2024年04月04日

あの坂本龍一氏も訪れたマンディ場 @グヌン・カウィ寺院 スバトゥ村(530)

友人からのメッセンジャーに、家族の近況報告とユーチューブ動画が送られてきた。


動画は「1985年 音楽の旅はるか 坂本龍一YAS-KAZU バリ島」だった。


神々と電子音楽の饗宴




友人は、坂本龍一の超々崇拝者。


坂本龍一33歳の姿とバリの風景に感動する。


動画の中でマンディ(水浴び)する場面がある。


どこだろうと、場所が気になって、何度も見返した。


テロップには「プジョン」とある。


スバトゥ村で、録音したという話は有名だ。


もしかするとプジョンは、プジュン=Pujungのことだろうか。


プジュンなら私も知っている。


グヌン・カウィ寺院(Pr.Gunung Kawi)スバトゥが位置する集落がプジュンだ。


村人は、この辺りをプジュンと呼ぶのが通例。


余談だが、テガラランのライステラスは、村人にはチキン(Ceking)テラスと呼ばれている。


坂本龍一とヤスカズが入ったマンディ場は、スバトゥのグヌン・カウィ寺院だと確信を持った。


あとは、確認するのみ。




そして、愛バイク・スクーピーを転がして行ってきました。


ウブドから北上すること約10キロ、テガラランのライステラスを過ぎた、小さな村。


パサールのある十字路を右折。


メイン道路を外れるので、少し不安になるほどの田舎道をしばらく走って左折すると、左手に見下ろす形で寺院が見えてくる。


グヌン・カウィ寺院 スバトゥは、見下ろしたことはあるが参拝したことはない。



バイクを止め、ローカル価格Rp20,000-を払って入場

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門を入ると、右手に鯉が泳ぐ池が見える。

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May Peace Prevail On Earth(世界人類の平和でありますように!)の表示板

ウブドにもあったのを思い出す

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奥の寺院にいる村人が、お供えの花とお香を用意してくれる

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故・坂本龍一氏 とヤスカズ氏が入ったマンディ場



正式には、ムルカット(聖なる沐浴)場です。


1985年の映像では門柱に、右側が男子(pria)で左側が女子(wanita) の表示になっていますが、現在表示はありません。


マンディとして使用されていた頃は、男女別のマンディ場だった。


いつの頃からか、左右どちらも使うムルカット場になったということでしょう。


正装はしてきたが、濡れても良い準備をしてこなかったので、ムルカットは次回に持ち越すことにした。





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2024年03月24日

34年目にして、マディ・クルトネゴロ氏と初対面!(529)

ウブド東端の十字路を北に向かうアンドン通り。

銀行の支店が10軒ほど出店している地域。

ガソリンスタンドにスーパー・マーケットが2軒とレストランが並んでいる。

私が滞在始めた1990年5月頃には、何もない通りだった。

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そんな場所に、ユニークなアート・ギャラリーがあることは聞いていた。

マディ・クルトネゴロ(Madi Kertonegoro)氏のアトリエ「Future Peace Art Gallelry」だ。

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1994年、ダヤ・ヌラニ・デワ・カトン(「直観力による知覚の光」の意味)という名のヨーガ学校を開設。

2冊の日本語版の本に出会って、マディ氏を知る。

マディ氏著・日本語訳は、武内邦愛(愛称クニ氏)。

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(スピリット・ジャーニー/1990年7月15日・発行)

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(ウブッド十字路の番人・バリ島今昔譚/1997年4月15日・発行)


90年代初頭は、徒歩で行動していて、アンドン交差点から北へ行くことがなかった。

クニ氏とフェイスブックで繋がる機会に恵まれ、マディ氏の経営するジャムウ・カフェの情報を得た。

バイクを乗る生活になっていたので、機会を見つけて出かけた。

2024年3月、何度目かの訪問。

常席である、道路側のカウンター席に先客がいたので、奥のテーブル席に腰をおろした。

ターメリックのジャムウを注文して、展示テーブルの本に手を伸ばした。

手にした本は、英語版「ウブッド十字路の番人・the guardof ubud corner」だった。

英語版には、挿し絵が多くあった。

作家の思うところの説明がありそうな抽象画。

原画はカラフルだと想像できるが、残念なことに、コピー用紙で製本したような本の挿絵は白黒だった。

蔵書に興味を持ったことを、スタッフが知らせたのか、クマディ氏の奥様を伴っていた。

初対面である。

訳者のクニ氏の友人だと伝えると、クニ氏を思い出したのか、懐かしそうに喜んでくれた。

「これらの絵は観られますか?」と聞くと、ギャラリーがあると言う返事。

購入した本代の支払いを済ませ、ジャムウを飲み干し、奥様に案内してもらいことにした。

カフェエリアと屋敷を隔てる門をくぐる。

1990年以前に建てられたであろう、写真で見た2階屋の階段を上る。

ギャラリーには、気になった絵は飾られていなかった。




ギャラリーを出て、さらに奥に進むとムルカット場になっていた。

屋敷寺もある。

現在マディ氏は、高僧の位を取得して宗教活動をしているという。

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写真を撮っていると、母屋からマディ氏が登場した。

33年目にしての初対面である。

若い頃の写真で存じ上げているだけの人物だが、初対面とは思えない親近感だった。

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「クニによろしく伝えてください!」

ご夫妻の言葉をいただいて、帰路に着いた。





ジャムウ・カフェ『Jamu Ubud Sehat』@アンドン通り・ウブド


■ジャムウ・カフェ『Jamu Ubud Sehat』@アンドン通り・ウブド(524)
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/502423765.html

■マディ・クルトネゴロ氏のアトリエ発見!@UBUD(415)
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/486244064.html

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2024年03月22日

「ALAS HARUM」のナイスビューが Rp50,000-で鑑賞できるって、ホント!(528)

ウブド近郊に、ルアック・コーヒーの店が出店し始めたのは、いつ頃のことだろう。

どの店も、渓谷沿いの広い土地を所有している。

ルアック・コーヒーの説明、選別、焙煎などのプロセスを見学できる。

インドネシアのコーヒー各種をデミタスカップで無料で提供し、ルアック・コーヒーも試飲できた。

帰路は、土産コーナーの前を通らなければならない導線になっていて、買い物を誘導する。


スゥイング(ぶらんこ)が人気になったのは、いつの頃だろう。

インスタグラムが普及し「インスタ映え」という言葉が流行した時代か。

日本では、2017年の流行語大賞になっている。

ルアック・コーヒーとスゥイングがセットとなった店が増えた。

テガラランのライステラスにもたくさんのスゥイングができている。



今回、私が訪れたのはルアックコーヒーの店「ALAS HARUM」。

ルアック・コーヒーもスゥイングにもまったく興味がない私が、なぜ、訪れる気になったのか?

それは、友人のフェイスブックに写っていたプールが、元店舗デザイナーの創造心を刺激したから。

印象に残っていて、是非一度訪れてみたいと思っていた店が「ALAS HARUM」だった。


テガラランのライステラスがある地域にあり、駐車場にルアックの大きなモニュメントがある。

前を通り過ぎる時があるが、いつも観光客で溢れている。

ルアック・コーヒーとスゥイングの施設で、なぜ、こんなに繁盛しているのか疑問だった。

渓谷を見下ろす、ライステラスを模したようなプールがある。

人気の理由は、これだ。

もちろん、スゥイングも根強い人気だ。

写真を見た時は、高級レストランだと思って敬遠していたが、リピーターの友人の説明を受けると、入場料Rp50,000-だとのこと。

諸々の施設を使わなければ、その金額で見学できる。


入り口には、ルアックの大きなモニュメントがある。
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ライステラスをイメージたかのようなプールは、おしゃれで美しい。
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従来のテガラランのライステラス・ビューは、隣接するレストランが共有しているが、「ALAS HARUM」は、その場所と少し離れた位置に、対岸までのライステラス・ビューを独占していた。

ルアック・コーヒー&スイング&プール&レストラン&カフェ&散歩コースと施設が充実。

入場料金:Rp50,000-(何も利用しなければ、この金額で景色を楽しめる)

駐車料金:無料





『付録・読み物』

私がウブドに滞在を始めた頃のテガラランのライステラスは、こんなところだった。

1990年6月、日本で東南アジアの雑貨を扱っている友人に頼まれて、木彫のバリ土産を受け取りにテガララン村に行く途中、右手に見えた風景が、

人生42年で初めて見る美しいライステラスだった。

ガイドのワヤン・カルタ君に「車を止めて!」と叫んだ。

カルタ君は「普通です!」と、ひとこと言って通り過ぎてしまった。

こういう景色が私は見たいのです、と伝えると、帰路は立ち寄ってくれた。

今のように道沿いに店はなく、道路から眼下に、そして対岸に田んぼの風景が続いていた。

箱庭のような景色に感動した。

ここは、土産物を求めるバイヤーしか利用しなかった道。

キンタマーニ高原に行く観光客は、ゴアガジャを見学してタンパクシタンを経由するルートがメイン。

観光客が増えると同時に、ライステラスは急速に観光地化していく。

友人を伴って何度か行ったが、レストランが増え、スゥイングが人気になったころから、私はほとんど行かなくなった。

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2024年03月15日

将来、どんな職業につきたいですか?(527)

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あなたは、何歳の頃から将来の職業を考えていましたか?

今回は、私の話を聞いてください。
私は中学生の頃、百貨店の宣伝部に在籍していた長兄の蔵書の影響だろうか、おぼろげにデザイナーになりたいと考えていた。

デザイナーといっても様々あるようだが、具体性はなく、ただただおぼろげにだった。

高校では美術部で商業デザインを学んだが、将来の仕事につながる技術が身につくはずはない。

怠惰な高校生活を送り、卒業後の生活設計はない。

親父は学校の成績が悪い私に「どこかに丁稚に行け!」と就職を進める。

学校から大学進学を推薦されるほど優秀だった長兄、次兄の進学を諦めさせるのが、よほど辛かったようで「お前と変わっていたらよかった」と辛辣な言葉を吐く。

私は高卒で社会人になることが怖くて、大学進学を希望した。

長兄と次兄は、自分が進学できずに苦労した経験から、私の大学進学を応援してくれた。

具体的に将来を描けない私は、美術大学を諦め、商学部のある大学に入学した。

どんな職業につくか、いまだに想像できなかった。

大学でも、美術部に在籍したが就職に役に立つレベルではない。

石膏デッサンは得意だが、オリジナルのイラストやファッション画はまったく創造できない。

大学生活も三年が終わろうとしていた。

此の期に及んでも、希望する職業が想像できない。

そして、未だに社会に出るのが怖い。

留年して海外へ一年の放浪の旅に出ることにした。


この旅が私の大きな転機となったようだ。

金がない、度胸もない、英語もできないの、無い無い尽くしで旅に出た。

「自分探しの旅」と言う、言葉もない時代。

1969年から1970年、20〜21歳でした。

無事放浪から戻り復学し、卒業。

就職先は、長兄の縁故で新設の空間設計会社に就職できた。

どれだけ長兄に世話になるのだ。

ほんと自分では何にもできない不甲斐ない男です(今でも変わらない)。

この会社に入って初めて、自分は店舗デザインがしたかったのだと気づいた。

デザイン画、設計図面は、独学。

新規会社なので顧客はなく、営業する必要があった。

私は地元での就職なので、友人からウインドーディスプレイ、看板などの仕事がもらえた。

同僚は、東京の美術学校卒業生。

就職と同時に「人畜無害」と銘打った雑貨屋を開店。

この店で培った人脈から、店舗設計の仕事が入るようになる。

設計の仕事は会社で受けていたが、二足のわらじを嫌う会社から、二択を迫られた。

私は3年(23〜26歳)で退職。

その後は、フリーランスの店舗デザイナー。

喫茶店、ブティック、レストランなどを手掛ける。

これが天職だろうと認識するが、他にもやりたいことが見つかると、手を出していた。


今回のブログで何が言いたいかというと、誰にでもこんな転機が訪れるだろういうこと。

人それぞれ、転機の書類は違うだろう。

どれが転機か気がつかないかもしれない。

私の場合は、「放浪の旅」がキーポイントだと思われる。

放浪の旅が、人格を豊かにしたとは思えない。

逆に、不甲斐なさを認識した旅だ。

大学生活が終わった時点で、何も変わっていなかった私が、社会人になって流れが変わった気がした。

外見も中身も一向に向上したわけではないが、私を取り巻く状況に厚みが帯びてきた。

何かに向き合って向上しようとする人々との交流が広がっていったのです。

自分独りでは何もできないということを実感した年月(23〜42歳)でした。


2度目の転機は、ウブド滞在(42歳〜)となった。

立ち位置を変えることが転機に繋がっていると、今は思える。

そして今、人生最後となるであろう3度目の転機が訪れるのを待っている!

posted by ito-san at 18:01| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月11日

ニュークニン村に移店した「和食・影武者」を紹介していなかった!(526)

影武者は、2014年5月24日に現在のニュークニン村に移店して、すでに10年を経っているのにブログで紹介していなかった。

動画で紹介。


オープンは1991年7月25日に、プンゴセカン村にて。

10年後に、裏に移転。

ニュークニン村は、3度目の移転でした。

各店舗で、10年ほど営業しています。

あなたは、どの時代の「影武者」をご存知ですか。


なにげに飾られている私の作品は、私の一存で置いてもらっているのです。

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「影武者」創設期の話はこちらで!

極楽通信・UBUD :17「お疲れさまでした、居酒屋・影武者」
https://informationcenter-apa.com/gt_kagemusha.html


和食・影武者(Kagemusha)写真集・1990年〜1991年 @ Ubud・Bali



posted by ito-san at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月01日

バリ伝統絵画から脱却し、ユニーク画風で有名になった天才画家・Mokoh!(525)

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グスティ•サナ・ギャラリー蔵


天才デワ・プトィ・モコ(Dewa Putu Mokoh)は、 1936年プンゴセカン村で生まれ、2010年にこの世を去った。

プンゴセカン村と言えば、ご存知のように、花鳥風月モチーフにしたプンゴセカン・スタイルで有名な地域だ。


まずは、彼の生い立ちを調べてみよう。

父親デワ・ライ・バトゥアンは、ウンダギ(バリの伝統的建築家)であり有名なガムラン音楽家、母親グスティ・ニアン・ライは、ラマック(お供え物の装飾)作りの専門家。

そんな両親から、6人兄弟の長男として性を授かる。

小学校に相当する人民学校(SR)で、わずか3年間の教育を受けただけ。

幼い頃から画家になりたいという夢を持ち、15歳頃から絵の勉強を始めた。

しかし父親は、画家になりたいという彼の願望に反対した。

父親にとって、絵を描くことは単なる時間の無駄であり、収入にはならないと考えていたのだ。

アヒルや牛を飼って野良仕事を手伝うことを強く望んでいた。

モコ氏は、水田で働くのに忙しかったが、時間を見つけては叔父のグスティ・クトゥッ・コボックとグスティ・マデ・バレットの家で遊ぶことが多かった。

叔父たちが絵を描いているのを見るのが好きだった。

そして手ほどきも受けた。

スケッチ、カラーブロッキング、シェーデイング、ハイライト、グラデーションなど、多くの伝統的なテクニックを学んだ。


その後、1929年からウブドに住んでいたオランダ人画家ルドルフ・ボネット(1895〜1978) と出会う。

ボネット氏は、ピタマハ・グループ(1936)とウブド画家グループ(1951)の創設者の一人。

モコ氏は、叔父たちから学んだ絵をボネット氏見せたがった。

その絵は、バリの伝統絵画でした。

ボネット氏は、モコ氏の伝統的なテーマに焦点を当てたコボックやバレットの足跡をたどるのではなく、自分自身の創造性を模索することを提案していた。

ボネット氏はモコ氏に現代絵画の原則を教えます。

これには色の認識、色の混合、構成、自分自身の創造性の発見テクニック、そして絵画における自由の原則が含まれていた。

ボネット氏との接触の結果、モコ氏は悟りを経験します。

優れた絵画とは、画像領域を満たす複雑な構成を持つラーマーヤナやマハーバラタのテーマを持っている必要はないことに気づいたのです。

モコ氏にとって優れた絵画とは、身の回りの物体をモチーフにしたり、単純な着色技術や画像処理を使用して空想や想像力に基づいて作成したりすることだ。

画家は、あえて異なるスタイルや対象を使って絵を描き、新たな可能性を探求しなければならない。

時間が経つにつれて、モコ氏の絵画のテーマは非常に多様になっていった。

日常生活、動植物、民間伝承、子供の世界、ファンタジー、エリティカ、または興味を引いた単純なものを穏やかな筆致で、ユーモラスで無邪気、そしてしばしば驚くべき物語を描いていた。

モコ氏の絵は、国内の展覧会に加えて、アメリカ、オーストラリア、デンマーク、フィンランド、オランダ、ドイツ、イタリアを含む海外の多くの共同展覧会に出品されている。

1995年に、日本の深赤美術館で個展が催された。


(BASAbali WiKi:参照)




「Mokoh House & Art Gallery」の管理人は、チップさんです。

作品を見たい方は、チップさんに連絡してください。

グーグルマップ検索すると、多数の画像が見られます。

posted by ito-san at 19:56| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年02月20日

老舗ジャムウ屋『Jamu Ubud Sehat』@アンドン通り・ウブド(524)

体調が100%でないので、アンドン通りにある老舗ジャムウ屋『Jamu Ubud Sehat』に立ち寄った。

ウブドにジャムウ・カフェはここしかないのかな。

他にもあれば教えてください。

2022年3月30日以来だから、約2年ぶりの訪問。
 
その時は、ジンジャーのジャムウを飲んでいた。

ジャムウ・カフェは2013年に開店。

奥にはアトリエと瞑想場がある。

オーナーのマディ・クルトネゴロ氏は、画家&ヒーラーです。


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今から20年以上前のアンドン通り。

右手に見えるツノのある建物が、マディ・クルトネゴロ氏のアトリエ。

ブログ「マディ・クルトネゴロ氏のアトリエ発見!@UBUD(415)」を合わせてお読みください。
https://itosan-ubud.seesaa.net/article/486244064.html

氏は、日本語に訳された本を二冊出版している。

「スピリット・ジャーニー」著者:マディ・クルトネゴロ/訳者:竹内邦愛(1990年7月15日・発行)

バリ・アガの村トゥガナンの起源を、伝説をもとにして語っている。

トゥガナン村は、カンベン・グリンシン(たてよこがすり)とアタ・バッグで名高い。

「ウブッド十字路の番人」著者:マディ・クルトネゴロ/訳者:竹内邦愛(1997年4月15日・発行)

ウブド好きには、たまらない一冊。

ウブドの十字路とは、サレン王宮とパサール・ウブドの交差する変則十字路のことだ。

白鷺の村・プトゥルの話も興味深い。


ジャムウの話をしないといけないですよね。

当店の根っこ(根茎)のジャムウは、三種類でした。

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●Jamu Kunyit Asem(ターメリック)

身体の炎症を鎮める作用がある。

●Jamu Temulawak (クルクマ)

肝臓、肝炎、喘息、脾臓、リュウマチ、アレルギー、便秘の治療にも良いようです。

●Jamu Jahe Merah(レッド・ジンジャー)

熱を冷まし、食欲を促し消化を高め、風邪、咳、車酔い、リュウマチの痛みにも効くと考えられている。

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この日は、クニット・アッサムを注文した。

古くは、ワルン・ビアビアで、健康に良いからとスタッフが作ってくれたクニットを毎日のように飲んでいたのを思い出す。

その時に苦く感じていたので、苦いものだと思い込んでいたが、ここでは甘かった。

ヤシ砂糖を混ぜていると教えてくれた。

これなら飲み安い。

蜂蜜を入れて飲むつもりで、パウダーのクニットを買って帰った。

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あとは動画でお楽しみください!



ジャムウの説明をしなくちゃいけないと思うのですが、料理オンチ同様、ジャムウオンチでもあるので、詳しく知りたい人は、友人のブログを読んでください。

「バリ島ウブド便り」バリ島の漢方薬ジャムウ
https://balitravel.hatenablog.com/entry/2017/04/10/090000

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夜市などに出店する、カキリマのジャムウ屋。

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道端で店開き。担いで行商するジャムウ屋。

写真も友人から拝借。

他人に丸投げの私です。

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2024年02月12日

クムヌ村の蝶々(Kupu kupu)博物館 @ Kumenuh Batterfly Park(523)

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蝶というのか、蝶々というのが正しいのか?

一頭(蝶の数え方)が蝶で、二頭以上が蝶々と言うわけではないようだ。

どちらも正しいので、雰囲気に合わせて使い分けよ、ということらしい。

蝶々は、ちょうちょう、ちょうちょのどちらも正しいようです。

童謡の蝶々は、ちょうちょうと歌っている。


めっきり、ウブド内で蝶々を見る機会が減った気がする。

通りに面した花々が減ったのだろうか。

それとも、単に気のせい?

かつては、通りを歩いていれば、ハビスカスやブーゲンビリアの周りを二頭の蝶が戯れていたり、鮮やかな色の翅(はね)をキラキラさせて翔んでいた。

散歩の途中、黄色の蝶が、いつまでも私から離れなかったのは何だったのだろう。

人は死ぬと蝶になると聞いたことがある。

ウブドでは、そんな言い伝えも信じられるから不思議だ。


蝶を苦手とする友人がいる反面、蝶々が大好きは友人もいる。

私は取り立てて好きだというわけではないのですが、久しぶりに蝶々に癒やされて見ようかななんて思い、蝶々博物館を訪れることにした。

タバナン県に古くから「バリ・バタフライ・パーク」があるのを知っているが、遠いので今回は近場にした。

ギャニアールのサバ海岸にも「バリトピア・バタフライパーク」があったが、閉館(2024年2月12日訪問)していた。

今回は、ウブドの中心部からバイクで20分ほどのところにあるクムヌ村の「蝶々・Kupu kupu @ Kumenuh Batterfly Park」を訪れた。

さらに数百メートル南下すると観光地トゥヌンガンの滝があり、さらに少し進むと、オススメしないガラスの橋がある。

     
駐車場から受付、エントランスとスマホで動画を撮ったつもりが、残念ながら今回も始まりの3分間が撮影できていなかった。


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一番目のゲートを入ると、そこは盆栽などが配置されて小さな公園になっていた。

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ここまでの動画が撮れていないのであった。



公園から、蝶が放し飼いになっている二番目のゲートをくぐる。

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BUTTERFLY PARK ENTRANCE

身体にまとわりつくほど飛んどいるのかと思っていたが、そうでもなくてチョピリがっかり。

蝶の命は3週間ほど、管理は大変だと想像する。

クプクプバロンは5日間の生命だと教えてくれた。


あとは、ユーチューブに投稿した動画をご覧ください。

プール、レストラン、土産コーナーを紹介しています。


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2024年02月03日

ウブドを訪れる海外からの観光客は、どこで、どんな食事をしているのだろう?(522)

旅の楽しみの一つに、地元の料理を食べることがある。

料理は、その土地の文化を知るには、大切なアイティム。

旅先では旅先の料理を食べる、というのが私のコンセプト。

インドネシア全域は中華料理が主流だが、各地方にはそれぞれの食文化がある。

バリには、バリ料理がある。

祭礼時のバビグリンとラワール料理は有名だ。

ワルンと呼ばれるローカル食堂に、東ジャワ料理、スンダ料理、パダン料理、マドゥーラ島のサテ・カンビンなどの店がある。

1990年初頭、ウブドにはセンゴール(夜の簡易屋台エリア)https://informationcenter-apa.com/gt_senggol.htmlがあった。

外国人ツーリストで、毎晩賑やかだった。

短期の旅なら、地元の料理を食べて文化を知るのは大事だろうが、さすがに長期の滞在となると辛いものを感じる。

私は、半年ほどの滞在で、ローカル料理が食べられなくなった。

ローカル料理が食べられずに困った旅行者が、私の下宿に飛び込んで来るほどだった。

この頃のウブド人、日本人は皆友達だっと思っていて、私を紹介した。

そんな時には、おにぎりを作ったり、雑炊を食べてもらった。

私以外にもローカル食が立てられない人がいると知り、信念を曲げて、ウブドに「居酒屋・影武者」をオープンさせた。

影武者を開店するまでの一年間は、センゴールの「デワ・ワルン」のナシ・ゴレンで生き延びた。


日本人以外の観光客の中にも、地元料理が食べられない人もいるはずだ。
 
1990年代、レストランと呼ばれていてもメイン料理は、インドネシアの国民食ナシチャンプールで、ワルンより豪華な盛り付けになっているだけ。

カフェ・ワヤン、イブ・ライ、ミロズ、ムルニーズ、べべ・ブンギル、バタン・ワルなどがそうだった。

当時のウブドのレストランは、世界中から訪れる観光客に多国籍メニューをサービスしていた。

特に、ピザなどはどのレストランにもある。 

その後、インド料理、ベルギー料理、タイ料理、ベトナム料理、韓国料理の店もオープンしている。

私はあまり外食しないので疎いのだが、最近は、イタリアンとピザ専門店、寿司・ラーメンなどの日本食店がブームのようだ。

トリップアドバイザーで検索すると、ウブドのレストランは、866軒ある。

そのうち76軒がイタリアンで、46軒がピザをメニューのメインにしている。

思ったよりイタリアンは少ない。

コロナ禍でオープンして、ローカルにピザの店として人気を博した、アルマ美術館正面玄関前のレストラン「Famos」。



昔々の初期は「エグザイルス」だったところ。

昨年末に看板が取り払われていて、リニューアルするのだと信じて疑わなかったが、どうやら違ったようだ。

新しい看板は「Wild Mint Ubud」になっていた。

人気ピザ店、さらにピザ・ブームになった今、なぜ閉店?と疑問が膨らんでいる。

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さてさて気になる、ウブドを訪れる海外からの観光客は、どこで食事をとっているのだろうか?という課題である。

トリップアドバイザーの料理別リストは、アジア料理、カフェ、喫茶店、イタリアン、アメリカ料理、フージョン、バー、ピサ、和食、パブ、中華料理の項目に別れていた。

特に気になるのが、人口が急増加しているロシア人は、どこで食事をとっているのだろうか?

「えっ!自炊してるんじゃないかって!」

確かに、高級食材のスーパーも出店しているので、ホームパーティに明け暮れていることも考えられるね!

欧米人に知人のいない私には、調べる手立てがないので、調査はこれまで。


2023年バリ国際空港の出入国総数と上位10ヶ国を発表(12/29)では、下記となっていた。
◆入国上位10ヶ国
01位:オーストラリア 1340,190名
02位:インド 441,683名
03位:中国 284,729名
04位:イギリス 256,883名
05位:アメリカ 249,902名
06位:シンガポール 237,883名
07位:韓国 232,755名
08位:フランス 213,054名
09位:マレーシア 210,810名
10位:ドイツ 197,538名
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2024年01月09日

ウブドに増加するロシア人は、何を食べている?(521)

近頃、バリ島にロシア人&インド人&韓国人の滞在者が増加しているとの噂を聞く。

2023年バリ国際空港の出入国総数と上位10ヶ国を発表(12/29)では、下記となっていた。

◆入国上位10ヶ国
01位:オーストラリア 1340,190名
02位:インド 441,683名
03位:中国 284,729名
04位:イギリス 256,883名
05位:アメリカ 249,902名
06位:シンガポール 237,883名
07位:韓国 232,755名
08位:フランス 213,054名
09位:マレーシア 210,810名
10位:ドイツ 197,538名
(インド&韓国は入っているがロシアはない。日本も入っていない)


ウブドでは、3年ほど前から、ロシア人が増加していると感じる。

ロシアからの観光客を誘致している旅行代理店の話では、長期滞在者が増えていると言う。

ウクライナとの戦争が勃発して、国外脱出する人が増えたのかもしれない。

脱出組は、世界各地に散らばっているだろう。

若者が目につくのは、ベトナム戦争時にアメリカの若者が海外逃亡したように、ロシア人も徴兵逃れの若者かもしれない。

富裕層の若者達に見られる行動だ。

ロシアは広大な国なのでひと区切りでは言えないが、寒い国だというイメージはある。

夏は短く14℃〜24℃と冷涼な地域もあるらしいが、全体的に冬は極寒となる。

滞在したロシア人にとってウブドの環境は、楽園だと思うこと間違いなし。


ウブド北・テガランタン村には、ロシア村と呼ばれるほど滞在者が多い。

きっかけを作ったのは「パルク・ウブド」だ。

詳細はブログ『コワーキングスペースPARQを徘徊! @ Ubud・Bali(408)』を読んでください。
http://itosan-ubud.seesaa.net/article/485673543.html

現在、2万人を超えるロシア人のコミュニティがSNSに存在するらしい。

彼らは、SNS情報網を利用して、ヴィザの取得、宿探し、起業しているようだ。


今回のブログのテーマは「ロシア人は何をたべているのか?」である。

これだけロシア人が増えれば、ロシア料理店が増えてもいいものだが、と素人考えが浮かぶ。

トリップアドバイザーには、今のところ一軒紹介されているだけだ。

現在ウブドには、ベルギー、フランス、イタリア、スペイン、アルゼンチン、インド、ベトナム、韓国、日本などのレストランがある。

世界中どこへ行ってもある料理と言えば、中国料理、イタリア料理、フランス料理、スペイン料理、日本料理など。

個人的には、トルコ料理を推薦したい。

インドネシア料理店以外では、イタリアレストランの数が圧倒的に多い。

スパゲティとピザの人気が高いように思われる。 

イタリアンは、世界中の人が好む味なんでしょうかね。

私は味音痴で、インドネシア中華料理で満足していて、食に関しては何の問題もなく過ごしている。

辛いのが玉に瑕だが、ツーリストの訪れる店では、心得ていて、辛さ控えめにしてくれる。


私は1969年にナホトカ航路の片道切符でソ連に渡り、ウイーンまで一週間ほどで鉄道横断した経験があるが、その時の食事を全く覚えていない。

モスクワで、ホテルの飲茶を食した記憶しか残っていない。

ロシア料理といえば、私はボルシチという名前しか浮かばない。

グーグルで検索すると、スープのことだった。

酸味が特徴の薄味のようです。

どちらかというと、辛いのは苦手な民族のようですね。

もしかするとロシア人は、辛口のインドネシア料理、バリ料理は苦手かもしれないね。

ロシア人経営の店がオープンしているようなので、今後はロシア料理のレストランが増えるかもしれない。

世界各地の料理が食べられるウブドになれば、観光客的には嬉しいかも。

期待したい!


バリ島ウブドに沈没:Nomadwork・PARQを徘徊! @ Ubud・Bali

posted by ito-san at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | ウブド村帰郷記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする