2025年07月09日

夏が来た・Tシャツとゴム草履の季節だ!(39)

「ウブドに滞在していて、何が良かったか?」と問われれば、「衣服に気を使うことがなかったこと」と答えるだろう。

ズボラな私は、一年中、Tシャツで過ごせるのが嬉しかった。

周りのウブド人は、質素な衣服だった。

私の対象は、男性です。

黄ばんだヨレヨレのTシャツには、穴が空いてることもある。

穴を補修するということは、考えはないのか。

洗濯機やランドリーのなかった時代だが、洗濯はこまめにしているようだ。

ここに、彼らの美意識があるのかな。

火葬儀礼で支給されたTシャツや、観光客からのプレゼントと思われる日本語の書かれたTシャツ姿を見かける。

一部のお洒落さんを除いて、衣服に興味を持つ男性はあまりいないようだった。

普段着は質素だが、オダランの時にはオシャレして参加している。

いっとき、オダランの衣装に、男子専科「ミスター・バリ」のワイシャツが人気だったことがあった。

御多分に洩れず、私も購入していた。

私は、できる限り周りのウブド人と合わせるように心がけている。

外出着は、気楽なTシャツとズボン。

部屋では半ズボンを履くが、肌を見せるのはタブーと聞いていたので、外出するときは長ズボンと決めている。

履物は、もちろんゴム草履。

スコールのあるウブド。

一雨くれば、道路は川になる。

ゴム草履は、必須でしょう。

デンパサールへの買い物や、友人の迎えに空港に行く時やホテルを訪れる時には、靴を履く。

田舎から、都会に出る感覚だったんだろうね。

昭和世代は、これをTPOを言う。

ビザの書き換えでシンガポールに行った時、いつもの癖でゴム草履のまま飛行機に乗ってしまい、さすがに恥ずかしかったのを覚えている。

いっとき、パジャマだったりネグリジェ姿の女子をパサールで見かけたことがあったが、あれはオシャレだったのか。

観光客が多くの訪れるようになって変化したのは、ウブド人がオシャレな服装をするようになっていたこと。

娘さんのミニスカートやショートパンス姿も見かけるようになった。

無頓着な衣服で生活していた私も、あまり貧相な衣服では観光客として失礼だろうと、外出着はできるだけ穴の空いていない色落ちしていないTシャツを着るように心がけるようにした。


日本に帰ったのが冬ということもあって、靴下と靴を履く生活になっていた。

冬が過ぎ、いつの間にか春も終わり、厚着をしなくなった。

今では、生活圏である下石町でのゴミ出し、コンビニ&スーパーでの買い物、喫茶店への徘徊は、部屋着のまま外出だ。

あれっ、ウブドと変わらない生活してるな。

でも、今日からはゴム草履で外出だ!


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(写真はウブド滞在中:プリアタンのサテ屋で遭遇した友人家族)
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2025年06月23日

猛暑の夏が近づいてきた!(38)

日本の夏は、近年、半端ない暑さと聞いている。

35年前とは段違いで、熱中症でなくなる人もいるそうだ。

私は日射病という言葉しか知らなかった。

最近も数人が亡くなっている。

多治見市で37度を越した日があった。

土岐市は、隣町なので同じように暑い日だった。

実はこの日、自転車で炎天下を走っていた。

帰宅したら身体がだるかったので、軽い日射病だったのだろう。


「極寒❗️」と叫んだ、寒い冬が終わると、あっという間に、暑い季節。

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今度は、「極暑❗️」と大騒ぎする日が来るのか。


寒い時には、厚着をすればしのげたがが、暑さは、薄着から次第に衣服を脱ぎ、最後は裸。

裸になれば、それ以上は脱ぎようがない。

未開の地でもリゾート地でもないので、室内はまだしも、裸で外出はできない。


クーラーは必須だと言われたが、クーラーの風に当たるとすぐに風邪を引いてしまう私には、辛い。

しかし、クーラーに弱いなんて言ってる場合じゃないようだ。

クーラーを使う時間&期間を短くしたいくて、先日、扇風機を購入した。

仕事をしていないので、暑い日は、外出しなけれは、いいだけの話。

と思いきや、室内でも熱中症になるという。

怖い怖い!
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2025年06月13日

名古屋の百貨店分布図が変わっていてビックリ !(37)

私がウブドに沈没している35年の間(1990〜2024)に、名古屋の百貨店分布図が変わっていてビックリ。

名古屋の老舗百貨店・松坂屋の屋上から松坂屋の文字看板が下ろされる写真を、グーグルで見た。

気になって、他の百貨店を調べてみると、すでに撤退した店と来年に営業終了する店とがあった。

私の記憶には、名古屋には4つの百貨店がある。

栄地域に、松坂屋百貨店、丸栄百貨店、オリエンタル中村百貨店の3店舗。

名古屋駅前には、名鉄百貨店。

名古屋に興味ない人には、知らない名前ばかりで、興味のない話になってしまいますが、まあ聞いてください。


●一番初めに姿を消したのは、オリエンタル中村百貨店。

ルーツは、1869年の「中村呉服店」。

私が店舗デザイナイーの仕事をしている頃の1980年に閉店した。

日本万国博覧会の翌年1971(昭和46)年11月、岡本太郎氏制作の壁画「天に星、地に花、人に愛」(写真)が飾られたのは全国的なニュースになった(はず)。

1971年代名古屋栄の交差点を彩っていた花・星・人.jpg

1972年、手作り屋(町売り)の仲間を集めて、大津通り沿のウインドー前でフリーマケットを開催したことを思い出す。

この頃の手作り屋は、ほとんどヒッピー風の風体だったので、百貨店側としては英断だったと思われる。

当時の宣伝部には、好奇心の強いデザイナーが多く在籍していたので可能だったのだろう。

催事場で、フリーマーケットを開催したこともあったな。


●丸栄百貨店のルーツは、1615年の呉服店「十一屋」。

2018年6月30日閉店。

所有していたのは、コルゲンコーワで有名な興和株式会社。

栄町ビル、名古屋観光ホテル、キャッスルプラザ、ウエスティンナゴヤキャッスルを所有している。

今後の栄地域の再開発が楽しみな会社です。

栄町ビル内の狭いスペースを利用して、若手オーナー達の夢の詰まったショッピングエリアの企画に店舗デザインとして参加したことがあったな。


●松坂屋百貨店のルーツは、1611年の呉服小物問屋「伊藤屋」。

2007年に大丸と経営統合して「J・フロントリテイリング」となった。

統合したあとも、松坂屋の名前は残っていた。

2024年6月10日に、看板の撤去作業が写真にアップされている。


●残りの一つ、名鉄百貨店は、1954年に名古屋鉄道のターミナル百貨店として創業。

2026年2月29日には、営業終了する。

ナナちゃん人形は、何処え!(写真)

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来年には、4百貨店とも姿を消すことになる。

百貨店(デパート)という業態が、もう古いんだよね。

名古屋駅前の再開発に伴い、名駅前から栄までを一体化した面として発展していくことになれば楽しい街になるかな。


今回の〆の言葉。

名古屋に戻ると、こうやって変化したことを、懐かしんだり嘆いたりすることになる。

嫌いじゃないのですが、懐かしむのはウブドだけでにしたい。

移住した土岐市は、予備知識のまったくない町。

そういう意味では、ウブドに立ち寄った時と同じ状況。

歴史や文化を学び、人々の生活を垣間見るのが楽しい。

今の私の好奇心を満たすに、最適な土地柄だった。

もちろん頼りになる友人が居ることが、心強くての移住ですがね(これが一番大事)。
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2025年06月08日

年寄りの愚痴を聞いてください!(36)

身体のあちこちに、不都合が現れてきている。

老眼の度は順調に進み、この頃、寝不足かスマホの見過ぎか瞼の下に違和感。

虫歯は、2ヶ月前に治療してもらい、現在は月一の定期チェック。

鼻の嫌な匂いはするが、花の香りを嗅ぐことができなくなった。

ひと月ほど前、耳鼻咽喉科に行くと、ドライノーズ(鼻の粘膜の乾燥)と診断された。

一度きりの診察で、あとは自分で対処とのこと。

不安ながらも、自己治療中。

耳はまだ、遠くなってはいないようだが、最近の言葉は聞き取り難いです。

今のところ、内臓に問題はないみたい。

健康に産んでくれた両親に感謝です。

「お前は頭が悪いが、身体だけは丈夫だから!」なんて、オヤジに励ましてもらったことを思い出す。


気力体力、記憶力も落ちてきている。

お腹は出てきたが、枯れてやせ細っていく。

これを老化と言うんだろうな。


今年になって、数人の友人が星になっていった。

友達という財産が、砂くずしのように削ぎ落とされ、残された枯れ木になっていく気分。

老化の寂しさよりも、こちらの方が辛い!

ごめんなさい、年寄りの愚痴で。

きっと年寄りが集まると、こんな内容の話ばかりになるんだろうな。

年下の友達を募集します。

今でも、ほとんど年下か!
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2025年06月02日

”関係人口”と”二拠点生活”について思う(35)

つい先日、地方創生・町おこし・村おこし的な会報誌で、”関係人口”と言う言葉を知った。

「観光以上」で「移住未満」の第三の人口のことを言うらしい。

『移住はできないが地域に興味があり、自分の暮らしている場所以外にも拠点を持つ人が増えている』と書かれていた。

なるほど、こういう言葉があるんだと認識した。

昔々から、こういった暮らしをしている人はいる。

1990年初頭までのウブドは、バックパカーの通過地点だった。

これから世界一周旅行を始める人、世界一周旅行の帰路に立ち寄った人が多かった。

信仰、文化、慣習に興味を持つ旅人が多く訪れるウブド。

それは、昔も今も変わらない。

1990年半ばから、ウブドに滞在する人の種類が変わったように感じる。

年に、何度も訪れる人。

インドネシアで取得できる観光ヴィサの最長2ヶ月を利用して、滞在する人。

ヴィラを借りたり、自分で家を建て別荘として利用している人。

第二、第三の故郷として訪れている。

地元の人々は「いつ帰ってきたの!」と迎える。

長期滞在者も私も「お帰りなさい!」と声をかける。

この人たちは、リピーターと呼ばれている。

リピーターは、”関係人口”だったのだ。


”二拠点生活”という言葉も、よく聞く。

『2つの異なる地域に生活拠点を持ち、両方を使い分けて生活するライフスタイル。

平日は都市部で仕事をし、週末は地方で過ごすといったパターンが挙げられます。

都市の便利さや地方の自然など、異なる環境を同時に楽しむことができる点が魅力です』と説明されている。

昔々から、こういった暮らしをしている人はいた。

”関係人口”と違うところは、住居を持っているということかな。

これだと別荘族と一緒だ。

大きな違いは、二拠点で収入を得ているということかも。

若い人が増えているというが、就業者の過疎地への移住はハードルが高いので、比較的都会に近いところでの二拠点生活者が多いと考えられる。

二拠点での子育ては可能か、など問題点は多々あるように思う。

”関係人口”と”二拠点生活”の今後を、注目していきたい。

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2025年05月21日

昨日は暑かったね!(34)

前日が雨模様だったので、昨日はルーチンのチャリ・アンギン(cari angin=風を探しに)。

目的地は、何度訪問しても入店できていない珈琲店。

五度目のリベンジ。

今回は、叶いそうな予感がしている。

午後に出発して30分経過、登り坂手前の木陰で小休止。

登り坂は、自転車を引いていく。

あれっ、今日も臨時休日!

なかなか、リベンジできないな。

私の予感もアテにできない。


帰路は下り坂なので、快適に帰れる。

待てよ、折角ここまで来たのだから、グーグルマップで見つけた店に寄るのもありかな。

まだ体力はある。

登り坂が続くが、目的地変更だ。

心配なのは、この暑さ。

信号で止まると、暑さが身体を包み、熱中症が心配になる。

日陰があれは休憩しようと、自転車を引きながらあたりに注意をはらう。

太陽が真上にあるのか、日陰を作っていない。

森を切り開いた道には、木陰もなかった。

ひと山超えて、下り坂になった。

もう少しの辛抱だ。

あれ〜っ!

変更した店は、昼の休憩中。

暑さで、感が鈍ってしまったか。

いまだに、土岐市の飲食店の営業時間が把握できないでいる。


近所に日陰がない。

あきらめて、帰宅途中で店を探すことにした。

帰路は下り坂。

ここからは暑さとの戦いだった。

立ち寄りたい店がない。

やっと見つけた日陰。

堤防の木陰で、一休み。

今後のルーチンは、曇天を選ぶことにする。

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2025年05月19日

2025年05月19日:闇に棲息する輩と共存するバリ人(33)

一日は、太陽のある陽の半日と、太陽が隠れる闇の半日とがある。

陽と闇の間には、夜明け(かはたれどき)と夕暮れ(たそがれどき)と言われる、曖昧な時間帯がある。

夜明けは、山々の頂、木々草花の先から明るくなり、正に地球が目覚めていく感だ。

夕暮れは、森の奥、深い谷間から、そして地面の底から暗くなっていく。

夜明けの清々しい気分に比べ、夕暮れは物悲しく感じる。

陽の中間地点は、昼12時。

闇の中間地点は深夜0時だ。

境目にあたるこの時間は、霊力の強い時間だと言われている。

オダランの奉納芸能で、悪魔払いのチャロナラン劇が、深夜0時を挟んで行うのも、こんな理由があるからだろう。

人間は陽の時間に生きている。

不眠症でない限り、昼間眠ったからといって夜眠れないということはない。

夜間の仕事で睡魔が襲ってくるのは、この時間は眠るのだと人間の身体ができているからかも。

暗い所だと眠れるのは、養鶏場の鶏が電灯の明かりで夜明けだと勘違いするのと似ている。

鶏は夜明けを告げる陽の動物。

フクロウは闇の世界の門番。

一日の半分である闇の時間に活動する何かが、生存していてもおかしくはない。

闇の深いところには、魔物がいると言う。

夜、出歩かないように、怖い話が作られたのも、闇の住民に迷惑を掛けないように心掛けて生活しないと、災いがふりかかってくるという教えかもしれない。


月が隠れるティラム(闇月)の夜。

バンリの山深い村の寺院祭礼で、チャロナラン舞踊劇を観ている途中、小用をたしに林に入った。

見上げると、満天の星。

月の出ないティラムの夜は、いつもに増して星の数が多い。

黒い雲が近づいてきた。

雲は一瞬にして、それまで輝いていた星の光を遮り、見えなくした。

眼の前が暗幕を張ったような闇になり、足元も見えなく、自分の身体さえ確認できない。

一歩踏み出せば、そこには地面がなく、奈落の底に落ちそうな気がして動けない。

前に進むことも、後戻りすることも出来ずに立ち尽くした。

不穏な静寂に包まれ、物の怪に取り憑かれたような不安に襲われた。

人間の三大恐怖の対象は、暗闇、落下、蛇だという。

この場で、大嫌いな蛇に足首を巻かれたら、私はきっと気絶するだろう。

気絶した私の身体の上を、無数の蛇が這いずっている。

空想を振り払うように、私は、首を左右に強く振った。

眼が慣れるにしたがって、ほのかな明かりが確認できるようになってきた。

木々のシルエットの向こうに、寺院祭礼の灯りが美しく見える。

闇の世界からは、陽の世界がこう見えているのか。


電気が発明され、闇の部分が少なくなったおかげで、闇に棲む輩の時間や場所が少なくなった。

闇夜に徘徊する人間どもを彼らは、どんな気持ちで観察しているのだろうか?

そんなことを考えさせられた体験だった。

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2025年05月16日

このあと、チョット怖い体験をした(32)

クニンガンのあと15日後に、トゥブサヨ村にあるダラム・プリ寺院でチャロナラン舞踊劇が奉納される。

今年は、2025年5月18日。

いつから、どんな理由で毎年奉納されるのか知らないが、毎年、多勢の人々が鑑賞に来る。

地元以外の村からも来ている。


私が最初にダラム・プリ寺院のチャロナラン劇を見たのは、1990年のこと。

寺院は、鬱蒼とした木々に囲まれた小高い丘の奥にあった。

舞踊劇は、土煙が上がる寺院の前庭広場で行われる。

広場には、30近くの屋台が不規則に建てられ、ケロシン・ランプの灯の中で営業していた。

チャロナラン舞踊劇は、夜10時頃から始まった。

滞在始めたばかりで、バリのことをまったく知らない。

それでも、なぜか興奮した。

人垣の肩越しに芸能を覗き込もうと、小さく盛り上がった土に登って見ている人がいる。

時々、盛り上がった土が沈む。

あとから聞くと、足元は埋葬場で、こんもりと盛り上がったところは「火葬前の死者が埋葬されている場所だ」と教えられた。

私もその上を、無造作に歩いていた(ごめんなさい)。

舞踊劇は、深夜2時頃まで続いた(内容に記憶がない)。


このあと、チョット怖い体験をした。

終演後は、真っ暗なウブド大通りを歩いて帰る。

私は、カジェン通りにあるロジャース・ホームステイに滞在していた。

観客は、四方八方帰路につく。

人の姿が、だんだんと減る。

そして、私ひとりになった。

カジェン通りの入り口に立つと、ロータスの見える池の横を流れる小川の中にボーッと人影のような物体が見えた。

深夜2時過ぎに、マンディ(水浴)する人もいないだろう。

しかし、誰かいるように感じる。

精霊がいても不思議じゃないウブド。

先ほど舞踊劇で見た悪霊かもと、思ったら怖くなってきた。

道は狭く、すれ違いたくない。

後ずさりして、遠回りをしてホームステイに帰った。

物体の正体はわからない。

明るくなってからのウブドで、こんな経験をすることはなくなった。

(資料:ミクシー2006年05月28日)
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2025年05月13日

今回は慢性副鼻腔炎(ちくのう症)のチェックです(31)

今日は、人生2度目の耳鼻咽喉科に行った。

1度目は小学校の低学年の頃に、鼻の穴にピーナッツを入れて取れなくなった時。

入れた理由は覚えていない。

鍵っ子で一人遊びをしていて、実験したんだと思う。

何の実験か知らないが。

ピーナッツを取り出そうとするのだが、どんどん奥へ入ってしまう。

縁側でうずくまり焦っていたことは、おぼろげに記憶している。

母が帰って来るのを待って、病院に行ってピンセットで取ってもらった。

これが原因で、右の鼻の穴がちょっと大きい。

今回は、慢性副鼻腔炎(ちくのう症)のチェックです。

ウブド滞在で70歳を超えた頃から、鼻風邪をひくことが多くなった。

昨年末は、アレルギーかと思わせるほど酷かった。

日本に戻ってから鼻水に粘り気があり、時々、血が混じる。

鼻の奥が、ドス〜ンと重い。

ひと月ほど前から、嫌な匂いがするようになった。

鼻が詰まった感覚で寝付けなく、寝不足気味。

症状が出てから6ヶ月。

病院は嫌いだけど、行くしかないと思うほど辛い日々。

そんな時、「蓄膿症で手術した友人がいるよ!」の情報で、さらにビビる伊藤。


重い足を引きずって「ばんの耳鼻咽喉科」の扉を開ける。

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病院内は清潔で、スタッフの対応も優しく、親切、丁寧。

検査椅子に緊張でかしこまって座る私に、先生は鼻鏡、ファイバースコープを使って、わかりやすく症状の説明してくれる。

ファイバースコープの時は「ガンのチェックもしておきますね!」と呟いた。

診断結果を専門用語で言われたが記憶できなかった。

鼻の粘膜の乾燥と理解した。

あっという間に、診察は終了。

おしぼり保温の説明を受け。

ささゆり薬局で、錠剤とスプレー式の薬を渡され。

通院は無し!
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2025年05月11日

バリ犬のウンチクに、お付き合いください(30)

ウブドを訪れ、道を歩いていて、犬に吠えられた経験をした人がいるだろう。

一匹が吠えると、次から次へと犬は門前に現れて吠える。

犬は、テリトリーがあるかのように飼い家の前で吠えて、道行く人を威嚇する。

何匹かで吠えたてて向かってきたり、自転車やバイクで通る人を追いかけたりすることもある。

通り過ぎれば、吠えるのを止める。

バリの犬は、吠えるだけで決して噛みつかないと言われているが、そんなことはない。

実際に噛まれた人もいる。ひとりの時に囲まれると、結構怖い。

犬は、インドネシア語でアンジン(Anjing)、バリ語ではチチン(Cicin)、バリ語の丁寧語でアス(Asu)と言う。

子犬はバリ語でクルッ(Kuluk)と呼ばれる。

バリ犬のルーツは、小さく逞しい身体が特徴のカチャン(豆)犬だと言われている。

バリ島で人間の営みが始まると同じ頃から、カチャン犬は人間と共存していたようだ。

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もう一種類は、バリ島中央部バトゥール周辺に生息する毛足の長い犬キンタマーニ犬。

12世紀から16世紀にかけてバトゥール地域にやってきた中国人が持ち込んだチャウチャウ犬とカチャン犬の混血したのが起源だと言われる。

この他に、バリ・ダルメシアン犬と呼ばれる、白い毛並みに黒い斑点を持った犬がいる。

この犬は、クタに居住していたデンマーク人、ヨハンセン・ランゲ(1839年に居住、1856年死去)がバリに持ち込んだダルメシアン犬がカチャン犬と混血だとされる。

インドネシアへの犬の持ち込みは、厳格な検疫手続きと輸入許可の取得が必須であり、完全に禁止されているわけではない。

しかし、バリ島は狂犬病発生地域と指定されているため、犬の持ち込みには厳しい制限があるようだ。

バリには、愛犬家にとって辛い慣習がある。

バリ人の信仰するヒンドゥー・ダルモの儀礼には、赤茶色の毛並みに、鼻先と尻尾の先が黒い子犬が神への生け贄として捧げられるのだ。

犬を使った諺を調べてみた。

「インドネシア語ことわざ用語辞典」(大学書院)から、特に代表的なものを4つ紹介する。

1)"Seperti anjing dengan kucing"「犬と猫のようだ」(犬猿の仲)

2)"Seperti anjing berebut tulang"「骨を奪い合う犬のようだ」(財産を奪い合う欲張りな人)

3)"Bagai anjing menyalak di ekor gajah"「犬が象の尾に吠えるようだ」(負け犬の遠吠え)

4)"Anjing menyalak tak akan menggigit"「吠える犬は噛みつかない」


「極楽通信・UBUD」34「バリの犬(Anjing)」
https://informationcenter-apa.com/gt_anjing.html
posted by ito-san at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 土岐市に移住 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする