だと考えていた私は、「まだです=belum!」と答えて、ご馳走になっていた。
たいていの家は、食事が作り置きなので、何かしらのナシ・チャンプルーが出てくる。
この時の答えは "sudah" が正しいようです。
それにしても、「belum=ブルム」と答えられて、家人も困っただろうな。
ひもじかった時代の名残りで、困ったらお互い様の気遣いが、挨拶の言葉になったのかもしれないね。
(ブルムと言って、出てきた食事@パチュン家)
とっておきの挨拶を伝授しよう。
たいてい、お休みなさいは "Selamat malam" か "Selamat tidur(寝る)" を使います。
しかし、ウブドの男性は違ってたね。
なんと「Minpi Manis=甘い夢をみて!」だった。
ちなみは私は、ミンピ・マニス派でした。
友人からのメッセージです。
スラバヤ出身のインドネシア語の先生は、最近はSelamat tidul は使わなくなりました、と言っていました。
ちょっとロマンティックな響きがあるみたい。
使うのは恋人同士、あるいは同居している家族だけ。
スラバヤルール、かも知れませんが。

