2025年08月26日

ヘボ飯って、蜂の子幼虫食だった!(44)

東濃地方の郷土料理『ヘボ飯』

岐阜県南東部の土岐市、多治見市、瑞浪市、恵那市、中津川市の五つの市が、美濃地方と呼ばれます。

気になる「ヘボあります」の看板。

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行ってきました。

ビン詰の甘露煮を売っていたので、小瓶を購入(税込1512円)。

当然、地産地消だと思っていたけど、残念なことに中国産のヘボでした。

これは、蜂の子幼虫食だ。

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見た目で、苦手な人もいるでしょうね。

ウブドでは、仲の良かったダドンが、木の皮に棲む幼虫が好物で、うごめく親指大の幼虫を美味しそうに食べていた。

さすがにこれは、食べられなかった。

甘露煮になった幼虫は、大丈夫なのでつまんでみた。

炊きたての白飯で食したら、美味しいだろうと想像できる味だった。

今夜の夕食は、ヘボ飯に決定。


●歴史・由来・関連行事

ヘボ(クロスズメバチ、地蜂とも呼ぶ、地中の中に巣をつくる体長2センチほどの蜂)の幼虫を使った東濃地方の郷土料理。

高タンパク・高カロリーなヘボは、海から離れたこの地域の貴重なタンパク源として、住民の健康促進に役立てると共に、大切なお客にご馳走として振る舞われた。

ヘボを食べる文化は、信州から奥三河にかけての山間地域で盛んである。

江戸時代に書かれた「想山著聞奇集」(三好想山・1850年)の中に、美濃国や信濃国では、蜂の子を醤油で味付け、ご飯に混ぜた「ヘボ飯」を食している、という記述がすでにあり、古くからの食習慣だったことがうかがえる。

ヘボ飯の他にも、香ばしい食感の甘露煮やへぼ五平餅などがあり、秘伝の郷土料理として代々受け継がれている。

(Googleより)
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2025年08月22日

映画出演の続き・備忘録として保存(43)

映画は、残留日本兵の苦闘も含まれている。

役つくりのため、、残留日本兵に関する書物を数冊読み、彼らの苦痛を学んだ。

ウブド在住の塩田さんは、太平洋戦争に出征している。

私は高齢の塩田さんの健康を心配して、たびたびアジ・ホームステイを訪ねている。

戦時下の話になると、貴重な体験談を熱く語ってくれる。

大学生の頃にグライダーを乗っていた話や、19歳で学徒出陣した時の話。

空軍の飛行士として、インドネシアのジャワ島バンドゥンに駐留し、終戦を迎えた話。

戦後、自衛隊空軍に教官として出向いた時の話。

その時のアクロバット飛行の写真を見せてもらった。

戦争を知らない私に実感は沸かないが、戦争の愚かさは理解できる。

「いつまでも元気いて欲しい!」と伝えてその場をあとにした。

1924年生まれで、2009年3月27日没。



●撮影の現場の備忘録

○編上靴のゲートルを巻くのに一苦労。

戦争映画の中で日本兵の履く編上靴を観たことはあるが、実際に巻いた経験はない。

幅広の一本の木綿紐を足首からスネの向ってグルグルと編み上げていくのだが、すぐにずり落ちてしまう。

これをゲートルと言った気がするが、なぜかフランス語だった。

○撮影現場には、トラックをベニヤで加工した軍用トラックが数台停まっている。

ナンバー・プレートには「場利」と書かれてある。

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○この日は、大勢の村人を前にして演説をするシーン。

渡されたた台本のセリフは、インドネシア語だった。

この時の私は、インドネシア語をまったく話すことができず、セリフを覚えられない。

大きな白紙に書いてもらい、それを読むことになった。

そのカンニングペーパーが、目線を自然にするために上下左右に移動する。

私は、右往左往するだけでまったく演技にならなかった。

○デンパサールにある王宮で、民家での撮影をした。

細田さんと私が、民家に入って行く。

そこにいる娘に、ちょっかいを出すというカットだった。

日本人軍人の醜態を見せるシーンだ。

細田さんは、スケベな酔っぱらい役を嫌がっていたが、無難にこなした。

私は、酔っぱらいをだなめる役で、後ろ姿だけ。

私は一月なんぼの契約の役者なので、何回も使われる。

私の受け取った金額は、日給の人より少なかった。

○1995年8月7日(月)

日本軍の兵隊役は、中国系インドネシア人の学生が募集されていた。

彼らがイタズラしていたピストルが暴発し、Fさんが片眼を怪我をした。

現場は、コテツちゃんが一緒だった。

デンパサールにあるサングラー病院に入院。

角膜に傷。角錐に内出血があるそうだ。この先どうなるか未定。

対応に不安があり、シンガポールの病院に移った。

1995年8月9日(水)
午後、コテツ宅訪問。

Fさんがシンガポールで手術を完了したことを聞く。

リハビリに半年かかるそうだ。

Fさんは、コミックの公募に入選して、漫画家としてデビューした。

この時の話は、漫画に出ている。
 


★シンガラジャで撮影・1995年8月21日。

⭐︎「わるん酔し」のオーナー・竹俣さんの車に便乗させてもらいバリ北部シンガラジャに向う。

別組で行動している竹俣さんは、たくさんの場面を撮っていた。

車の中で、グスティ・ングラ・ライ将軍の屋敷で、斥候役で活躍したことを思い出して話してくれた。

独立戦争の英雄となったングラ・ライ将軍は、タバナン県ムングイ(Mengwi)の北にあるチャナンサリ(Carang Sari)王宮の子息。

⭐︎シンガラジャは、女性陣も同行した。

プスピタのかおりちゃん、バリ舞踊を習っているゆきちゃん。

竹又さんの知人を一人スカウトするために、途中ゴルフ場に立ち寄る。

ゴルフ場のマネージャーを誘うつもりのようだが、忙しいと断られた。

マネージャーから、スリリット村に住む日本人男性を紹介され、誘った。

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⭐︎この日は、外国人のエキストラを20名を集めることになった。

エキストラになってもらう欧米人を探しに、ロビナ・ビーチに出掛ける。

ロベルトとカズ君、コテツがエキストラ集めに出掛けて行った。

プライベート・ビーチ・ホテルに入り、テラスで一服している人や海岸で寝ころんでいる人に声をかけるのだ。

バリにリゾートで来てのんびりとしているのに、いきなり「映画に出演しませんか?」と声を掛けられては驚くだろうな。

それでも10数名集まった。

軍の施設内で撮影。

軍舎で、衣裳を着替え、さんざん待たされた。

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⭐︎軍施設の中庭に集合した。

テントが張られ、記念式典風景の撮影のようだ。

中には、ロビナ・ビーチで集められた欧米人の顔が。

⭐︎軍舎で晩餐会の撮影。

竹又さんとかおりちゃんが政府高官の夫妻役となり、挨拶の場面があった。

ゆきちゃんは「化粧がケバい。これでは娼婦だ」と憤慨していた。

インドネシアのオカマちゃんの化粧は濃いことが判明した。

⭐︎各国の高官が集うダンスパーティーのシーンでは、ロベルトがテナー・サックスを吹いた。

秋本大将の私は、顔が出せないので、後ろ姿で何役もこなしている。

ウブド出発前に女性の着物を持って来てくれと言われたが、そんなこと急に言われても。

着物姿の日本人女性が入り用だったようで、有り合わせの着物を着せてお茶を濁した。

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1995年8月21日

⭐︎夜の撮影は、軍関係者の住宅と思われる場所に移動した。

何度も食事のシーンをNGを出された。

「もっとダイナミックに食べてください!君たちは一週間何も食べていませ〜ん!うわ〜飯だ〜!っう感じで。わかりますか!は〜いスタート!」と監督怒鳴り声。

たぶん3テイク目くらいで本領発揮のドカ食い演技でOKが出た。

戦闘シーンが撮影された。

煙幕が霧を作っている。

カズ君とコテツが戦闘シーンで演技をしている。

⭐︎カズ君とコテツ君が、ぼさぼさの長髪カツラと髭をメークされたみすぼらしい姿の脱走兵なっている。

7日間ジャングルを彷徨い、村人に助けられ食事を施されるシーン。

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⭐︎感動のシーンは深夜、町中の洋館で撮影された。

私は、今まで寝ていたという設定で、あくびをしながた部屋から出ていく。

てブルには、部下たちの姿。

部下たちは、バリに残ってインドネシア人と共に戦うことを決め、日本軍の武器弾薬を欲しいと願いでた。

秋元隊長の見て見ぬ振りをするセリフ。

このセリフは、かなり覚えているので、役柄に成りきることができた。

⭐︎ホテルに投宿。

宿の玄関の若い娘が数人。

どうやら映画の撮影があるのを聞きつけ、出演者のサインを欲しいと言うことらしい。

そうして、わたしたちはにわか俳優になり、有名人になった気分でサインをすることになった。

〜完〜
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2025年08月17日

インドネシア独立50周年を記念して制作された映画に出演(42)

本日8月17日は、インドネシア独立80周年です。

1995年に、インドネシア独立50年を記念して映画が製作された。

残念なことに、ボツとなってしまいましたが。

当時ウブドに滞在中の多くの日本人が撮影に協力した。

コテツちゃん、カズさん、深谷さんも出演した。

ピザバグースのオーナー・ロベルトさんもいたな。

以前ブログに投稿したと思うが、どこにあるか探せなかったので、再度の投稿としました。


1949年に「連邦共和国」、1950年に「共和国」として完全独立を果たしたのだが、インドネシア国家は1945年8月17日を独立記念日としている。

1942年3月から1945年8月15日までの3年5ヶ月、日本軍の占領統治があった歴史を、我々日本人は忘れてはならい。

インドネシアが共和国として独立するために立ち上がったバリ人ヌグラ・ライ(Gusti Ngura Rai)を主人公に、当時を再現した独立戦争物語「仮題:ププタン・マルガラナ(Puputan Margarana)」の映画撮影がバリ島の各地で行われた。

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インドネシア独立50周年を記念しての映画。

日本の敗戦(1945年8月15日)の2日後(17日)、スカルノ初代大統領はインドネシアの独立を宣言する。

再び植民地化を目指すオランダに対して、アンボンを除くインドネシアの各勢力は各地で闘争に入った。

バリ島も激戦地となり、のちにマルガラナ村(タバナン県)で終焉を迎える。

全員が撃ち死んだことから、バリの王国時代、オランダ軍と戦った王族の「死の行進=ププタン」のイメージを重ねた仮題「ププタン・マルガラナ」がつけられている。

独立戦争の英雄となったグスティ・ングラ・ライ将軍は、ムングイ(Mengwi)の北にあるチャナンサリ(Carang Sari)王宮の子息。

彼の名前は、バリの国際空港に冠されている。

残留日本兵が、この闘争に協力した話はバリ人も知っている。

20数名の元日本兵がバリ義勇軍を指導し、その多くが戦死した。

思い出すのは、当時ウブドに滞在していた友人たちと、その映画に出演した時のことだ。


「居酒屋・影武者」の掲示板に、インドネシア語のチラシが貼られた。

「インドネシア人女性とイタリア人男性のカップルが来て、貼っていった」と影武者スタッフのワヤン君は言う。

内容は、インドネシアのテレビ局がテレビ映画撮影のため、日本人アクターを数名募集しているということだった。

撮影期間中は、出演料+軍隊お墨付きの滞在ビザ(4ヶ月)がもらえるという魅力的な話だ。

まず、カズ君が参加したいと表明した。

内容の詳細はわからないが、私もインドネシアへの日頃の恩返しと好奇心とで出演してみよう考えていた。

チラシに特技の覧がある。

私は、特殊メイクの経験がある深谷さん(漫画家)と、家具デザイナーの鈴木さんを誘うことにした。

場面によって随時募集しているようだ。


☆7月31日

4人は、それぞれのバイクに跨がり、デンパサール・レノン地域にある事務者へ出かけた。

事務者は軍隊と関係する建物のようだ。

映画のスポンサーは、陸軍だとのこと。

軍のPRにもなるという趣旨かもしれない。

軍隊は、さまざまなアルバイトをしていて、裕福だと聞いている。

ロビーには、大勢のインドネシア人がたむろしていた。

その一人に出向いた旨を伝えた。

しばらく待たされたあと、スタッフと思われる若者に、助監督だと言われる人物を紹介された。

小柄で自由人という風貌の人物だった。

シーンを3つこなして150万ルピア(6万円)。(この頃のレートは、1円⇒Rp25-)

出演料の半額を手付けとしてもらい、残金はクランク・アップしてからという契約だった。

カットごとに、受け取りは5万ルピア。

シーンとカットがどのくらいあるのかわからないが、とにかく、いくらかのギャラはもらえそうだ。

軍隊がバックなら安心だろうと、出演の意志があることを助監督に伝えた。

契約書類に記名している間、助監督は我々の風貌を覗き見ている。

役柄とを照合しているのだろう。

そして、オーディションもなく即合格。

きっと、暇な日本人なら誰でもよかったのだろう。

ローマ字で書かれた日本語の台本一部を手渡された。

台本から、バリを舞台にした戦争映画だということは理解できた。

ところが、台本の日本語が意味不明。

助監督にそう伝えると、「そうですか。それでは直しておいてください」と笑顔で答えた。

ストーリーの全容がわからないが、とりあえず、日本語として意味の通じる台本にしよう。

頼まれたからでなく、こんな不明瞭な日本語では、内容を把握できない。

私としては、セリフを覚えておきたいので加筆訂正することにした。


☆8月1日

「影武者」の前にモスグリーン色の軍隊専用バスが停まっていた。

カズ君は、コテツ君(現:カフェ・アンカサのオーナー)を伴って現れた。

残念だが、鈴木さんは出演を辞退した。

インドネシア人のエバァさんは映画コーディネータースタッフで、イタリア人のロベルトさん(現:ピザ・バグースのオーナー)は役者として出演する。

エバァさんは、簡単な自己紹介を終えると、わたしたちをバスに誘導した。

護送車に似た軍隊のバスに乗せられた我々は、デンパサールの事務所に向けて出発した。

この日は衣裳合わせのようだ。

事務者の裏に、小道具の製作場がある。

チョコレート色の軍服が手渡された。

飾りのポケットがついた簡素な軍服は、縫製が悪いのか身体にシックリこない。

私に合う寸法の長靴が見つからず、オーダーとなった。

わたしたちの役は、残留日本兵。

私は秋山大将、カズ君は平良定三、それぞれに役柄が振り分けられた。

実在した人物なので、できるだけ風貌、背丈の似た出演者を決めたようだ。

小さな長靴を履いた軍服姿で、スチール写真を数枚撮られた。

実感はないが、取りあえず役者としてスタートしたようだ。


☆8月2日

デンパサールのクシマン王宮で記念式典が催されることになり、わたしたちも招待された。

拿捕(だほ)された捕虜ようにして、軍隊専用バスに乗り込む。

王宮の内庭に併設してある、独立戦争当時の写真や軍機の展示コーナーを見学した。

欧米人キャストと合流。

筋肉質でワイルドな個性のポルトガル人。

やたらと陽気なドイツ人。

その他大勢の日本兵エキストラは、中国系インドネシア人の学生が演じる。

彼らのピストル暴発で、深谷さんの片眼が不自由になった事故は、このあと一週間後だ。

インドネシア兵には、現役の軍隊が出演する。

記念式典に出席する前に、男性キャストの断髪があった。

ウブド滞在以来、床屋に行くのが面倒でのばしていた、私のトレードマークである長髪は潔く切られた。

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メーキャップ・スタッフはジャカルタから来ている男たちだが、全員がオカマちゃんだった。

カズ君はその後、彼(彼女)らと何度も撮影現場で顔を合わせるうち、強烈なアタックを受けたそうだ。

白襟が縫い付けられた濃紺の軍服姿で、記念式典に列席。

気分はアクター。

ちょっとウキウキ。

バリ州知事の挨拶、来賓の挨拶のあと、主演男優と女優の紹介があった。

ジャカルタから来た有名な俳優さんらしい。

申し訳ないが、インドネシアの映画事情に興味のない私は、存じ上げていなかった。

会食の余興は、バリらしくトペン・ボンドレスが披露された。

バリ州知事イダ・バグース・オカ氏と軍最高幹部の人物と並んで写真を撮らせてもらった。

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この写真を「影武者」の目立つところに貼っておけばイミグレーションも文句を言わないだろう、な〜んてセコイことを考えている小心者のitosan。(結局、何の役に立たなかった)

会食のあと、いよいよクランク・イン。

屋敷内の一角で、ングラ・ライと数名の独立軍による作戦会議シーンの撮影された。
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2025年08月11日

念願の加湿器を購入(41)

念願の加湿器を購入。

図書館の帰りに、リサイクルショップ「サンタの創庫」を覗いた。

リサイクルショップは、ホームセンター同様に購入目的がなくても、時々立ち寄る。

なんと、980円という低価格(だと思う)の卓上加湿器を見つけた。

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6月、耳鼻咽喉科で診察を受けてドライノーズ(乾燥性鼻炎)と診断された。

「高齢ということもありますが、エアコンが原因とも言えます」と医師から言われた。

看護師から、温めたお絞りを顔(鼻)に当ててくださいとアドバイスされて医院を後にした。

お絞りは、睡眠時に必ずした。

鼻出血は止まり、ムズムズ感は少し緩和された。

この時、加湿器があればいいのにと思った。

エアコンが暖房から冷房に変わっても、ドライノーズは完治しない。


このタイミングで見つけた加湿器です。

でもこの加湿器、フェイススチーマーだった。

問題ないよね!
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2025年08月06日

日本の無条件降伏のよって戦争が終結して80年(40)

8月6日、広島への原子爆弾投下から80年

犠牲となられた御霊に対し、心から哀悼の誠を捧げます

8月15日、日本の無条件降伏のよって戦争が終結して80年


1947年生まれの私は、戦争を知らない子供たちのひとりです。

戦中戦後の悲惨な出来事を、リアルのには知らない。

しかし、戦後の混乱期の残像は、少なからず感じている。

映像以外にも、言葉として記憶しているものがある。

辛うじて私たちの年代は覚えているだろうか、年代が若くなるにつれ廃語となっているようだ。

広島原爆の日に、覚えている言葉を備忘録として列挙した。


現人神・軍神・大本営・

勤労動員・国民服・女子挺身隊・

慰問団・慰問袋・ゲートル・背嚢・雑嚢・

鬼畜米英・武運長久・

神風特攻隊・国民義勇戦闘隊・

本土決戦・一億総火の玉・銃後の守り・

学徒出陣・学童疎開・

防空訓練・防空ずきん・竹槍・

空襲警報・戦闘機・爆撃機・爆撃音・B29 ・焼夷弾・空襲・防空壕・

原子爆弾・ピカドン・

無条件降伏・

マッカーサー元帥・GHQ・進駐軍・GI・MP・PX・

東條英機・山本五十六・東郷平八郎・

引き上げ者・引き揚げ船・傷痍軍人・

慰安所・パンパン・花柳病・

脱脂粉乳・DDT・ツベルクリン注射・


2度と使うことがあってはならない、言葉の数々。

お付き合いありがとうございました!
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2025年07月09日

夏が来た・Tシャツとゴム草履の季節だ!(39)

「ウブドに滞在していて、何が良かったか?」と問われれば、「衣服に気を使うことがなかったこと」と答えるだろう。

ズボラな私は、一年中、Tシャツで過ごせるのが嬉しかった。

周りのウブド人は、質素な衣服だった。

私の対象は、男性です。

黄ばんだヨレヨレのTシャツには、穴が空いてることもある。

穴を補修するということは、考えはないのか。

洗濯機やランドリーのなかった時代だが、洗濯はこまめにしているようだ。

ここに、彼らの美意識があるのかな。

火葬儀礼で支給されたTシャツや、観光客からのプレゼントと思われる日本語の書かれたTシャツ姿を見かける。

一部のお洒落さんを除いて、衣服に興味を持つ男性はあまりいないようだった。

普段着は質素だが、オダランの時にはオシャレして参加している。

いっとき、オダランの衣装に、男子専科「ミスター・バリ」のワイシャツが人気だったことがあった。

御多分に洩れず、私も購入していた。

私は、できる限り周りのウブド人と合わせるように心がけている。

外出着は、気楽なTシャツとズボン。

部屋では半ズボンを履くが、肌を見せるのはタブーと聞いていたので、外出するときは長ズボンと決めている。

履物は、もちろんゴム草履。

スコールのあるウブド。

一雨くれば、道路は川になる。

ゴム草履は、必須でしょう。

デンパサールへの買い物や、友人の迎えに空港に行く時やホテルを訪れる時には、靴を履く。

田舎から、都会に出る感覚だったんだろうね。

昭和世代は、これをTPOを言う。

ビザの書き換えでシンガポールに行った時、いつもの癖でゴム草履のまま飛行機に乗ってしまい、さすがに恥ずかしかったのを覚えている。

いっとき、パジャマだったりネグリジェ姿の女子をパサールで見かけたことがあったが、あれはオシャレだったのか。

観光客が多くの訪れるようになって変化したのは、ウブド人がオシャレな服装をするようになっていたこと。

娘さんのミニスカートやショートパンス姿も見かけるようになった。

無頓着な衣服で生活していた私も、あまり貧相な衣服では観光客として失礼だろうと、外出着はできるだけ穴の空いていない色落ちしていないTシャツを着るように心がけるようにした。


日本に帰ったのが冬ということもあって、靴下と靴を履く生活になっていた。

冬が過ぎ、いつの間にか春も終わり、厚着をしなくなった。

今では、生活圏である下石町でのゴミ出し、コンビニ&スーパーでの買い物、喫茶店への徘徊は、部屋着のまま外出だ。

あれっ、ウブドと変わらない生活してるな。

でも、今日からはゴム草履で外出だ!


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(写真はウブド滞在中:プリアタンのサテ屋で遭遇した友人家族)
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2025年06月23日

猛暑の夏が近づいてきた!(38)

日本の夏は、近年、半端ない暑さと聞いている。

35年前とは段違いで、熱中症でなくなる人もいるそうだ。

私は日射病という言葉しか知らなかった。

最近も数人が亡くなっている。

多治見市で37度を越した日があった。

土岐市は、隣町なので同じように暑い日だった。

実はこの日、自転車で炎天下を走っていた。

帰宅したら身体がだるかったので、軽い日射病だったのだろう。


「極寒❗️」と叫んだ、寒い冬が終わると、あっという間に、暑い季節。

雪・酒はいとう鶴.jpg

今度は、「極暑❗️」と大騒ぎする日が来るのか。


寒い時には、厚着をすればしのげたがが、暑さは、薄着から次第に衣服を脱ぎ、最後は裸。

裸になれば、それ以上は脱ぎようがない。

未開の地でもリゾート地でもないので、室内はまだしも、裸で外出はできない。


クーラーは必須だと言われたが、クーラーの風に当たるとすぐに風邪を引いてしまう私には、辛い。

しかし、クーラーに弱いなんて言ってる場合じゃないようだ。

クーラーを使う時間&期間を短くしたいくて、先日、扇風機を購入した。

仕事をしていないので、暑い日は、外出しなけれは、いいだけの話。

と思いきや、室内でも熱中症になるという。

怖い怖い!
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2025年06月13日

名古屋の百貨店分布図が変わっていてビックリ !(37)

私がウブドに沈没している35年の間(1990〜2024)に、名古屋の百貨店分布図が変わっていてビックリ。

名古屋の老舗百貨店・松坂屋の屋上から松坂屋の文字看板が下ろされる写真を、グーグルで見た。

気になって、他の百貨店を調べてみると、すでに撤退した店と来年に営業終了する店とがあった。

私の記憶には、名古屋には4つの百貨店がある。

栄地域に、松坂屋百貨店、丸栄百貨店、オリエンタル中村百貨店の3店舗。

名古屋駅前には、名鉄百貨店。

名古屋に興味ない人には、知らない名前ばかりで、興味のない話になってしまいますが、まあ聞いてください。


●一番初めに姿を消したのは、オリエンタル中村百貨店。

ルーツは、1869年の「中村呉服店」。

私が店舗デザイナイーの仕事をしている頃の1980年に閉店した。

日本万国博覧会の翌年1971(昭和46)年11月、岡本太郎氏制作の壁画「天に星、地に花、人に愛」(写真)が飾られたのは全国的なニュースになった(はず)。

1971年代名古屋栄の交差点を彩っていた花・星・人.jpg

1972年、手作り屋(町売り)の仲間を集めて、大津通り沿のウインドー前でフリーマケットを開催したことを思い出す。

この頃の手作り屋は、ほとんどヒッピー風の風体だったので、百貨店側としては英断だったと思われる。

当時の宣伝部には、好奇心の強いデザイナーが多く在籍していたので可能だったのだろう。

催事場で、フリーマーケットを開催したこともあったな。


●丸栄百貨店のルーツは、1615年の呉服店「十一屋」。

2018年6月30日閉店。

所有していたのは、コルゲンコーワで有名な興和株式会社。

栄町ビル、名古屋観光ホテル、キャッスルプラザ、ウエスティンナゴヤキャッスルを所有している。

今後の栄地域の再開発が楽しみな会社です。

栄町ビル内の狭いスペースを利用して、若手オーナー達の夢の詰まったショッピングエリアの企画に店舗デザインとして参加したことがあったな。


●松坂屋百貨店のルーツは、1611年の呉服小物問屋「伊藤屋」。

2007年に大丸と経営統合して「J・フロントリテイリング」となった。

統合したあとも、松坂屋の名前は残っていた。

2024年6月10日に、看板の撤去作業が写真にアップされている。


●残りの一つ、名鉄百貨店は、1954年に名古屋鉄道のターミナル百貨店として創業。

2026年2月29日には、営業終了する。

ナナちゃん人形は、何処え!(写真)

ナナちゃん (2).jpg

来年には、4百貨店とも姿を消すことになる。

百貨店(デパート)という業態が、もう古いんだよね。

名古屋駅前の再開発に伴い、名駅前から栄までを一体化した面として発展していくことになれば楽しい街になるかな。


今回の〆の言葉。

名古屋に戻ると、こうやって変化したことを、懐かしんだり嘆いたりすることになる。

嫌いじゃないのですが、懐かしむのはウブドだけでにしたい。

移住した土岐市は、予備知識のまったくない町。

そういう意味では、ウブドに立ち寄った時と同じ状況。

歴史や文化を学び、人々の生活を垣間見るのが楽しい。

今の私の好奇心を満たすに、最適な土地柄だった。

もちろん頼りになる友人が居ることが、心強くての移住ですがね(これが一番大事)。
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2025年06月08日

年寄りの愚痴を聞いてください!(36)

身体のあちこちに、不都合が現れてきている。

老眼の度は順調に進み、この頃、寝不足かスマホの見過ぎか瞼の下に違和感。

虫歯は、2ヶ月前に治療してもらい、現在は月一の定期チェック。

鼻の嫌な匂いはするが、花の香りを嗅ぐことができなくなった。

ひと月ほど前、耳鼻咽喉科に行くと、ドライノーズ(鼻の粘膜の乾燥)と診断された。

一度きりの診察で、あとは自分で対処とのこと。

不安ながらも、自己治療中。

耳はまだ、遠くなってはいないようだが、最近の言葉は聞き取り難いです。

今のところ、内臓に問題はないみたい。

健康に産んでくれた両親に感謝です。

「お前は頭が悪いが、身体だけは丈夫だから!」なんて、オヤジに励ましてもらったことを思い出す。


気力体力、記憶力も落ちてきている。

お腹は出てきたが、枯れてやせ細っていく。

これを老化と言うんだろうな。


今年になって、数人の友人が星になっていった。

友達という財産が、砂くずしのように削ぎ落とされ、残された枯れ木になっていく気分。

老化の寂しさよりも、こちらの方が辛い!

ごめんなさい、年寄りの愚痴で。

きっと年寄りが集まると、こんな内容の話ばかりになるんだろうな。

年下の友達を募集します。

今でも、ほとんど年下か!
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2025年06月02日

”関係人口”と”二拠点生活”について思う(35)

つい先日、地方創生・町おこし・村おこし的な会報誌で、”関係人口”と言う言葉を知った。

「観光以上」で「移住未満」の第三の人口のことを言うらしい。

『移住はできないが地域に興味があり、自分の暮らしている場所以外にも拠点を持つ人が増えている』と書かれていた。

なるほど、こういう言葉があるんだと認識した。

昔々から、こういった暮らしをしている人はいる。

1990年初頭までのウブドは、バックパカーの通過地点だった。

これから世界一周旅行を始める人、世界一周旅行の帰路に立ち寄った人が多かった。

信仰、文化、慣習に興味を持つ旅人が多く訪れるウブド。

それは、昔も今も変わらない。

1990年半ばから、ウブドに滞在する人の種類が変わったように感じる。

年に、何度も訪れる人。

インドネシアで取得できる観光ヴィサの最長2ヶ月を利用して、滞在する人。

ヴィラを借りたり、自分で家を建て別荘として利用している人。

第二、第三の故郷として訪れている。

地元の人々は「いつ帰ってきたの!」と迎える。

長期滞在者も私も「お帰りなさい!」と声をかける。

この人たちは、リピーターと呼ばれている。

リピーターは、”関係人口”だったのだ。


”二拠点生活”という言葉も、よく聞く。

『2つの異なる地域に生活拠点を持ち、両方を使い分けて生活するライフスタイル。

平日は都市部で仕事をし、週末は地方で過ごすといったパターンが挙げられます。

都市の便利さや地方の自然など、異なる環境を同時に楽しむことができる点が魅力です』と説明されている。

昔々から、こういった暮らしをしている人はいた。

”関係人口”と違うところは、住居を持っているということかな。

これだと別荘族と一緒だ。

大きな違いは、二拠点で収入を得ているということかも。

若い人が増えているというが、就業者の過疎地への移住はハードルが高いので、比較的都会に近いところでの二拠点生活者が多いと考えられる。

二拠点での子育ては可能か、など問題点は多々あるように思う。

”関係人口”と”二拠点生活”の今後を、注目していきたい。

posted by ito-san at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 土岐市に移住 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする